毛利 重就(もうり しげなり/しげたか)は、長門長府藩第8代藩主、のち長州藩第7代藩主。諱ははじめ元房(もとふさ)、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。享保10年(1725年)、長州藩の支藩である長府藩主毛利匡広の十男として生まれる。幼名は岩之丞。匡広の跡を継いだ五男の師就が享保20年(1735年)に死去した際、師就の実子・多賀之丞(毛利教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、匡広の七男の政苗、八男の広定はそれぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでおり、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が家督を相続することになった。また、宝暦元年(1751年)には本家にあたる長州藩第6代藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として家督を相続する。長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存、長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年(1753年)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。天明元年(1781年)、徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じ(「就」が「斉」と同じ読みである)ため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める。天明2年(1782年)に家督を四男・治親に譲って隠居し、自身は三田尻の三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789年)に死去した。享年64。墓所は山口県萩市の東光寺。参考は「萩市史・第一巻」などほか実際の親子関係のみを示す。「大武鑑・中巻」掲載の宝暦5年(1755年)の主要家臣は以下の通り【一門八家】【家老】【毛利重広附】【用人】【毛利重広附用人】【城使】匡敬時代重就時代
出典:wikipedia
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