哀帝(あいてい)は、前漢の第12代皇帝。元帝の孫にあたる。『漢書』哀帝紀の賛によれば、下半身に障害があったようである。陽朔2年(前23年)、父の定陶恭王劉康が薨去したため3歳で王位を継承した。祖母の(元帝の昭儀)と生母の丁氏が孝成皇后に賄賂を贈り、18歳の時に伯父・成帝の皇太子となった。綏和2年(前7年)に成帝が崩御すると、孝成皇太后の後楯で19歳で即位した。史書によれば哀帝は男色を好み、特に寵愛した董賢に惜しみなく財宝や称号を与え、元寿元年(前2年)12月には大司馬に昇進させた。さらに、董賢の妻や妹にまで特権を与えたのみならず、王閎に反対されて取りやめたものの、董賢に禅譲しようとまでも考えていた。亡父劉康には「恭皇」を追諡、また養母に当たる皇太后趙氏、養祖母太皇太后王氏(王政君)とは別に、実母の丁氏に帝太后、実祖母の傅氏には皇太太后を追諡している。政治面では、失敗に終わったが王侯や一般人が所有する田地や奴婢の制限を検討したが(限田法)、反対にあって実施されなかった。また任子の令を廃止するなどの改革を計画した。また、丞相を廃止し三公制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出している。当時は漢の命運がつきかけているという迷信(歴運)があり、讖(予言書)を信じた哀帝は自ら「陳聖劉太平皇帝」を称し天命を更新しようとしたが、2ヶ月で元に戻している。哀帝は丞相である朱博、王嘉を自殺させるなど臣下に対し厳しい態度で臨み、武帝・宣帝の手法を採用しようとしたが、元寿2年(前1年)6月27日、25歳で崩御した。嗣子がなかったため、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、太皇太后王氏は詔を発して董賢を罷免し、璽綬も奪った。董賢はその日のうちに自殺した。太皇太后は王莽を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。男色を意味する「」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。
出典:wikipedia
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