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雅山哲士

雅山 哲士(みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、藤島部屋(入門時は武蔵川部屋)に所属していた元大相撲力士。現在は年寄の二子山雅高(ふたごやま まさたか)。茨城県水戸市出身。本名は竹内雅人(たけうち まさと)、愛称はマサト。身長187cm、体重188kg、血液型はO型。最高位は東大関(2001年(平成13年)3月場所)。好きな食べ物はリンゴ、焼肉。好きな飲み物は酒、ブラックコーヒー。ZARDとやなせたかし作『アンパンマン』に登場するメロンパンナのファン。得意技は、突き押し相撲だが、四つでも取れた。相手の顔面に向けて行なわれる小刻みな突き・腕の動きを効果的に使う取り口が特徴的。また、重い突きを繰り出してから土俵際を回り込みながらの引き、叩きの巧さもあった。腰が重い力士としては珍しく足腰が強い力士であり、対戦相手がいなしたり、出し投げを放とうとしても、その恐るべき足腰のバランス感覚でクルリと1回転して難なく相手をかわしてしまう技術は高い評価を受けていたが、体重の影響による足の怪我も少なくなかった。実家は旧茨城交通グループのオーナー一族。小学校の先生に「相撲で勝ったら、焼肉食べ放題に連れていってやる」と言われたことがきっかけとなって相撲を初め小学校時代は「水戸尾曽相撲道場」で相撲を教える武双山の父に指導を受け強くなった。子どもの頃好きだった力士は琴椿である。水戸市立見川中学校時代は柔道部に在籍していたが後に柔道部の先生に直談判して相撲部を作ってもらった。1997年9月の東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級と1998年4月の全日本大学選抜相撲宇和島大会で優勝して大学2冠を達成すると早々と明治大学を3年で中退して当時の武蔵川部屋に入門し、1998年(平成10年)7月場所に幕下付出で初土俵を踏む。当時の幕下付出条件としては、1997年の全日本相撲選手権大会で3位入賞の実績を残していた。中学時代からのライバルだった東洋大学の岡部(のちの関脇・玉乃島)が中退して角界入りしたことも動機のひとつだった。2場所連続幕下優勝で同年11月場所に十両に昇進した。勢いは止まらず初土俵から4場所連続優勝という記録を作り、1999年(平成11年)3月場所には新入幕を果たした。このときの番付は東前頭7枚目であった。当時は早すぎる昇進のために髪の長さが足りずに髷が結えず、長髪の荒々しい風貌から「20世紀最後の怪物」と呼ばれ、右肩のコブが印象的な力士だった。またこの場所は9勝6敗で敢闘賞を受賞した。初土俵から所要5場所で初三賞を獲得したのは2014年現在の最速記録である。2000年(平成12年)1月場所に新小結で12勝3敗、優勝次点の好成績だった。翌3月場所と5月場所には関脇の地位で、2場所連続で11勝4敗を挙げる。「三役の地位で場所合計34勝」の成績により、5月場所後に大関昇進が決定する。初土俵から所要12場所で大関に昇進した記録は史上1位となる。しかし、相撲にこれといって強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、さらに当時の武蔵川部屋には横綱に武蔵丸、大関に武双山・出島がおり、「この3力士と対戦せずの3場所34勝は物足りない」という意見も出ていた。通常ならば、「満場一致の賛成」となる相撲協会理事会での大関昇進推挙の議題に対し、理事10名の内3名も反対者が出る異例の事態となり、その行く末は当初から不安視されていた。新大関の2000年7月場所は、初日の栃東戦で右肩を怪我した影響で6勝9敗と負け越し。翌9月場所はいきなり大関角番となり、勝ち越して角番を脱したものの8勝7敗だった。その後も負け越しては角番脱出の繰り返しが続き、2001年(平成13年)7月場所では千秋楽に敗れ7勝8敗と負け越し。3度目の角番で迎えた2001年(平成13年)9月場所でも序盤から波に乗れず、9日目の海鵬戦で左足首関節及び左足根骨脱臼の大怪我に見舞われて途中休場、同部屋の出島の後を追うように場所後関脇へ陥落してしまう。また大関の在位数はわずか8場所で、短命大関としての順位は、昭和33年(1958年)に大相撲本場所が年6場所制となって以降、大受、在位5場所)・増位山に次いでワースト3位の記録である。さらに大関在位時代の二桁勝利は一度も無く、大関時の成績が57勝58敗5休と通算敗北数が勝利数を上回るなどし、相撲雑誌の識者による座談会ではかつてのキャッチフレーズにかけて「21世紀最初のお荷物」などと言われる有様だった。さらに24歳3ヶ月での大関陥落は、大受と並んで最年少記録である。関脇に陥落した平成13年(2001年)11月場所は公傷全休が適用され、平成14年(2002年)1月場所では関脇の地位で10勝以上挙げれば大関特例復帰だったが、怪我の回復が大幅に遅れ又も全休。公傷適用では無い為、翌3月場所は東前頭8枚目まで下がってしまったが、9勝6敗と5場所ぶりに勝ち越した。しかしその後も暫くは平幕の地位に低迷、時折三役に上がっても全く勝ち越せない状況が続いた。平成15年(2003年)1月場所では横綱貴乃花との取組で疑惑の判定に巻き込まれた上に右足を負傷するなどの不運を被った(後述)。だが、平成16年(2004年)7月場所に平幕で12勝3敗と優勝次点の好成績を挙げて大勝し、翌9月場所に関脇に戻ると9勝6敗の成績を挙げ、大関昇進を決めた場所以来となる三役での勝ち越しを果たした。それ以来上位に定着して、再度の大関挑戦を期待されるようになる。再大関を狙う中で父が死去するなど心労に見舞われたことでここまで持ち直すのに時間がかかったという。前頭4枚目で迎えた平成17年(2005年)11月場所は当時の3大関(魁皇、千代大海、栃東)全員を倒し10勝5敗の成績を挙げ、大関陥落後初めてとなる三賞(敢闘賞)を受賞した。平幕に据え置かれた翌平成18年(2006年)1月場所も先場所と同じ顔ぶれの3大関を破る(この場所新大関の琴欧州には敗れる)活躍を見せて8勝7敗と勝ち越した。更に小結に戻った翌3月場所も西小結の地位で琴欧州、千代大海、栃東の3大関を倒す活躍で10勝5敗の成績をあげ、大関再昇進への足がかりをつかんだ。続く5月場所では序盤から快進撃を見せ、新大関の白鵬を含む対戦した全4大関を撃破し、千秋楽までと白鵬ともに優勝争いをリードした。結局白鵬との優勝決定戦にもつれ込んだが、白鵬の汗に突っ張りが滑り惜しくも敗れ初優勝を逃した。それでも成績は14勝1敗の好成績で、翌場所に大関再昇進を賭ける事になった。その平成18年7月場所では、序盤こそ緊張から苦戦したが終盤5連勝し、結局10勝5敗で場所を終えた。これで1度目の大関昇進時と同様に「三役の地位で合計3場所34勝」の成績となり、審判部の判断が注目されたが、不運にも大関再昇進は見送られた。この理由として、直前場所10勝5敗での昇進は昭和40年代以来ほとんど例が無かった事や、10日目を終えて5勝5敗と優勝争いに全く参戦できなかった事、また雅山が再昇進すれば当時前例の無い1場所6大関という番付構成になることも不利に働いてしまった。さらに綱獲りが掛かっていた白鵬が、雅山の大関昇進と同時にところてん式に横綱昇進を果たしていれば5大関に収まったが、白鵬の横綱昇進も見送られる結果となった。再び大関再挑戦の場所となった翌9月場所では、9日目まで既に5敗目を喫してしまい、結果9勝6敗と勝ち越したが又も大関復活はならなかった。しかしその9日目、白鵬との取組で善戦するなど(本人曰く『今場所最高の相撲』)して、終盤にかけて気持ちを切らさなかった事を高く評価された。当時の北の湖理事長は「大勝ちすれば、話題性の出てくる可能性はある。よくここまでもってきた」とコメントするなど、大関復帰の可能性は残っていると見られた。しかし、翌11月場所は千秋楽にようやく勝ち越しの8勝7敗という成績に留まった。さらに続く平成19年(2007年)1月場所では5勝10敗と大負けし、5場所連続で務めた関脇の座から平幕へ陥落してしまい、再大関の夢は潰えた。もともと押し相撲主体ながら四つの巧さも持っており、大関陥落後暫くは四つ主体にすべきか迷った時期もあったが、その迷いを捨てて突き押しを徹底したことが、この頃の好調の原動力になっており、相撲の内容は大関昇進から在位時代より遙かに上回っているとされていた。平幕に下がった翌2007年(平成19年)3月場所2日目の朝青龍との取組では、横綱の足をぐらつかせるほどの激しい突っ張りの後、寄り倒して勝った。これが自身初の金星であった。朝青龍は前日の初日に小結・時天空に敗れており、これで2連敗スタートとなった。2日連続で大阪府立体育館内を大量の座布団が舞った。その後も7日目まで4勝3敗であったが、7日目に旭天鵬を寄り切った際に、右の太ももを痛め、中日から休場した。再大関失敗から暫くして母が死去したことで深く悲しみ、本場所で花道に控える付け人に母の遺影を掲げるように頼んだ時期もあった。それ以降は約5年間、平幕の地位であった。関脇を滑った当初は横綱・大関と対戦する幕内上位でも健闘していたが、次第に上位では大負けするようになった。平成21年5月場所では、入幕以来初めての前頭2桁台(11枚目)まで下がってしまった。しかし中位ではまだ頭一つ抜けた存在であり、大勝も収めている。平成20年(2008年)9月場所では再び朝青龍から金星を挙げたが4勝11敗の大敗に終わった。翌11月場所では、初日から7連勝を果たし、9日目に勝ち越しを決め、中盤戦まで優勝争いに絡んだ。終盤に失速したものの10勝5敗と平成18年7月場所以来の2ケタの白星を挙げた。それから1年後の平成21年(2009年)11月場所では、西前頭9枚目の地位で12勝3敗を挙げ、白鵬と優勝を争った平成18年5月場所以来となる3年半ぶりの三賞(敢闘賞)を受賞した。2010年(平成22年)に起きた大相撲野球賭博問題では野球賭博に関わったとされ、特別調査委員会から名古屋場所での謹慎休場を勧告され、相撲協会もそれを受け入れている。7月場所は謹慎のため全休となり、翌9月場所は東十両2枚目に陥落となった。元大関での十両陥落は1977年の大受以来2人目の珍事。しかし同場所では元大関の実力を見せ付け、12勝3敗の好成績を挙げ1場所で幕内に復帰した。2011年(平成23年)3月3日、大相撲野球賭博問題に関する「賭博開帳図利容疑」で書類送検された。2011年11月場所では西前頭6枚目で11勝4敗の好成績を収め、翌2012年(平成24年)1月場所は東小結に復帰。2007年1月場所以来29場所振りに三役へ返り咲いたが、元大関で十両まで陥落した後に三役復帰を果たしたのは、雅山が大相撲史上初めてとなる。2012年の1月場所は初日からの6連敗が響き、11日目に負け越し。中日に大関の琴奨菊を叩き込みで下す殊勲の星を挙げたものの、3勝12敗の大敗に終わった。3月からは、加齢による衰え、足裏にまで巻かれたテーピングや足袋の所為か、膝から滑って落ちる負け方が目立つようになった。2012年3月場所には西前頭9枚目の地位で8勝7敗と勝ち越したが、西前頭5枚目で迎えた5月場所は4勝11敗と大きく負け越した。その後、7月場所は8勝7敗と勝ち越すも、9月場所は5勝10敗の負け越し。11月場所は西前頭11枚目の地位で相撲を取り、ここで5勝10敗の負け越しを喫したため、番付運次第では翌場所の十両陥落が起こりうる状況にあったが、1月場所番付発表では東前頭16枚目に付けており、幕尻より半枚上の番付に留まることができた。2012年12月には心臓に痛みが走る症状が現れただけでなく脳梗塞まで疑われ、決定的な故障を発した中で出場した2013年1月場所は初日から8連敗で負け越してしまった。負け越しが決まった翌日に玉鷲を引き落としで破りようやく初場所初勝利を挙げた際には館内が暖かい拍手に包まれ花道で思わず涙を流した。そして「(十両陥落は濃厚だが)まだ気持ちは切れていない」と十両陥落となった場合でも土俵に上がる決意を表した。この場所は3勝12敗で取り終えた。翌3月場所は東十両9枚目となり、自身2度目(元大関大受を含めると史上3度目)の十両陥落となり、さらに自身の持っていた元大関の最低地位の記録を更新してしまった。さらにその場所も10日目に負け越してしまい、13日目で幕下への陥落が濃厚となり、鬼嵐に勝って3勝12敗で取り終えた千秋楽当日の3月24日、ついに現役引退を表明。年寄「二子山」を襲名し、後進の指導にあたることとなった。尚引退した同年3月場所で、雅山は大関陥落後に関脇以下の地位を務め続けて68場所となったが、これは2009年7月場所限りで引退した出島武春(武蔵川部屋)の48場所を大きく超える史上最長記録となった。2013年9月30日、現役引退及び年寄二子山襲名の報告の為に茨城県庁に赴いた際に、橋本昌茨城県知事から長年の相撲界への功労を讃えられて『茨城県特別功労賞』を授与された。2014年1月18日、自伝の『雅ノート』を実業之日本社から出版した。2014年2月1日に引退相撲が両国国技館で行われ、8000人の来客が集まる中で引退相撲の取組相手として長男を選び、押し出しで敗れた。断髪式では先代武蔵川夫妻ら270人がはさみを入れ、師匠の藤島が大銀杏を切り落とした。その後は藤島部屋付き年寄として後進の指導に当たっているが、将来は二子山部屋を独立する意向であり、独立時に必要な内弟子も既に入門している。二子山部屋といえば横綱・大関を輩出し、かつての大相撲人気を支えた部屋の名前であるが(部屋自体は貴乃花部屋に改称して2004年に消滅)、これについては「偉大な名前を引き継ぐことができた。自分も(強い)イメージを残せる部屋を目指したい」と語っている。協会の業務では2015年1月29日付の職務分掌で記者クラブの担当として広報部に配属され、2016年3月には日本相撲協会の評議員に就任した。この場所西前頭筆頭だった雅山は2日目、休場明けの横綱貴乃花と当たった。取り組みでは雅山の二丁投げが決まって貴乃花は裏返しになって左肩から落ちた。多くの人が雅山の勝利であると確信し、また立行司木村庄之助の軍配も雅山の方を指した。しかし勝負審判から物言いがつき、「両者同体」という判定により取り直しとなった。取り直しの一番では貴乃花の上手投げが決まり、雅山は敗れた。しかしこの取組直後から、雅山が勝っていたとする抗議の電話が、相撲協会とNHKに、100件以上も殺到した。また、雅山は最初の二丁投げを放った際、右足関節外果を剥離骨折しており、それをおして出場した翌日の大関朝青龍との取組に負けた相撲で更に悪化させ、4日目から休場した。一方の貴乃花も、投げを喰らった際に左肩鎖じん帯を損傷させ翌日から途中休場。ケガが完治しない中5日目から再出場したが、結局8日目の取組後に貴乃花は現役引退を表明した。当の雅山はこの一番を「横綱と二番とれたのは、少しは力がついてきた証拠かなと自信につながりましたね。」と前向きに受け止めていた様子を引退後に語った。ちなみに雅山は、貴乃花と11回幕内で対戦はしたものの、一度も勝利することは出来なかった。最高位が大関でありながら10回以上対戦して全敗した記録は雅山以外では汐ノ海が羽黒山に対して13戦全敗した例があるだけである。 (カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太文字は2015年現在、現役力士)

出典:wikipedia

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