羽州街道(うしゅうかいどう)は江戸時代に整備された脇往還の1つである。奥州街道から陸奥国の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で分かれ、小坂峠や奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(羽州、山形県・秋田県)に入る。ここから出羽国を縦断し、矢立峠を越えて再び陸奥国に入って、油川宿(青森県青森市)で奥州街道に合流する。現在の国道113号・国道13号・国道7号などに相当する。途中、六郷宿から綴子宿にかけて、久保田を経由する下街道と角館・阿仁を経由する上街道(角館街道、大覚野街道)に分岐しており、下街道がより重要とされていた。参勤交代の際に利用した藩は13藩(上山藩、山形藩、天童藩、長瀞藩、新庄藩、庄内藩、出羽松山藩、矢島藩、本荘藩、亀田藩、久保田藩、黒石藩、弘前藩)。弘前藩は江戸時代初め頃、能代から津軽西海岸、鰺ヶ沢を経由する道筋を通っていたが、4代藩主津軽信政の頃からは矢立峠を経由する道を使うようになった(弘前藩#盛岡藩との遺恨を参照)。他の多くの街道と同様、江戸時代には統一された名称は無く、地域や進行方向によって「小坂通り」「最上道」「秋田道」「下筋街道」「碇ヶ関街道」など様々な呼び方をされていた。また、久保田藩主の佐竹氏が特に整備に注力した事から、「佐竹道」と称した地域もあった。ほかの呼称としては、現在の宮城県内の区間が「山中通小坂越」「山中七ヶ宿街道」「七ヶ宿街道」と呼ばれた。福島藩から小坂峠を越えて仙台藩に入ると最初にある宿場町・上戸沢宿の辺りは仙台平と呼ばれ、現在は白石市小原字仙台平として地名が残る。本宿58駅(62駅という説もある)。宿場の名が地名に残っている場合、市町村名以下も記載する。※里程は江戸を起点とした値。※名称は、秋田県内に於いては「秋田・羽州街道の一里塚」での表記を原則とし、他の表記を別名として記す。羽州街道の楢下宿(ならげしゅく、山形県上山市大字楢下小)および金山越(かなやまごえ、山形県上山市大字金山)は、1997年(平成9年)9月11日、国の史跡に指定されている。米沢藩は羽州街道を使わず、ほぼ現在の奥羽本線に沿い板谷峠を越えて福島市に出る経路をとっていた。この経路は米沢街道と呼ばれ、米沢から江戸に到るにはより近道であるが、羽州街道を使用しなかった理由を仙台藩との折り合いの悪さに求める説もある。享保16年(1731年)の地震で小原の材木岩(下戸沢宿・渡良瀬宿間)が崩落した際、出羽各藩は一時期奥州街道の宮宿(宮城県刈田郡蔵王町)から分岐し笹谷峠を越え山形宿に至る経路を利用したことがある(笹谷越え出羽街道)。
出典:wikipedia
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