本駒込(ほんこまごめ) は、東京都文京区の町名。現行行政地名は本駒込一丁目から本駒込六丁目。郵便番号は113-0021。本駒込は文京区の北側に位置し、江戸時代諸藩の下屋敷や武家屋敷が置かれたことから、明治時代以降に政官財界人の邸宅が立つ地域となった。このため、今でも山手線内の高級住宅街として知られている。また、駒込富士神社や駒込天祖神社、武蔵野市の吉祥寺のルーツである諏訪山吉祥寺はじめとして由緒ある寺社が数多く点在し、東京の都心にありながら緑地に富んでいる。東京メトロ南北線の駅名で使用されているために知名度がある。旧白山通りと本郷通り、不忍通りが交差する上富士前交差点を一帯とするエリア。JR山手線・駒込駅、東京メトロ・本駒込駅が最寄り駅となる。本駒込を代表する名勝の六義園(国の特別名勝)は、徳川5代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(大老)の下屋敷に吉保自らが、和歌の世界を庭園で表現しようと設計した庭園と言われている。明治期に岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が購入し、後に東京都へ寄贈。枝垂桜でも有名。ライトアップされた景観は圧倒的。周辺の本駒込六丁目は大和郷(やまとむら)という都内屈指の住宅街がある。初代名誉郷長に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)が就任。また正田美智子(現・皇后)が雙葉学園受験のため、俵孝太郎の旧宅に移り住んだことでも知られている。衆議院議員の鳩山邦夫も居住していた。不忍通り沿いには、オフィス棟と住宅棟を擁した文京グリーンコートが1998年に完成。商業施設・飲食店なども整備され、東京都心の利便性を保ちつつ歴史や自然が残されている。住宅地の地価は、2016年(平成28年)1月1日の公示地価によれば、本駒込1-20-13の地点で141万円/mとなっている。駒込片町、駒込曙町、駒込富士前町、駒込上富士前町、駒込吉祥寺町、駒込浅嘉町、駒込動坂町、駒込神明町、小石川駕籠町などが合併されて誕生。古くからの駒込が豊島区と文京区とに分断されており、旧本郷区にあったこの地は本郷の駒込ということで住居表示の際に本駒込となった。本駒込五丁目と豊島区駒込一丁目との堺で発見された、駒込一丁目遺跡からは、弥生時代後期の遺跡が発見されている。これまで20軒を超える竪穴式住居が発掘されている。同じく、本駒込五丁目の駒込富士神社の境内にある駒込富士は前方後円墳の古墳といわれている。全国古墳編年集成では500年代末の前方後円墳とされている。本駒込三丁目の動坂遺跡は、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見された珍しい場所である。縄文遺跡は、縄文中期の住居跡と土器だった。近くの西ヶ原でも旧石器時代の出土品や縄文時代の集落跡が見つかっている。江戸時代の遺跡は、8代将軍徳川吉宗の鷹匠の屋敷跡だった。現:駒込病院には動坂貝塚記念碑がある。本駒込および文京・豊島周辺エリアは東京圏の歴史学上、非常に興味深いエリアとも言える。駒込は日本武尊がその昔、東夷征伐のおり、この界隈から軍馬を集めたところ、たちどころに千頭以上の軍馬が集まり、この様を見て「駒混みたり」と評され、素盞烏山(いるさやま)を「駒込林」と唱えたことから農民が住むようになり駒込村となる、との説があり、ルーツは日本の歴史の原点までさかのぼる。本郷通りは江戸時代、日光御成道とも呼ばれ、徳川将軍家が日光東照宮に参拝する道として決められていた。本郷通りと上富士前交差点で交わる不忍通りが開通したのは明治以降。本駒込三丁目には、明暦の大火と江戸大火によって移転してきた諏訪山吉祥寺があり、武蔵野市の吉祥寺の由来である。現在の吉祥寺は、諏訪山吉祥寺の門前で商売をしていた商人たちが武蔵野へ移り住んで興した町で、吉祥寺には寺が存在しない。幕末に幕臣として最後まで抵抗を続け、その後新政府の外交官・閣僚を歴任した榎本武揚の墓がある。江戸時代(現:本駒込五丁目・駒込一丁目)にかけた場所は、旗本の本郷丹後守の屋敷跡で、1869年に維新の三傑木戸孝允が、別宅とした。木戸が晩年病になり養生しているところへ、明治天皇が2度に亙って見舞っている。戦前までは聖跡に指定され、行幸の碑がある。付近には木戸坂という坂がある。今の街が形成された江戸・明治から時代を遡ってみると、駒込の地名は多数歴史に登場している。駒込には富士講、鷹匠屋敷、名産の駒込茄子があり、江戸っ子の間で「駒込は一富士二鷹三茄子」と縁起の良い土地として語られた。地内に鉄道駅はないが、本駒込駅(東京メトロ南北線、所在地は向丘)、駒込駅(JR東日本・東京メトロ南北線、所在地は豊島区駒込)、巣鴨駅(JR東日本・都営地下鉄三田線、所在地は豊島区巣鴨)、千石駅(都営地下鉄三田線、所在地は千石)が利用できる。
出典:wikipedia
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