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ダグラス・マッカーサー

ダグラス・マッカーサー(、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカの軍人、陸軍元帥。連合国軍最高司令官を務めた。コーンパイプがトレードマークであった。マッカーサーのカナ表記はマックアーサーになっている場合がある。マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1815年に祖父のの代にスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。なお、同じスコットランド系のフランクリン・ルーズベルトとは7つの家系、ウィンストン・チャーチルとは8つの家系を隔てた遠戚関係にあたる。父アーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳のころに南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年にニューオーリンズのジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期で、インディアンとの戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5ヶ月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母メアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子、特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父アーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった。その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898年に米西戦争が始まると父アーサーは准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進し師団長になっていた父アーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した。しかし、1892年に兄アーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった。なお、ダグラスは幼少期、母メアリーによってフランスの風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。1896年、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元ミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強し、1899年に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。息子を溺愛し心配する母メアリーは、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした。結局マッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった。当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにしごかれた。そのしごきは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのしごきが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはよくそれらに耐えたが、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でしごきによる死亡者が出て問題化することになった。数か月後に軍法会議が開かれ、最も激しいしごきを受けたマッカーサーが証人として呼ばれたが、マッカーサーは厳しい追及にもかかわらず、しごきをした上級生の名を最後まで明かさず、全校生徒から尊敬を勝ち取っている。在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであった。スポーツも得意であったが、一番好んだスポーツは野球であった。バッティングが苦手で、決して中心選手ではなかったが、積極果敢で頭を使ったプレーが得意であり「不退転のダグ」と呼ばれ、試合では活躍していた。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。卒業後は陸軍少尉で任官した。当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループと看做されていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された。長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、記憶違いと思われる。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎、大山巌、乃木希典、黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。1913年に始まったメキシコ革命でビクトリアーノ・ウエルタ将軍が権力を掌握したが、ウエルタ政権を承認しないアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領と対立することとなったため、ウエルタに忠誠を誓うメキシコ兵がアメリカ軍の海兵隊兵士を拘束し、タンピコ事件が発生した。アメリカはメキシコに兵士の解放と事件への謝罪、さらに星条旗に対する21発の礼砲を要求したが、メキシコは兵士の解放と現地司令官の謝罪には応じたが礼砲は拒否した。憤慨したウィルソンは大西洋艦隊第1艦隊司令フランク・F・フレッチャーにベラクルスの占領を命じた()。激しい市街戦により占領したベラクルスに 参謀総長は増援を送り込んだが、歩兵第2師団の第5旅団に偵察要員として、当時大尉であったマッカーサーを帯同させた。マッカーサーの任務は「作戦行動に有益なあらゆる情報を入手する」といった情報収集が主な任務であったが、マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65㎞離れたアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルスまで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長がそのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、名誉勲章の授与は見送られ、マッカーサーは失望することとなった。その後にマッカーサーは陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長に就いた。1917年4月にアメリカがイギリスやフランス、日本などとともに連合国の一国として第一次世界大戦に参戦することが決まった。アメリカは戦争準備のため急きょ1917年5月に選抜徴兵法を制定したが、徴兵部隊が訓練を終えて戦場に派遣されるには1年は必要と思われた。マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共にホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化し市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィルソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示したが、どの州の部隊を最初にフランスに派遣すべきかが悩ましい問題として浮上した。ベイカーは州兵局長准将とマッカーサーに意見を求めたが、マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサーは「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかることになります。」と言った。ベイカーはその案を採用しを編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した。戦争に参加したくてたまらず、知り合いの記者に「真の昇進はフランスに行った者に与えられるであろう。」と思いのたけを打ち明けていたマッカーサーには希望通りの人事であった。第42師団は「レインボー師団」と呼ばれることになった。第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出しながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ貢献度とされた。マッカーサーも参謀長であるにもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックのセーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か杖を握りしめているという目立つ格好であった。マッカーサーは前線の偵察を自ら直接行うこともあり、度々危険な目にあっている。車両に乗って偵察した際にはドイツ軍の機関銃に射撃され、車両は破壊されたがマッカーサーは奇跡的に無事であった。また少数のパトロール部隊を率いて夜間偵察した際には、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受け、マッカーサー以外の兵士は全員戦死したということもあった。マッカーサーはその後、第42師団の第84旅団の旅団長に就任し、休戦前には一時的に師団長が不在となったため、准将ながら第42師団を率いたこともあった。マッカーサーは第一次世界大戦中に戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。このヨーロッパ派遣軍(AEF) の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。しかし、マッカーサーの母メアリーは、夫アーサーが在フィリピンのアメリカ軍司令官だったころに、当時大尉であったパーシングの面倒をみていたという伝手を頼って、マッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙をたびたび送っていた。またベイカーにも同じような手紙を何通も送っている。そのおかげか、大戦中にマッカーサーは准将に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです。」というお礼の手紙を送っている。また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンに「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた。大戦後にマッカーサーは、母校である陸軍士官学校の校長に就任した(1919年 - 1922年)。当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革して現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止され、しごきの舞台となっていた野獣兵舎も閉鎖した。代わりに競技スポーツに力をいれ、競技種目を3種目(野球・フットボール・バスケットボール)から17種目に増やし、全員参加の校内競技大会を開催することで団結心が養われた。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう。」と回想している。マッカーサーはその指導方針で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人がマッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェスト・ポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる。」と言って聞かせると、候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った。その後、1922年に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻を伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、2人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、当時パーシングはルイーズと別れ20歳のルーマニア女性と交際しており、ルイーズはパーシングと別れた後、パーシングの副官ジョン・キュークマイヤーを含む数人の軍人と関係するなど恋多き女性であった。このフィリピン勤務でマッカーサーは、後のフィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンなどフィリピンに人脈を作ることができた。翌1923年には関東大震災が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ、1925年にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は、友人であるウィリアム・ミッチェルの軍法会議であった。ミッチェルは航空主兵論の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すため、旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第一次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものが作られたにもかかわらず、政府がその後の空軍力の発展を怠ったとして、厳しく批判していた。軍に対してもハワイ、オアフ島の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しい、などと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』と看做され、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の判事となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり1926年に除隊した。その後、ミッチェルの予言通り航空機の時代が到来し、ミッチェルはその先見の明が認められ、死後10年後となる1946年に名誉回復されて、少将の階級と議会名誉黄金勲章が遺贈された。1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた際「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込み通りとはならず、アメリカは前回のパリオリンピックの金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかった。アメリカ国民の失望は大きく、選手団に連日非難の声が寄せられた。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時に、マッカーサーがアメリカの将軍であったことに驚いたという。マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官ジョン・ウィンゲイト・ウィークスに、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず、1929年には離婚が成立している。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられてマッカーサーを悩ませることになる。離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった。」と歓迎している。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的で、アジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピン・スカウト)の待遇を改善し、強化を図っている。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じて防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、ヘンリー・スティムソンの後任のフィリピン総督に就任することを願った。マッカーサーも、かつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず、総督には前陸軍長官のドワイト・フィリー・デイヴィスが就任した。私生活では、1929年にマニラで混血の女優との交際が始まったが、マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳であった。1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。前年の「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同禽者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった。1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった。マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している。フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルトに大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC(民間資源保存局)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している。マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬という破格の条件に興奮し、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している。フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている。フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー」 (S.S. President Hoover) には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている。1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた。軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出し、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。第二次世界大戦が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は強化が進まなかったが、日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、フィリピンの現戦力ではオレンジ計画を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。それまでフィリピンに無関心であったワシントンであったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言し、アメリカ本国より18,000名の最新装備の州兵部隊を増援に送るとマッカーサーに伝えたが、マッカーサーは増援よりもフィリピン軍歩兵の装備の充実をマーシャルに要請し了承された。またアメリカ陸軍航空隊が『空飛ぶ要塞』と誇っていた新兵器の大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド少将は「手に入り次第、B-17をできるだけ多くフィリピンに送れ」と命令し、計画では74機のB-17を配備し、フィリピンは世界のどこよりも重爆撃機の戦力が集中している地域となる予定であった。他にも急降下爆撃機A-24、戦闘機P-40など、当時のハワイよりも多い207機の航空機増援が約束され、その増援一覧表を持ってマニラを訪れた少将に、マッカーサーは興奮のあまり机から跳び上がり抱き付いたほどであった。また同時に、海軍のの増強も図られ、潜水艦23隻が送られることとなり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった。アジア艦隊司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあったトーマス・C・ハートであったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったという。そのためマッカーサーは「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた。マッカーサーは戦力の充実により、従来の戦術を大きく転換することとした。現状のペースで戦力増強が進めば1942年4月には20万人のフィリピン軍の動員ができ、マーシャルの約束通り航空機と戦車が配備されれば、上陸してくる日本軍を海岸で阻止できるという目論みに基づく計画であった。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後に、マッカーサーとアメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した。マッカーサーが戦力の充実により防衛の自信を深めていたのとは裏腹に、フィリピン軍の状況は不十分であった。マッカーサーらが3年半も訓練してきたものの、その訓練は個々の兵士の訓練に止まり部隊としての訓練は殆どなされていなかった。師団単位の訓練や砲兵などの他兵科との共同訓練の経験は殆ど無かった。兵士の殆どが人生で初めて革靴を履いた為、多くの兵士が足を痛めており、テニス・シューズや裸足で行軍する兵士も多かった。また各フィリピン軍師団には部隊を訓練する為、数十人のアメリカ軍士官と100名の下士官が配属されていたが、フィリピン兵は英語を殆ど話せない為コミュニケーションが十分に取れなかった。また、フィリピン兵同士も部族が違えば言語が通じなかった。マッカーサーはフィリピン軍の実力に幻想を抱いては無かったが、陸軍が約束した大量の増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れればフィリピンの防衛は可能と思い始めていた。実際に1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸に埠頭に山積みされていた。1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオでパールハーバーの攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーはパールハーバーで日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレリトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した。夜が明けた8時から、ブレリトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレリトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、その離陸した戦闘機も殆どが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40とP-35の戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した。人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下にあった」と実際とは異なる報告をしている。マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持っていた。しかし頼みの航空戦力は序盤であっさり壊滅し、上陸してきた日本軍を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍も、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、自分の考案した作戦を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。ジョナサン・ウェインライト中将の巧みな退却戦により、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所だけでも米が5,000万ブッシェルもあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった。バターン半島には、オレンジ計画により40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4ヶ月はもたないと思われた。快進撃を続ける日本軍は第14軍主力がリンガエン湾に上陸してわずか11日後の1942年1月2日に、無防備都市宣言をしていたマニラを占領した。第14軍司令官本間雅晴中将はマッカーサーが滞在していたマニラ・ホテルの最上階に日章旗を掲げさせたが、それを双眼鏡で確認したマッカーサーは、居宅としていたスイートルームの玄関ホールに飾っていた父アーサーが1905年に明治天皇から授与された花瓶に、本間は気が付いて頭を下げるんだろうか?と考えて含み笑いをした。マッカーサーはマニラ陥落後、米比軍がバターン半島に撤退を完了した1月6日の前に、コレヒドール島の内に設けられた地下司令部に、妻ジーンと子供のアーサー・マッカーサー4世を連れて移動したが、コレヒドール島守備隊ムーア司令の奨めにも関わらず、住居は地下壕内ではなく地上にあったバンガロー風の宿舎とした。幕僚らは日本軍の爆撃の目標になると翻意を促したがマッカーサーは聞き入れなかった。マッカーサーは日本軍の空襲があると防空壕にも入らず、悠然と爆撃の様子を観察していた。ある時にはマッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。一緒にマリンタ・トンネルに撤退してきたケソンはそんなマッカーサーの様子を見て無謀だと詰ったが、マッカーサーは「司令官は必要な時に危険をおかさなければいけないこともある。部下に身をもって範を示すためだ。」と答えている。マッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが、実際は2個師団相当の40,000名であった。一方で、日本軍は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、残存兵力を25,000名と見積もっていたが、実際は80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。本間はその過小評価に基づき、1942年1月から第65旅団でバターン半島に攻撃をかけたが、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため、大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに激しい砲撃と爆撃を加えたが、地上軍による攻撃はしばらく休止することとなった。その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった。マッカーサーらは「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している。しかしその当時、バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には重巡ペンサコーラに護衛されマニラへ大量の火砲などの物資を運んでいた輸送船団が、危険を避けてオーストラリアに向かわされるなど、救援策は具体的には何もなされなかった。マッカーサーがコレヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れオランダ領東インドに撤退し、太平洋艦隊主力もパールハーバーで受けた損害が大きすぎてフィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜となることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである。しかしマッカーサーは降伏する気はなく、1942年1月10日に本間から受け取った降伏勧告の書簡を黙殺しているが、それはアメリカ本国からの支援があると固く信じていたからであった。フィリピンへの支援を行う気が無いマーシャルら陸軍省は、この時点でマッカーサーをオーストラリアに逃がすことを考え始め、2月4日にマッカーサーにオーストラリアで新しい司令部を設置するように打診したがマッカーサーはこれを拒否、逆に海軍が太平洋西方で攻勢に出て、日本軍の封鎖を突破するように要請している。コレヒドールの要塞に逃げ込んでしばらくすると、ケソンはルーズベルトがフィリピンを救援するつもりがない事を知って気を病み、マッカーサーに「この戦争は日本と米国の戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米はフィリピンの中立を承認してほしい。」と申し出た。マッカーサーはこの申し出をルーズベルトに報告するのを躊躇ったが、アメリカ本国がフィリピンを救援するつもりがないのなら、軍事的観点からこのケソンの申し出はアメリカにとって失うものは何もないと判断し、ルーズベルトに報告した。しかしこの報告を聞いたルーズベルトは迅速かつ強烈な「アメリカは抵抗の可能性ある限り(フィリピンから)国旗を降ろすつもりはない」という返事をケソンに行い、マッカーサーへはマーシャルを通じて「ケソンをフィリピンより退避させよ」との指示がなされた。マッカーサーはケソン大統領に脱出を促すと共に、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求した。話し合いの結果、マッカーサー50万ドル、副官らに14万ドル支払われる事となり、2月13日にお金を受け取る側のマッカーサー自らが副官サザーランドに命じ、マッカーサーらに64万ドルをフィリピンの国庫より支払うとするフィリピン・コモンウェルス行政命令第1号を作らせ、2月15日、ケソンはニューヨークのチェース・ナショナル銀行のフィリピン政府の口座からケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルを振り込む手続きをした。ケソンは2月20日にアメリカ軍の潜水艦ソードフィッシュでコレヒドールから脱出した。ケソンは後に空路でアメリカ・ワシントンに向かい、かつてのマッカーサーの副官アイゼンハワーと再会し、マッカーサーらに大金を渡したようにアイゼンハワーにも功労金という名目で6万ドルを渡そうとしたが、アイゼンハワーは断固として拒否している。ケソンはその後、レイテへの進攻直前の1944年8月にニューヨークで病死し二度とフィリピンの土を踏むことは無かった。ルーズベルトはマッカーサーに降伏の権限は与えていたが、陸軍省が画策していたオーストラリアへの脱出は考えていなかった。ある日の記者会見で「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じ全軍の指揮権を与える考えはないのか」との記者の質問に「いや私はそうは思わない、それは良く事情を知らない者が言うことだ」と否定的な回答をしている。これはルーズベルトの「そうすることは白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」という考えに基づくものであった。最終的にルーズベルトが考えを変えたのは、チャーチルより、日本軍の快進撃で直接の脅威を受けることとなったオーストラリアが北アフリカ戦線に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して欲しいとの要請があり、その司令官としてチャーチルがマッカーサーを指名したためである。1942年2月21日、ルーズベルトはチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーにオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーはこの命令を「私と私の家族は部隊と運命を共にすることを決意した」と拒否し、軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした。先に脱出したケソンと同様に潜水艦での脱出が一番安全であったが、マッカーサーは生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出し許可された。マッカーサーは、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした。3月11日にマッカーサーと家族と使用人アー・チューが搭乗するとマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった。ルーズベルトが脱出を命じたのはマッカーサーとその家族だけで、幕僚らの脱出は厳密にいえば命令違反であったが、マーシャルは後にその事実を知って「驚いた」と言っただけで不問としている。魚雷艇隊は800㎞の危険な航海を無事に成し遂げ、ミンダナオ島陸軍司令官ウィリアム・シャープ准将の出迎えを受けたが、航海中にマッカーサーは手荷物を失い、到着時に所持していた荷物は就寝用のマットレスだけであった。ミンダナオ島には急造されたデルモンテ飛行場があり、マッカーサーはここからB-17でオーストラリアまで脱出する計画であったが、オーストラリアのアメリカ陸軍航空隊司令中将が遣したB-17は旧式であり、出発した4機の内2機が故障、1機が墜落し、日本軍との空中戦で損傷した1機がようやく到着したという有様で、とても無事にオーストラリアに飛行できないと考えたマッカーサーは、マーシャルにアメリカ本土かハワイから新品のB-17を3機追加で遣すように懇願した結果、オーストラリアで海軍の管理下にあったB-17が3機追加派遣されることとなった。その3機も1機が故障したため、3月16日に2機がデルモンテに到着した。その2機にコレヒドールを脱出した一行と、先に脱出していたケソンが合流し詰め込まれた。乗り込んだ時のマッカーサーの荷物はコレヒドール脱出時より持ってきた就寝用マットレス1枚だけであったが、後にこのマットレスに金貨が詰め込まれていたという噂が広がることとなった。オーストラリアまで10時間かけて飛行した後、一行は列車で移動し、3月20日にオーストラリアのアデレード駅に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に向けて次のように宣言した。この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。彼は10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者と言われた。また、「I shall return」は米兵の間では敵前逃亡の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこない彼を揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた。専用機にバターン号と名付けるなどバターン半島を特別な地としていたマッカーサーであったが、実際にコレヒドール要塞から出てバターン半島に来たのは1回しかなかった。オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた「神よあわれみたまえ」」と回想している。フィリピン救援は絶望的であったが、マッカーサーは残してきたジョナサン・ウェインライト中将以下のアメリカ軍・フィリピン軍に「いかなる条件でも降伏するな、食糧がなくなったら、敵軍を攻撃せよ」という督戦電報を打電している。しかし、4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。マッカーサーはこの降伏に激怒し、終戦までウェインライトらを許さなかった。オランダ領東インドに後退し、連合国軍艦隊と米英蘭豪 (ABDA) 艦隊を編成していたハートのアジア艦隊も1942年2月27日から3月1日のスラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦で壊滅し、マッカーサーがオーストラリアに到着するまでにオランダ領東インドも日本軍に占領されていた。マッカーサーは敗戦について様々な理由づけをしたが、アメリカと連合国がフィリピンと西太平洋で惨敗したという事実は覆るものではなかった。しかし、アメリカ本国でのマッカーサーの評判は、アメリカ国民の愛国心の琴線に強く触れたこと、また、パールハーバー以降のアメリカと連合国がこうむった多大の損害に向けられたアメリカ人の激怒とも結びつき、アメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将にも拘わらず、英雄として熱狂的に支持された。その様子を見たルーズベルトは驚きながらも、マッカーサーの宣伝価値が戦争遂行に大きく役に立つと認識し利用することとし、1942年4月1日に名誉勲章を授与している。1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官(Commander in Chief, Southwest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。1943年3月のビスマルク海海戦(いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『蛙飛び作戦』と呼んでいた。日本軍は空・海でのたび重なるに敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、ニューギニアの戦いでは多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。1944年のフィリピンへの反攻作戦について、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要なし」との判断であったし、海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの敵前逃亡を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの要求をしぶしぶ呑んだと言われている。マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにレイテ島のレイテ湾に上陸した。マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。その後に旗艦としていた軽巡ナッシュビルの通信設備を使って、演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた。」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した。日本の軍政の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。その後のレイテ島の戦いは、日本軍は台湾沖航空戦の過大戦果の虚報に騙され、大本営の横やりで現地の山下奉文司令官の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍の撃滅を図ったが、レイテ沖海戦で連合艦隊が惨敗し制空権・制海権を失うと、増援も海上輸送中に輸送船ごと撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立する中で圧倒的なアメリカ軍の火力と、飢えと病気に兵士は次々と倒れていった。レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、市内への重砲による砲撃を許可し、激しい市街戦の上で住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された。マニラ市民の犠牲は10万人にも上ったが、その中には絶望的になった日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラに手を焼いた日本軍のゲリラ討伐による犠牲者も含まれていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、老若男女構わず殺害した。マッカーサーは日本軍のゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力が野蛮

出典:wikipedia

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