中華思想(ちゅうかしそう)は、中国が宇宙の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くからもち続けた自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称し、漢民族とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い禽獣であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す。中国語では中国中心主義(簡体字: 、英語では ともよばれ、また「華夷」については中国では「華夷之辨」(英語で ) とよぶ。エスノセントリズム (自民族中心主義) としての中華思想は漢民族を中心としたものであり「中国皇帝が世界の中心」であり、中華王朝の文化と思想が世界で最高の価値を持つとみなされる。そのため、異民族や外国の侵入に対しては、熾烈な排外主義思想として表面化することがある。中国の歴史においては、はじめは北の遊牧文化に対し,漢民族の農耕文化が優越であることを意味した。春秋戦国時代以後は礼教文化の王道政治にもとづいて天子を頂点とする国家体制を最上とし、夷は道からはずれた禽獣(鳥やけだものを意味する)に等しいものとして東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ。中国人の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた。ただし、その範囲は時代により異なる上、これらが蔑称かどうか議論がある。例えば「東夷」については孟子に古代の聖王舜は東夷の人であるという説があり、また人の同類とされ習俗が仁で君子不老の国とされており、蔑称かどうか議論がある。蔑称ではないという主張も存在し、外国宛の文書に相手国を「東夷」と記して蔑称であるか、そうでないか問題になったこともあるという。現代中国・台湾・日本などでは、これらの言葉は鴨南蛮・カレー南蛮等で名前を残す以外、ほとんど死語となっているが、学術的には使われ続けている。中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代中国の呼称は夏、華、あるいは華夏(かか)と云はれていた。「華」ははなやか、「夏」はさかんの意で、中国人が自国を誇っていった語であった。そこから、文化の開けた地、都(みやこ)を意味した。満州族が支配層であった清朝を打倒するために中華民族ナショナリズムを構築したひとりの章炳麟は次のように「華夏」を国土の名称・地名でもあり種族の名称でもあると解説している。また民族の名称だけでなく地理的国土的な名称ということについては中国の辞典 「辞海」も、漢民族の発祥地が黄河流域で、国都も黄河の南北に建てたので、そこが国の中央となり「中原」や「中国」と呼んだとし、「中つ国」も蛮夷戎狄の異民族とは内と外の関係、地域の遠近を表わすために用いられたとする。中華と夷狄の峻別を理論的に説いた文献のうち、現在確認できる最古のものは孔子によるものとされる春秋である。春秋において、孔子は周初の礼楽を制度化し、夷狄起源の文化要素を排除すべきことを主張したとされる。漢代に春秋学が理論化される過程で、中華思想も前述の「四夷」のようなまとめがなされていき、理論化されていった。新の皇帝の王莽は、前漢において夷狄を王に冊封していた慣習を華夷秩序の観点から改め、匈奴や高句麗の王を侯に降格せしめようとしたが、これらの諸国の離反を招いてしまった。西晋滅亡後、いわゆる五胡といわれる北方異民族が中国本土に侵入して相次いで国を建て、混血が進んだことから「中華思想を越え、中華と夷狄も平等だ」という、仏教に基づく「夷華同一」という思想も誕生した。隋の煬帝や唐の太宗は中華と夷狄の融合政策を取り、唐の太宗は930年3月、中華皇帝に加えて四夷の族長たちに推薦された形でハーンの位にも即位している。隋唐時代には西域を主とする異国文化を珍重し、また外国人が宮廷で登用されることも珍しくなかった。ところが、唐が滅び五代十国を経て宋になると、唐が支配していた北方民族を宋が支配できなくなり、北方は遼や金といった北方騎馬民族による征服王朝を建国。南方の宋は北方に常に見下され、毎年多額の贈与金を支払う実質的な従属国家に過ぎなくなった。これは漢民族にとって極めて屈辱的なことであり、その負け惜しみから、宋学では華夷の序が強調され、自国・宋こそ中華であり、敵対する遼や金は夷狄だと主張した。それにより歴史の改ざんも行われ、宋学の司馬光が編纂した資治通鑑では、五胡十六国からの歴史があたかも漢民族が最強であるかのように書かれるようになった。明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸時代の儒学者山鹿素行も著書中朝事実の中で同様の主張をした。これが後に水戸学へも思想的影響を与え、幕末の尊王攘夷論に結びつくこととなる。太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝)不滅を唱えるに至ったのも、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという。「夷」である満洲人が作り上げ、中華圏を支配した清では漢人の王朝とはやや異なっていた。儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治していた。雍正帝は「大義覚迷録」で古代の聖王である舜や、周の文王の出自が「夷」であったことを例に挙げて出自では無く徳の有無が重要とし、中華支配を正当化した。政策としても辮髪などの胡俗の強制や反清勢力の鎮圧と並行して科挙の存続やかつて反清運動の中心となった者たちを明史の編纂をさせるなど、中華の文化の尊重して漢人知識人に対し名誉と利権に与る道を開く懐柔政策を行い清朝への夷狄視を減らしていた。ただし漢人の科挙官僚が政治を担えたのは旧明領だけである。また北方から来たロシアとは対等なネルチンスク条約を締結しているが、乾隆帝の時代に中華として南方経由で来たイギリスとの対等外交を拒絶した。逆に日清戦争で敗れた後、中華思想は後退する。魯迅は中華思想に染まって現実を見ようとしない人々を痛烈に批判し、「狂人日記」「阿Q正伝」などを記して中華思想からの覚醒を呼びかけた。章炳麟、孫文、梁啓超らは中華民族のナショナリズムを原動力として清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名に使用した。この国号の提議は孫文によるものであり、中国同盟会の誓詞「恢復中華」があげられている。しかし日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満を持っており、日本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した。この意見は閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発するという動きが続いていた。日本の知識人には「中華」がかつての中華思想に基づくものであると見て、強い反発を持つ者も少なくなかった。1930年に中華民国側の要請が盛り上がった際にも、那賀王霞は伊集院の意図が「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」ものであったからだと分析している。このため日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対も多く見られた。しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定した。この決定は幣原の軟弱外交の証拠であるとして、批判の対象となった。1949年、毛沢東らは中華人民共和国を建国し、中華民国に続いて、「中華」を正式な国名に使用した。現代の中国人において、この中華思想(あるいは華夷思想)が理解されていると直断ずるには疑問があるとする説がある。元外交官の宮家邦彦は、現在の中国では教科書に「中華思想」がなく、学術的に研究・考証する専門家もいないされている、としている。その上で、これらは中国に限らずアラブ諸国などの開発途上国に概ね共通する以下のような「対先進国劣等感」の裏返しとした。ところがあろうことか夷狄であるはずの欧州列強にアヘン戦争で大敗してしまったため、その後、洋務運動、とりわけ中体西用によって国力回復を目指した時点では近代化の手本をヨーロッパに求め、そこに卑下する態度は見られない。ただし、概ねこうした運動は、かつての中華思想を奉じた「漢族」を当時の支配者である「満族」から開放する滅満興漢を目的としたものであり、国名を「中華」にこだわることなどに、改革者によって思想は変貌しつつもいまだに中華思想と完全に決別できていないことは認めている。アヘン戦争敗北から170年の時間が経っても、いまだに欧米諸国に対しては新しい中国の国家像や国際秩序モデルを示しえているとはいえず、この途上国共通の「劣等意識」こそが根底にあるのでは、と論じている。
出典:wikipedia
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