鈴木 隆行(すずき たかゆき、1976年6月5日 - )は、茨城県日立市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。夫人はモデルの橋本優子。元日本代表。茨城県立日立工業高等学校では1年から国体に出場、2年の頃には地元のJリーグクラブ・鹿島アントラーズに声をかけられるほど注目されていた。3年でも中田英寿らと共にカテゴリー別の日本代表にも選出されるなど全国区の選手だった。しかし、日立工高にはサッカーを教えることのできる指導者はおらず、監督は鈴木に練習メニューを作らせていた。後に鈴木は「(鹿島入団まで)まともにサッカーを習ったことがなかった」、「ただ遊んでいただけでした」と振り返る。高校卒業後の1995年、鹿島アントラーズに入団。1996年10月16日に行われた試合(第24節)でJリーグデビューを果たした。しかしその後はトップチームでの出場機会に恵まれず、1997年3月から9月、ブラジルのリオデジャネイロ州3部リーグに新設された、ジーコが出資し自ら会長を務めるクラブ、CFZ・ド・リオへとレンタル移籍する。ここで21試合7得点の成績を挙げ、リオ州2部昇格に貢献しジーコの期待に応えた。レンタル期間終了後は鹿島へと復帰し背番号9を与えられたが、1998年度シーズンの途中にジェフ市原へ期限付き移籍。J1参入決定戦のアビスパ福岡との試合で貴重なゴールを決め、市原のJ1残留に貢献した。1999年、再びリオ州2部のCFZ・ド・リオにレンタル移籍し、2月〜9月の間で5試合に出場するも無得点に終わり、秋に鹿島に復帰。ナビスコカップ準決勝第1戦と第2戦、長谷川祥之とのツートップで、スタメン出場を果たす。柏レイソルとの決勝戦、途中出場で初の決勝の舞台に立ち、PK戦では2番目のキッカーを務めるも失敗、優勝を逃した。2000年、川崎フロンターレにレンタル移籍。リーグ戦11試合に起用されていたものの無得点、クラブも勝てなかった。そんな中行われたミーティングで松本育夫社長が選手に意見を求めた際、鈴木はチーム内に溜まっていた不満を代弁したが、それ以降出場機会がなくなった。結局シーズン途中鹿島に復帰し、リーグ5試合で2得点、ナビスコ杯5試合で3得点、天皇杯5試合で2得点。復帰後の15試合で7得点を挙げ、一気にレギュラーに定着、鹿島の「三冠」に貢献した。ナビスコカップではその活躍により、ニューヒーロー賞に選ばれた。2001年、日本代表に初招集される。4月25日のスペイン戦にて途中出場し、代表デビュー。日本で開かれたFIFAコンフェデレーションズカップのカメルーン戦では、トルシエ監督から初スタメンに抜擢され、2得点を挙げる結果を残し、マスコミなどからシンデレラボーイと呼ばれた。トルシエは鈴木の抜擢を「(鈴木の)目で決めた」と述べ(なお、トルシエは後年「本当は(アフリカ系選手に対するために)鈴木のフィジカルコンタクトの強さを買って起用した」とも明かしていた)、本人も試合直前まで知らされていなかったという。次のオーストラリア戦では肘打ちをしたと見なされ一発退場になるが、この大会以降代表に定着した。2002年、トルシエからは献身的なプレーが認められ、FIFAワールドカップのメンバーに選出。スタメン濃厚だったにも関わらず、エコノミー症候群による戦線離脱を余儀なくされた高原直泰、盲腸の手術明けで本調子でなかったトルシエジャパンのエースFW・西澤明訓らに代わり、鹿島のチームメイトである柳沢敦と共にツートップを形成。初戦のベルギー戦で本大会における日本代表の初得点を挙げる。この得点は日本がW杯で初めての勝ち点1を得る貴重な同点ゴールとなった。W杯終了後、その活躍が対戦国のベルギーで認められ、ベルギー1部リーグの名門・ヘンクに移籍する。しかし、センターフォワードではなく右サイドのウィング的ポジションで起用されることがほとんどであり、リーグ戦やUEFAチャンピオンズリーグでアシストを記録するなどしたものの、FWのレギュラーを奪えず無得点に終わる。2003年、ヘンクと選手の提携を結んでいるヒュースデン=ゾルダー(本拠はゾルダーだが、キャパシティーの問題から近隣の街・ヘンクのスタジアムを使用している)に移籍。クラブは1年で2部リーグに降格したものの、本来のセンターフォワードでまずまずのプレーをしリーグ戦5得点を挙げた。2004年、Jリーグ・第2ステージより鹿島アントラーズに復帰し、第5節アウェイの磐田戦で自身初のハットトリックを果たす(1ペナルティーゴール含む)。2006 FIFAワールドカップ一次予選ではケガで不調のエースFW久保竜彦に代わりジーコ日本代表監督に「FWの軸」として指名され、3戦連続ゴールを決めるなど活躍、AFCアジアカップでも日本の優勝に貢献する。2005年、最終予選では3試合先発するも右足首の怪我に泣き、ノーゴールに終わった。代表内でストライカー待望論が高まるにつれ、チームの決定力不足の戦犯的扱いを受ける事もあった。この頃から玉田圭司や大黒将志の台頭で代表の出場機会が減り始めて最終的には招集されなくなり、結果的にドイツW杯の日本代表最終メンバーには選出されなかった。Jリーグでは小笠原満男に代わり鹿島の選手会長を務め、リーグ戦では25試合に出場、3得点を挙げた。2006年1月末に、セルビア・モンテネグロの強豪チームレッドスター・ベオグラードに完全移籍。4月の国内カップ戦の準決勝ではアウェーでのラドニチュキ・ニシュ戦で初の先発フル出場、移籍後の公式初得点を含む2得点を挙げ、日本人選手として初めてのリーグ得点者となったが7月に入るとレッドスターのドゥシャン・バイエビッチ監督の構想から外れ、出場機会が激減。2007年1月19日、横浜F・マリノスが完全移籍での獲得を正式発表した。周囲からは横浜FCに移籍した久保竜彦の穴を埋める事を期待されていたが、その穴を埋める事は出来ず、開幕から数試合は出場したものの、その後は試合出場はおろか、ベンチメンバー入りすらできない不本意なシーズンとなった。12月1日、横浜FMより戦力外通告を受ける。その後、東京ヴェルディからオファーがあったものの、条件面で折り合いがつかずに決裂。2008年2月、米MLS・チーバスUSAと交渉、ここでも条件面等で折り合わず契約には至らなかった。2008年3月25日、米ユナイテッドサッカーリーグ・ポートランド・ティンバーズへの入団が発表された。4月26日のホームにシアトル・サウンダーズを迎えた試合で、1ゴール1アシストを記録した。2010年末、ポートランドを退団。2011年4月22日、鹿島時代に同チームで一緒にプレイした増田忠俊のTwitterにて2010年に引退し、今後はサッカー関連の仕事に就くとツイートされ、広まる。だが鈴木の所属事務所は「今後に関しては現時点で未定ですが、現役続行も含めていろいろな可能性がある状況です」として引退を否定した。鈴木の引退を発した増田も引退ではなく今後については模索中だと訂正・謝罪した。2011年6月3日、水戸ホーリーホックへの加入が決定。4シーズン振りのJリーグ復帰となった。なお本人の強い希望により、無報酬でのアマチュア契約となる。「震災が起きて、非常に経営も苦しいということを聞いていた。チームに迷惑をかけないように加入したかったので、僕の強い希望でアマチュア契約となった」2011年7月31日、愛媛FC戦で小澤司のフリーキックをヘッドで合わせて、6年ぶりのJリーグゴールを決めた。2011年度は20試合に出場し5得点を挙げる2012年からはプロA契約を結ぶことが発表された。2013年シーズンのリーグ戦ではキャリア初の2桁得点を記録した。2014年シーズン終了後、戦力外通告を受け退団が決定。2015年2月、ジェフユナイテッド市原・千葉へ移籍。「引退するかどうか迷っていた部分もあったが、また拾っていただいた。持っているものを全て出したい」千葉では2試合の出場に留まり、シーズン終了後に引退が発表された。引退会見では、引退の経緯について「今までどんな状況でも辞めたくないなと思っていたけど、10月にふと辞めようと決断しました。次に進みたいという気持ちが強くなって、プレーしたい気持ちを超えたのだと思う」とコメントし、プロのサッカーチームの監督を目指す事を明かしている。108||17||18||4||15||6||141||27128||24||colspan="2"|-||8||1||136||255||0||||||||||||21||7||||||||||||49||5||6||2||colspan="2"|-||55||76||0||1||2||colspan="2"|-||7||20||0||2||0||colspan="2"|-||2||077||4|||| ||colspan="2"|-|| || 394||57|||||||||||||2002-03||ヘンク||30||4||0 !通算!!colspan="2"|UEFA|-!通算
出典:wikipedia
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