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捕虜

捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」等定められている。第二次世界大戦以前の日本においては、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。なお、古代中国においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえる事を捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。近代国際法が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、奴隷にされたり殺されたりした。一方、能力を認められた者は厚遇して迎え入れられることもあった。中世ヨーロッパでは相手国や領主に対し捕虜と引き換えに身代金を要求する事がよく行われた。ただし李陵(前漢の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは奴隷でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。加えて、捕虜に対して安易に虐待や殺害を行うことは、敵兵に投降の選択を失わせ戦意を向上させてしまう恐れもあることから、その意味でも捕虜に対して相応の扱いをする例はあった。日本の鎌倉時代末期において、前述の事情から助命されるだろうと期待して、赤坂城の反幕府の兵士が幕府に降伏した所、予想に反して全員が殺害されてしまい、それがために同じく反幕府の千早城の兵が激怒し、かえって戦意が高まったという逸話がある。また、乱戦の中や負傷時に意に反して敵方に捕縛されるケースなどはともかく、自らの意志により投降することは、すなわち敵方に仕えようとする意志表示とみなされた。そのため多くの社会において投降は利敵行為同様の犯罪とされた。11世紀に活躍したシャーフィイー学派の法学者で、古典イスラーム国法学の祖とされるマーワルディーは、著書『統治の諸規則』()の「第12章 ファイとガニーマの分配について」においてムスリム軍によって捕虜となった異教徒の兵士の処遇について、法学者の意見が分かれていることを予め説明しており、主要法学派の名祖3人の見解を述べている。シャーフィイー学派の名祖シャーフィイーの説では、イマームまたはその代理としてジハードの指揮を任された人物は、異教徒の捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金の支払いもしくはムスリムの捕虜との交換による釈放、4)身代金なしで釈放の恩恵を与えるか、4つの選択肢を任意で行える、としている。もしこの時イスラームに改宗した場合、死罪は課せられず、他の3つの選択肢から選ばれる。マーリク学派の名祖マーリク・イブン・アナスの説では、同じく捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金では無くムスリムの捕虜との交換、の3つの内から選ばねばならず、恩赦は認められない、としている。ハナフィー学派の名祖アブー・ハニーファの説では、殺害するか奴隷にするか2つに1つのみである、といい恩赦も身代金との交換も認められない、としている。シャーフィイー学派の法学者のマーワルディーは「しかしながら」として、恩赦と身代金に関する『クルアーン』の「それから後は、情けをかけて釈放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をしっかり下ろしてしまうまで待つが良い」(第47章 5 [4]節)という文言を引用し、ムハンマドのハディース(言行録)をいくつか引用してマーリクとアブー・ハニーファの論を否定している。マーワルディーが述べる戦争捕虜の処遇としては、預言者ムハンマドが624年のバドルの戦いで身代金を受け取り、ついで味方の捕虜ひとりに対して敵の捕虜ふたりと交換した例を引く。また、改宗を拒んでいる捕虜については、イマームはシャーフィイーのあげた4つの選択肢のうちひとつを選んでも彼らの処遇について丁寧に調べて決定を再度熟慮することを促している。イマームは最大限に慎重さをもって以上の4つの選択肢を選ぶべきである、とマーワルディーは述べる。しかし、「多神教徒の捕虜のなかでも、害をなすことが大きく、悪意が強い故に殺すことが認められた者でも、イマームは恩赦を与えて釈放することができる」と述べている。女性や子供の捕虜の場合、ムハンマドの慣行に従い死刑は免除される。また奴隷にされたときも母子が離されることはない。ただし、これはハナフィー学派の場合であり、シャーフィイー学派によれば、「啓典の民」以外の異教徒なら女子供であろうと殺してよいとしている。また、女性の捕虜が兵士たちの「戦利品」として分配され、分配を受けた兵士はその女性を強姦して自分のものとする権利が与えられることもあった。これについてはスンナ派のハディース集『「真正集』(ブハーリー著)に記述があり、そこでは預言者ムハンマド在世中のイエメンへの遠征の際アリーが他の兵士の取り分であった女性を横取りして強姦したため、自分の権利を侵害された兵士がムハンマドに直訴し、逆に諭されている。また戦争捕虜となった女性のなかには奴隷化される人も少なくなかったが、その場合、男性の性的欲求を処理する「道具」(性的奴隷)となることもあり、イスラーム世界の上流階級のハレムの人員の供給源となった。現代の戦時国際法は、「実際に戦闘に従事した捕虜であっても、正当な理由があり、裁判などの正当な手続きを踏まなければ死刑に処してはならない」と定めている。しかし、イスラーム戦争法では、「戦闘にまったく従事していない民間人の捕虜であっても、健康な成人男性である場合は戦闘員の捕虜と同様に扱われ、裁判なしでも司令官の一存で死刑に処することが認められる」とされている。なお、司令官の側に処刑が義務付けられているわけではない。2004年のイラク日本人青年人質殺害事件で、人質を殺害したイスラーム武装組織の行動もこの論理を踏まえたものとされ、イスラーム専門家である中田考は「イスラーム法上、殺害は合法である」と述べた。南北戦争の初期においては相互の捕虜交換が完了するまで武器をとらぬ旨の宣誓を行えば捕虜は仮釈放され、書類上の捕虜交換後に再び軍務に復帰できた。しかし後に南軍における北軍側の黒人兵の惨殺事件の後、北軍は黒人捕虜の扱いを白人のそれと同等とするよう要求し、南軍と政府がそれを拒否したため捕虜交換制度は終焉を迎え、双方で捕虜収容所の建設が始まった。近代国際法が確立されるにつれ、捕虜は保護されるべきものであると考えられるようになった。そのため、1899年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)以降、各種条約によって明文を以て保護されるようになった。それによって近代的軍隊においては、任務を果たすための努力を尽くした上で、万策尽きた際に捕虜になることは違法な行為ではないものとされる。理念的には、封建的な軍制や傭兵の時代から、近代市民兵の時代へと移行し、個人の権利保護が重要になったからである。それだけでなく、捕虜になることを全て違法とすることが、軍事的なデメリットをもたらすことも少なくない。他方で、捕虜を受け入れる側も、捕虜を保護しないことにはデメリットがあり、捕虜を保護する事が考えられるようになった。もっとも、上記はあくまで万策尽きた際の問題であり、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」とされ厳罰を受けることが通常である。また正当な事由でやむなく捕虜になった後も、軍機情報の供与といった積極的な対敵協力を行うことは軍法に反することが一般的である。1949年8月12日のジュネーヴ条約4規程及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。第3条約「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a, 指揮者の存在、b, 特殊標章の装着、c, 公然たる武器の携行、d, 戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。最近では軍隊とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている。交戦者資格を持たない文民は第4条約で保護されているが、積極的に戦闘行為を行い捕縛・拘束された場合は、捕虜ではなく通常の刑法犯として扱われるのが原則である。裁判は現地部隊で行われる略式裁判(特別軍事法廷)も含まれ、しばしばその場で処刑される。第3条約は、捕虜の抑留は原則として「捕虜収容所」(俘虜収容所)において行うことを予定している。ジュネーヴ条約は次の4つの条約および二つの追加議定書から構成されている。捕虜は、尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(第三条約第17条第1項)。原則としてこれ以外の自軍や自己に関する情報を伝える義務は無い。捕虜は、抑留国の軍隊に適用される法律、規則及び命令に服さなければならない。抑留国は、その法律、規則及び命令に対する捕虜の違反行為について司法上又は懲戒上の措置を執ることができる(第三条約第82条)。将校及びそれに相当する者の収容所又は混合収容所では、捕虜中の先任将校がその収容所の捕虜代表となる(第三条約第79条第2項)。将校が収容されている場所を除くすべての場所においては、捕虜の互選で選ばれた者が捕虜代表者となる(同条第1項)。捕虜代表は、捕虜の肉体的、精神的及び知的福祉のために貢献しなければならない(第三条約第80条第1項)。将校を除く捕虜は、抑留国のすべての将校に対し、敬礼をし、及び自国の軍隊で適用する規則に定める敬意の表示をしなければならない(第三条約第39条第2項)。捕虜たる将校は、抑留国の上級の将校に対してのみ敬礼するものとする。ただし、収容所長に対しては、その階級のいかんを問わず、敬礼をしなければならない(同条第3項)。近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至ったが、捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。捕虜を保護し、それを知らしめる事により早期の降伏を促す事のメリットは上記で述べた通りであるが、現実には捕虜を適正に扱うにも食糧や医薬品の提供などの負担が必要であり、補給の途絶や不足が生じた場合にはその余裕がなくなる。よって捕虜の虐待は、そういった余裕の無い場合に頻発した。第2次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。第二次世界大戦では、西部戦線におけるマルメディ虐殺事件などが知られている。また捕虜には、ジュネーヴ諸条約の規定を越える情報を提供する義務は無いため、必要な情報を得るために拷問などの虐待が行われるケースがある。近年ではイラク戦争において、アメリカ軍による捕虜虐待事件が起きている。また、国際的な戦争においては、捕虜と管理する敵国の将兵の間に文化の違いがあるケースがあり、これにより将兵に虐待の意図がなくとも、捕虜にとっては虐待をされたと解されてしまうケースも考えられる。有名な逸話としては、第二次大戦中、日本の捕虜収容所で捕虜にゴボウを食べさせた結果「木の根を食べさせた」として捕虜虐待として処罰されたとする事例がある。真偽には疑問がもたれているが、NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』でも紹介された有名な話であり、捕虜の管理における一つのリスク要因を示している。また捕虜に医療行為として灸を行った事が虐待とされ、笹川良一は誤解を説くために奔走したと自著に記している。またイギリス軍では、ドイツ軍の捕虜の健康のために食事メニューにマーマイトを支給したが、これがあえて粗末な食事を供する虐待と誤解されたという逸話もある、例えば、日本陸軍で適用された陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では、と定めて、濫りに投降することを制限していた。しかしながら同時にこれは、然るべき場合においては投降する事が認められていた事をも意味している。日清戦争においては、清軍兵士が捕虜である自覚が全く無く集団で反抗する事が日常茶飯事であったこと、清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことから、日本側でも清軍の捕虜の扱いは酷いものであった。日露戦争、第一次世界大戦などでは、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。ただし前述の経緯から、非白人の捕虜に対しては、白人の捕虜ほど厚遇はされなかった。そういう差別があったため、あくまで近代国家を目指す日本の欧米に向けたポーズでしか無かったという指摘もある。また、日本側で捕虜となった人間の扱いも後世と異なっていた。例えば、旅順要塞降伏後、日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されたが、彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ、冷遇されることは無かった。海軍捕虜の一人であった万田松五郎上等機関兵曹(第三次閉塞作戦で「小樽丸」に乗り込み、捕虜となる)は、解放後に上京し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将に面会して作戦状況の報告を行い、記念に金時計を授与されている。また、陸軍においても開戦直後の明治37年2月19日、義州領事館に所在して情報収集活動をしていた韓国駐在陸軍武官・東郷辰二郎歩兵少佐がロシア騎兵部隊の包囲を受けて部下の憲兵5名(中山重雄憲兵軍曹、坪倉悌吉憲兵上等兵、古賀貞次郎憲兵上等兵、牛場春造憲兵上等兵、山下栄太郎憲兵上等兵)とともに降伏、捕虜になり(日露戦争における捕虜第1号)、ペテルブルクの収容所で捕虜生活を送った後、戦後の明治39年2月14日に帰国したが、任務遂行中に捕虜になった不注意で軽謹慎30日の処分を受けたのみであり、東郷少佐は後に少将まで昇進している。 "(同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の取扱いについて詳述されている。)"この戦いは国家対国家の正式な戦争ではなかった事、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受ける事がしばしばあった事(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の扱いにおいての転換点となった。日中戦争やノモンハン事件では、人事不省の状況などで捕虜となった日本兵が捕虜収容所からの脱走や停戦後の捕虜交換で生還する例があったが、その一部は帰国後に自決を強要されたり懲罰的に戦死に追い込まれたりすることもあった。捕虜の中には身柄送還を拒否してソ連に亡命する者もいた。そもそも投降より自決を選んだ兵士も多く、捕虜になるよりも死を選ぶようになる。また、南京事件では便衣兵の殺害が問題とされた(南京事件論争)。便衣兵とは軍服を着用しない兵士のことで、捕虜とは異なる。日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れた事と言われる。捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や玉砕の動機となった。日本軍は竹永事件などきわめて少数の例外のほか組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。この事は欧米と比べとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。一方で、捕虜となった際に敵による尋問や強要を切り抜けるための教育がなされなかった上、捕虜となったことを日本軍に通知されることを極度に恐れた日本兵捕虜は、投降前や投降直後の態度とは一転して積極的な対敵協力者になる例が多くあった。また集団心理から恐慌状態となり、カウラ事件のように絶望的な反乱を起こした例もあった。また、投降を認めない事により、不利になった戦線をあえて見捨てるという非情の決断が不可能になり、作戦の自由度を大きく削ぐという問題も生じている。キスカ島撤退作戦が「奇跡の作戦」として特筆されているが、裏を返せば他の撤収作戦は失敗している事と、救出を諦め守備兵の降伏を認めるという選択肢が当時の日本軍には無かった事をも意味している。海軍乙事件のように、遭難した高級将校がゲリラに捕縛され、後に解放され帰還した事件で、これを敵の捕虜となったと看做すかどうかという事のみが重要議題となり、機密文書を奪われたという重大事についての議論がおざなりになるという、滑稽な事態も起きている。連合国側は、開戦直後から日本にジュネーヴ条約の相互適用を求めた。日本は陸・海軍の反対でジュネーヴ条約を批准しておらず、調印のみ済ませていた。日本側は外務省と陸軍省などの協議の結果、ジュネーヴ条約を「準用」すると回答した。回答を受けたアメリカ・イギリス側は批准と同等と解釈した。そのため、捕虜とした連合国兵士の扱いについては戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。太平洋戦争では、特に緒戦において連合国軍軍隊の大規模な降伏が相次ぎ、日本側は相当数の捕虜を管理することとなった。大規模な捕虜が出た戦いとしては、フィリピンの戦い、蘭印作戦、シンガポールの戦い、香港の戦いなどがある。これら多数の捕虜の取扱いについて、必ずしも十分な保護が与えられず、バターン死の行進、サンダカン死の行進などの事件が生じた。その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら、日本の予想人数を大幅に超えたことや、日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。また、捕虜の扱いを軽視していたため、俘虜管理部の軍での地位は低く、ジュネーヴ条約の内容について、管理者に指導することもなかった。戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国による東京裁判、軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。東京裁判は判決で、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士132,134人のうち35,756人(約27%)が死亡したと指摘している。捕虜となった連合国将官としては、米国軍では、ジョナサン・ウェインライト中将(フィリピンの戦い)、エドワード・P・キング少将(フィリピンの戦い)、ウィリアム・シャープ少将(フィリピンの戦い)などがいる。英国軍では、アーサー・パーシバル中将(シンガポールの戦い)、クリストファー・マルトビイ少将(香港の戦い)などがいる。蘭国軍では、ハイン・テル・ポールテン中将(蘭印作戦)、ペスマン少将(蘭印作戦)などがいる。1945年(昭和20年)9月2日に調印された降伏文書では「下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ」とあり、俘虜の取扱いは日本と連合国との間で重要な事項とされた。そのため、1945年(昭和20年)12月1日に発足した第一復員省にも大臣官房俘虜調査部(初代部長は坪島文雄中将)が置かれた。日本国憲法第9条は自衛権を放棄していないという政府見解はあったものの、人道に関する国際条約(いわゆるジュネーヴ4条約)の国内法制については、有事法制研究においても所管省庁が明確でない法令(第3分類)とされており、自衛隊法第76条の規定により防衛出動を命ぜられた自衛隊による捕虜の取扱い等を具体的に定める法制は未制定であった。この変則的な状態を解消するため、2004年(平成16年)に行われた一連の事態対処関連法制の整備に際して、国際人道法の的確な実施のための法制として、「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律」(平成16年6月18日法律第117号)(以下「捕虜取扱い法」という。)が制定された。捕虜取扱い法は、その第1条で「この法律は、武力攻撃事態における捕虜等の拘束、抑留その他の取扱いに関し必要な事項を定めることにより、武力攻撃を排除するために必要な自衛隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるようにするとともに、武力攻撃事態において捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(以下「第三条約」という。)その他の捕虜等の取扱いに係る国際人道法の的確な実施を確保することを目的とする。」と謳っている。その主な内容は、捕虜等の人道的な待遇の確保、捕虜等の生命、身体健康及び名誉に対する侵害又は危難から常に保護すること、その他捕虜等の取扱いに係る国の責務を定めた「総則」、捕虜等の拘束、抑留資格の確認等に関する手続、権限等を規定した「拘束及び抑留資格認定の手続」、「捕虜収容所における抑留及び待遇」、捕虜等の抑留資格認定及び抑留中の懲戒処分に対する不服申立ての審理手続等を規定する「審査請求」、捕虜等の送還等について規定する「抑留の終了」、及び捕虜等の拘束及び抑留業務の目的達成に必要な範囲での自衛官による武器の使用の規定、捕虜等が逃走した場合の再拘束の権限並びにそのために必要な調査等に関する規定を設けた「補則」等からなっている。また捕虜取扱い法の附則により自衛隊法が改正され、捕虜取扱い法の規定による捕虜等の抑留及び送還その他の事務を行う自衛隊の機関として、(武力攻撃事態に際して)臨時に捕虜収容所を設置することができるようになった(自衛隊法第24条第4項、第29条の2第1項)。この捕虜収容所の所長は、第三条約の規定を踏まえ幹部自衛官が任じられる(第三条約第39条第1項、自衛隊法第29条の2第2項)。

出典:wikipedia

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