LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

児島地域

児島地域(こじま ちいき)は、岡山県倉敷市の行政上の地域区分。同市南東部に位置し、倉敷市役所児島支所の管内にあたる。かつての児島市に相当し、1967年2月1日、旧倉敷市・玉島市との3市による新設合併で新倉敷市となった。本項では児島市についても述べる。児島は瀬戸内海に面した岡山県最南端(島嶼部を除く)の児島半島西部に位置する面積約80km²、人口約7万5千人の地域である。また、1988年4月10日に完成した瀬戸大橋(本州四国連絡橋のうちの「児島・坂出(香川県)ルート」)の本州側の起点でもある。古くから海運業や製塩業、繊維業が栄え、現在も学生服・ユニフォーム・ジーンズ等を代表とする繊維(アパレル)産業が盛ん。日本産ジーンズ発祥の地としても知られている。観光面では瀬戸内海国立公園の主要景勝地の一つである鷲羽山や王子が岳、中世からの港町である下津井などを有する。なかでも、鷲羽山は瀬戸大橋と瀬戸内の多島海を眺めることのできる絶景ポイントとして県内有数の観光地となっており、市内の観光客数でも倉敷美観地区に次ぐ。近年ではジーンズの生産工房や鷲羽山、歴史を巡る定期観光バスを走らせるなどして全国にアピールしている。児島の立地する児島半島は近世初頭の干拓により本州と陸続きとなる以前は島であった。倉敷市内でも自然豊かな地域であり、市内の緑地の大半が、また、数少なくなった砂浜などの自然海岸を有し、地域中央部を占める山から海へ小河川が四方に流れる複雑な地形と景観を見せる。海に囲まれた地形的特徴から大きな河川は発達せず、古くから多くの溜池が作られた。大部分は現在でも維持されており、地域の景観的特徴の一つとなっている。地域を地形的に区分すると、北西側の鴨ヶ辻山系から北東の由加山系を境に大きく二つに分けることができ、北側で児島湾へ向かって東流する郷内川、南側で瀬戸内海(味野湾)へ向かって南北に長い児島丘陵の西側を南流する小田川、同じく東側を南流する下村川といった数キロの小河川沿いに比較的まとまった平野が見られる。これら3つの平野部を除いて水田に適した低地に乏しい一方で、その地理的な条件を生かして古くから塩業や漁業、海運業、織物業などの産業が発達し、交易や信仰の拠点として経済的にも周辺地域より優越する場であるいわゆる都市的な場であったといえる。現在の児島市街は、地域南東部の味野湾に面する近世からの市街地を基盤とする味野や下の町・田の口などを中心として海沿いや丘陵間の低地を流れる小田川・下村川沿いを中心に形成され、海に沿って約7キロ途切れなく続く。市内でも高密度なまとまりとなっており、一部は沿岸部北側のなだらかな丘陵にも広がる。また、半島の付け根の郷内川沿いには中世に繁栄した熊野権現を中心とする郷内地区が、児島の東半分を占める由加山山上には近世に繁栄し現在も地域の参詣客を集める瑜伽大権現がそれぞれ社寺とその門前町を残しており、さらに、半島西部の水島灘に面して古代の荘園と港の風景を今に伝える通生が、南端の備讚瀬戸に面して古い港町の下津井が立地する。「こじま」あるいは「こしま」という地名は有史以来一貫して当地を含む現在の児島半島一帯を示す呼称として使用されており、歴史のある地名といえる。最古の正史である『日本書紀』の国生み神話では、吉備子洲(きびのこじま)あるいは子洲(こしま)と記され、『古事記』では吉備兒島という呼称で登場する。これらが史書における「こじま」の初見といえ、児島は本州や九州などに次いで古代日本列島を構成する主要な島の一つとして認識されていたことが伺える。以上のように過去には種々の漢字表記が混在し、「児」は、兒・子・仔など、「島」は洲や嶋などと表記されることもあった。1946年の当用漢字表告示以降は「児島」と表記される。瀬戸内海のほぼ中央に位置する児島の海は、四国との間にかけて広がる備讚瀬戸海域に属し、また、鷲羽山を境として、東側の主に児島市街が面する海域は味野湾、西側で通生や塩生が面する海域は水島灘と呼ばれている。また味野湾は、近年、魚の産卵場所としての重要性が認識されているアマモ場として瀬戸内海最大のものが存在する貴重な海域でもある。児島の山は概ね300m以下の山からなっており、岡山県内で見ると瀬戸内丘陵群に区分され、倉敷市の地形地域区分では児島山地に属している。児島地域には、1994年時点で614か所の溜池が存在し、その数は市内でも突出して多い。そのうち約300か所は、17世紀中頃に児島郡奉行の石川善右衛門により築造または拡張整備されたものであると伝えられている。瀬戸内海のほぼ中央に位置し、日本の気候区分では瀬戸内海式気候に属する。1年を通じて温暖で穏やかな気候で日本国内及び県内他地域と比べても降水量が少なく晴天日数が多いといえる。また、降雪積雪は極まれである。気象庁の観測所は児島地域には設置されていないが隣接する倉敷地域と玉野市に設置されており、倉敷地域が内陸で盆地状の地形であるのに対して、同じく児島半島に位置し瀬戸内海に面することからより当地域の条件と近似すると考えられる玉野市の玉野地域気象観測所の観測値によると、年平均気温は15.7℃、年平均降水量は1021.6mmで、年平均日照時間は2131.9時間である。児島の位置する児島半島は古代、吉備の児島として知られる瀬戸内海に浮かぶ島であり、児島の北側の本州と挟まれた海域は吉備の穴海または吉備の中海と呼ばれ、瀬戸内海の主要な航路の一つであった。古代から中世以降の歴史を見ると、当初は中海をルートとする児島北側の航路(北航路)に面する林などの地域が開けていくが、北岸の中海は中世中頃には高梁川などの堆積作用により航路としての機能が低下し始める。その結果、それまでの北航路に代わり児島南側の航路(南航路)の重要性が高まっていき、それにつれ児島の重心も南航路に面する南岸、とりわけ、すでに中世から開けていた下津井などを中心とした地域に移動していったと考えられている。近世には、中海の干拓により岡山平野と陸続きの半島となり北航路が消滅し、その流れは決定的になる。同時に、児島は四国に最も隣接する本州の一部としても重要性を高めていき、近世江戸時代には金比羅詣のブームを受けて全国から四国への旅人が往来する地となった。海を通して人や物が多量に往来する地域となるこの時期には、先史時代からの産業であった製塩業や古くから発達した宗教施設や海運業がさらなる発展をとげ、その後の児島の基幹産業に発展する繊維産業も誕生する。当時の先進地方であった上方を中心とする商人たちからもたらされた様々な文化や技術は、現在の児島を形づくるうえでの重要な基盤となった。現在では失われたものも多いが、建造物を始め、祭りや方言といった形で見ることができる。地域には先史時代の遺跡が数多く存在する。その量は小さな地域としてはまとまっているといえ、例えば瀬戸内海が陸地であった旧石器時代のものでは、西日本で最初期の発掘例である鷲羽山遺跡をはじめ、王子ヶ岳、竪場島、由加山、通生の宮の鼻など高地あるいは高台を中心に遺跡がみられる。縄文時代に入ると瀬戸内海に水が入り淡水から汽水の状態になったと考えられ、やや数は少なくなるものの、北岸に貝塚が、南岸の鷲羽山や阿津からは土器や石器が発掘されている。弥生時代の遺跡では、由加山などから銅鐸や銅剣などの青銅器が発掘されたほか、地域を特徴づける製塩土器が池尻(上の町)や仁伍(味野)などの遺跡から発掘されている。これらは、弥生時代の製塩遺跡としては西日本では最古の部類のものであり、弥生時代中期から後期にかけての瀬戸内海地域唯一の事例となっている。製塩土器の出土では、古墳時代に入ってからも当地域の発掘量は飛び抜けて多く、工業用地として1960年代に埋め立てられる以前は児島でも最大級の砂浜であった塩生など、古墳とともに発掘される例も見られる。古代から中世にかけての島嶼時代は海路の要衝として交易や軍事のための船や人が往来していたと考えられ、島の南北に主要な航路を有する児島は戦略上も経済上も重要な場所であり、中海を舞台とした藤戸の戦いや南北朝の戦い(備中福山城の戦い)等が、戦国時代に入り高松城水攻めでも南岸の下津井は海路の拠点となるなど歴史の転換点にしばしば登場し、諸勢力が手にれようとしのぎを削った地でもあった。古代の児島は、主要な航路であった児島北岸の中海に面した地域から開けたと考えられ、林を中心とする郷内は、同じく北岸に面する児島半島東部の郡(岡山市)とともに大和政権の設置した吉備児島の屯倉の比定地とされる。林には、条里制遺構をはじめ様々な遺構が存在し、中世に児島山伏の本拠地として強大な勢力を誇った熊野権現は、熊野神社 (倉敷市林)や五流尊瀧院として現在も残る。林の熊野権現は一時期衰退するものの、承久の乱後に頼仁親王が配流されったことをきっかけに五流修験(児島五流)が再興され、地域最大の宗教勢力に成長するとともに、児島五流は社領とその権威を背景とした経済活動による財政基盤と併せて軍事力を蓄えていき、有力な武将が登場することのなかった倉敷地方の中で強大な勢力を誇ることになる。とはいうものの、台頭する武士勢力との抗争のなかで徐々に社領は荒らされ、秀吉の高松城水攻めへ加勢を要請された児島五流の山伏が参加を留保したなどもあって、戦国末期にはしだいにその勢力も衰えていった。一方、南岸でも小規模ではあるがいくつかの遺構を見ることができる。琴浦地区の下の町には条里制の遺構が確認されており、周辺には後醍醐天皇の皇子宗良親王が元弘の乱後に讃岐へ流される途中立ち寄り祈願し寄進したものとされている銘建武3年(1336年)の木製狛犬が一対伝わる鴻八幡宮や、在銘の石塔では最古の部類に入る総願寺跡宝塔が存在する。また、現在の下津井や味野などを含む荘園(通生の荘)の拠点であったと考えられる通生(かよう)や長浜(下津井の旧称)が平安時代以降の文書に度々登場し、通生の港を見下ろす岬に立地する本荘八幡宮には室町時代初期の形式をのこす全国でも珍しい石造鳥居が現存する。そして中世初期には既に地域の主要な港湾として認識されつつあった下津井は、中海の航路としての機能の衰退にあわせるようにして中世中頃から徐々に海運の拠点としての重要性を高めていき、発展をはじめていた。近世には、中海の新田開発によって児島は陸続きになり、航路が完全に児島南岸(外海)へと移動した結果、下津井は急速に成長し、地域の物資の集散地としての地位を確立する。戦国末期には宇喜多氏により下津井城が築城され、江戸時代に入ってからも池田氏のもとで拡張されるなど一国一城例が発せられるまでの期間は城下町でもあり、北前船の西廻り航路が開設されると幹線航路の湊としてさらにその地位を高め、廻船業を始め問屋や酒屋、金融業が興るなど、さらなる資本の蓄積が進んだ。そのような流れの中で、周辺の地域でも江戸初期には洲脇伝右衛門により、後代に進められる周辺の大規模な塩田開発の先鞭の地ともいえる阿津に塩浜(塩田)が開かれるなど、小規模ながら次第に開発されていった。江戸時代中頃になると、当時流行していた金比羅詣りの旅人が立ち寄る港町として賑わい、すでに主要な港湾となっていた下津井の他にも、下村(現下の町)や田の口が四国への中継・渡海港となり開かれてき、岡山藩主池田家の庇護を受けていた瑜伽大権現(現蓮台寺・由加神社本宮)は、金比羅との両詣りを謳うことで金毘羅参りの参拝客を集め、門前町の由加には旅館や芝居小屋を有する門前町が開かれる。同時に、田の口と下村は由加山への参拝客を迎える港としても発展していき、元禄期に大規模に実施された児島北側に位置する児島湾の干拓地に大量に栽培された綿花の余剰生産物や金毘羅往来を行き来する旅人を媒体とする経済の影響で、それまでの主要産業であった製塩業に加えて織物業などの産業が田の口などに成立していった。そのなかで、江戸後期には地域の主要な産業の一つに発展した織物業による足袋の販売を通した資金を元手に後の塩田王野﨑武左衛門により行われた塩田開発をきっかけとして、地域の塩田は急速に大規模化していく。塩田野﨑浜のお膝元であり、以降児島の中心地となっていく味野が台頭する。一方、田の口や上村、下村では塩田開発に加えて、萌芽し始めた小倉織りなどの織物産業は家内制手工業が見られるようになるなど成長をつづけ、藩によって取引所である会所も開設されるほどの集積が進んでいく。明治から昭和前期にかけては、既に地域の主要産業となっていた製塩業とともに、江戸時代に既に集積が見られた織物・縫製業が近代化の中でさらに高度化され、田の口や上村、下村を中心として多数の企業が興隆した。1882年には全国的にも最初期、県下でも岡山紡績に次ぐ下村紡績所が、塩業で財を成した渾大防(高田)埃二らによって開業・操業される。その後、足袋の生産では大正時代には全国一の生産量を誇ったが、洋装化の流れの中で学生服へ品目を変え、その学生服でも1960年頃には全国シェア約70%に達するほど成長した。さらに1965年には日本で初めてジーンズの生産も手がけるようになり、現在では完成品メーカーの他に100社あまりの関連産業が集積するまでになっている。また近年では、オーダーメードのプレミアムジーンズのメーカーが拠点を構えていることでも知られる。2015年にはミシュラングリーンガイド・ジャポンに「日本のジーンズの都」として紹介されており、国際的な知名度も高まりつつある。一方、児島の経済発展のもう一つの基盤となった製塩業は明治に入って以降も塩の専売制度の下で繁栄を続けるものの、1971年に製塩方式の変化のなかで廃止されることになり、一時代を築いた製塩業は以降イオン交換による工業製品として残るのみとなった。また、近世まで海運により繁栄を極めた下津井は、近代の動力船の登場により徐々にその地位を低下させ、地域で最大の人口を擁し、明治政府のもとでいち早く町制を敷いた下津井も次第に衰退していく。しかしながら、海運業などで資本を蓄えた者のなかからは他業種に投資・参入する者も現れ、下津井電鉄などの企業が生まれている。このような地域経済の発展の下で、第2次世界大戦直後の1948年には味野町や下津井町の合併により児島市が誕生する。その後、1956年には隣接するかつての下村や田の口村などからなる琴浦町と合併し、さらに郷内村の編入を経て現在の児島地域と一致する児島市域が、一応、できあがった。都市としての児島は、丘陵と海に限られて市街地がコンパクトであったことに加えて、上記のような繊維産業や製塩業などからの収益による財政基盤などを背景にインフラの整備は比較的早く進み、味野湾沿岸の阿津・赤崎・味野・小川・下の町・田の口は物理的にも経済的にも次第に一体化していった。人口・経済両面において最も発展したこの児島市時代には下水道が他地域と比べても早期に整備され、市民病院も設立されるなど、現在の都市基盤の多くが作られた。児島市が最も拡張した時代と重なる1967年には、当時の三木知事のもとで岡山県南におきた岡山県南百万都市構想のあおりを受け、倉敷・玉島と合併し新設倉敷市が発足する。さらに、1988年には瀬戸大橋が開通し、同時に整備されたJR瀬戸大橋線には新たに児島、上の町、木見の3駅が設けられた。これにより下津井電鉄の廃止により途絶えていた岡山との鉄道交通が復活し、さらに高松をはじめとする四国各都市と直接連絡され、児島駅からは岡山駅まで約25分、高松へは約30分で結ばれるなど両都市の鉄道通勤圏としての一面を併せ持つことになった。近代以降平成古くは下津井に港と一体となった商業地が発達した。近世には在町である下津井に加えて味野、下村(現下の町)、田の口などの市街地が形成され、近代以降は味野と下の町を中心に商業の集積が見られた。現在、主な商業地としては下記の3地区が挙げられる。地域内に支店を置く金融機関児島の繊維産業は近世の小倉織や真田紐などの織物業に起源を持つ。近隣に先行して繊維業が興ったことから岡山県の繊維業の発展に果たした役割は少なくない。明治以降の洋装化に伴い大正時代には主な製品を学生服へ転換、現在では全国の男子学生服の約70%が生産され大小さまざまな学生服メーカーがそろう。企業の制服やユニホームなどの生産も盛ん。かつては近隣地域だけでなく、四国・九州からも出稼ぎ労働者を集めたが、現在では、多くの企業が中国などの海外に生産拠点を持ち、国内に残る工場では中国からの労働者受け入れを行う企業も少なくない。制服等で培った厚手の生地の縫製や染色などのノウハウと産業集積を生かして、現在ではジーンズも主要な製品となっている。国産ジーンズ発祥の地であり、ビッグジョンのような総合アパレルメーカーからプレミアムジーンズを扱う小規模の工房、事業所名を持たない縫製、染色等の小規模専門工房まである。また、県外の多くの大手ジーンズブランドや一部の海外有名ブランドが児島の企業に開発・生産を委託している。岡山県が先導して児島西部の水島を中心に計画された水島臨海工業地帯のうち、児島西部の塩生と宇野津の歴史ある砂浜を埋め立てて造成されたのがC地区である。全体から見ると小規模なエリアではあるが、主に石油化学系の事業所と造船所等が立地する。これら水島に立地する企業の関連企業のほか、域内には古くからの主要産業であった製塩業である製塩をおこなう企業なども立地している。岡山県下最大の漁獲量を誇る漁港である下津井は、タコやイカナゴ、鯛やメバル、岡山県の郷土料理として知られるママカリ(サッパ)などの近海魚を扱う。回遊魚ではサワラやマナガツオなど。戦後はハマチ(ブリ)などの養殖も行っている。江戸時代の下津井は北前船の寄港地として廻船問屋が立ち並び遊廓も置かれ、色町の豪華さは岡山の西中島を凌ぐと謳われたほどであった。春・秋の年2回、児島競艇場で開催。地元アパレルメーカーを中心に即売テントが出店。10月第2週の土・日、19基のだんじりが参道を登り境内へと向かう勇壮な祭。祭囃子である「しゃぎり」が岡山県重要無形民俗文化財。岡山三大だんじり祭りの一つ。約1300年の伝統を持ち、旧暦1月23日夜から24日早朝にかけて全国各地から参集する山伏により燃え盛る火炉を囲み執り行われる山伏問答、護摩供などを見ることができる。3月。市内各地で行われるウォーキングイベント。8月。平成11年(1999年)から開催していたファッションタウン児島国際トライアスロン大会は平成20年8月、第10回大会をもって終了したが、平成23年に現大会名で復活した。昭和34年の港湾法による指定以前には海に面する部落ごとに港を有していたが、現在では港湾法上の港湾の一部として取り込まれた結果、表面的にはその固有名が失われている物も多い。中世から海運業で栄えた吹上港、田之浦港、下津井港の3港からなる下津井以外にも、近世に発展した田の口港や下村湊(現堀江港)など四国への渡船場として栄えた港を始め、地域でつくられた塩や小倉織などの商品の積出港として機能した港も多い。港名として残る地名は、住居表示の実施により失われた地域の固有名を現在に残す貴重な歴史遺産といえる。近代以降は下津井港や琴浦港などで四国へのフェリーが運航され、1910年に隣接する玉野市に宇野港が築港され宇高連絡船が開通した後も存続したが、いずれの航路も廃止された。児島地域は電波銀座と呼ばれる瀬戸内海に突き出した形になっており、四方八方ありとあらゆる方向からの電波が飛び交っている。放送においては地元岡山県に加えてとりわけ香川県からの電波が容易に入る環境にあり、地形の関係で県内の送信所よりも良好に受信できる場合がある。児島地域では神道山にある「児島中継局」を受信するが、同局はTSCテレビせとうちが電波を出していない(地上デジタルテレビ放送でも設置予定なし)ため、児島中心部では「高松局」(19ch、出力5kW、水平)を、木見地区では「岡山局」(23ch、出力20kW、水平)を受信している世帯が多い。その他、下津井地区の一部や本荘地区などの西海岸では児島中継局の山陰でエリア外になるため笠岡市の「笠岡中継局」もしくは香川県三豊市の「西讃岐中継局」を受信する。なお、この西讃岐局や高松局など香川県の電波を捉えての視聴では、デジタル・アナログ共にNHKの県域ニュース等エリア番組が岡山県及び中国地方のものでなく、香川県及び四国地方のものとなってしまう。地上デジタル放送については、児島中継局のうち先発のNHK・OHK・RNC・KSBが2009年1月30日(試験放送は前年2008年12月25日開始のため同日よりデジタル放送が視聴可能)に開局、残るRSKは2010年に開局予定である。その他、2010年には木見中継局が開局予定である。いずれの場合も岡山局や高松局など開局済みの近隣送信所の電波を受信できればデジタル放送が視聴可能である。県外波児島地域は明治11年(1878年)郡区町村編制法施行時の児島郡91村のうちの25村からなる。25村は町村制施行後に11村に集約された後、まず下津井村と吹上村が明治29年(1896年)に合併して下津井町となり、さらに昭和23年(1948年)4月1日には下津井町と味野町など3町1村が合併して児島市となった。さらに、琴浦町との合併や郷内村の編入を経た後、市制施行からほぼ20年後の昭和42年(1967年)2月1日に倉敷市(初代)・玉島市と合併し、新たな倉敷市(2代)となる。倉敷市役所児島支所の管轄区域は合併以前の市域を継承している。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。