ジョチ( Jöči、現代モンゴル語:、1177年,1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国初期の王族で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチともカナ表記される。チンギス・カンの長男。漢字表記は朮赤。アラビア語・ペルシア語資料の表記で13世紀前半には توشى tūshīなどと書かれていたが、14世紀初頭に編纂されたの『集史』以降ではテュルク語・モンゴル語の原音に近い表記である جوچى خان jūchī khān と綴られている。生年は1177年、1184年など諸説ある。ジョチはチンギス・カンの第一夫人ボルテを母とする嫡出の長男で、同母弟にチャガタイ、オゴデイ、トルイの3人がいる。ただし、当時のモンゴルには、近隣国のように嫡長子を後継者とする制度は存在しなかったので、ジョチは長男であることによって他の兄弟と比べて特に優遇されていたりはしない。ただし、末弟で最有力後継者候補であったトルイとともにケレイト部の王オン・カンの姪での娘ベクトゥトミシュ・フジンを娶り、これは実現しなかったが、オン・カンの娘チャウル・ベキを娶る予定があったことなど、長男として有力な立場にあった可能性は指摘できる。若い頃から父に従ってモンゴル高原の統一に至る戦いに参加し、特に西方の強国ナイマンとの戦いで活躍した。1206年にチンギス・カンが高原を統一すると、高原の西に位置するアルタイ山脈の北部からイルティシュ川の上流域に4個の千人隊を所領(ウルス)として与えられ、帝国の最も北西に位置することからオイラト、キルギスなど高原北西の森林地帯に住む諸部族の平定を任せられた。オイラトが帰順した際には、その一首長に娘を娶わせている。1211年より、チンギスが金への遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイ、オゴデイとともに、全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加、山西地方の席捲して諸城を陥落させた。1219年から始まる西方遠征でも右翼の指揮官として中央アジア北部を進み、戦役の発端となった町オトラルを攻略した後、スィル川沿いに下ってスィグナク、ジャンド、ヤンギカントを征服した。スィグナクでは、ジョチが攻撃に先立って降伏を要求するために送った使者を住民が惨殺したため、モンゴル軍は攻略後に町を徹底的に破壊、住民を皆殺しにしたという。その後、中央アジアの中枢マー・ワラー・アンナフルからアム川沿いに下ってホラズム・シャー朝の本拠地ホラズムの主邑ウルゲンチを攻撃したが、彼はともに攻撃を担当したすぐ下の弟チャガタイと不和だったために攻略に手間取ることがあった。このため兄弟は父チンギスの不興を買ったが、二人の兄いずれとも仲の良い弟のオゴデイが兄の間にたって指揮をとり、事なきを得た。ジョチの攻城は、従来のモンゴルが一般に行っていた城内乱入に次ぐ略奪と破壊を嫌ったためか、相手が降伏するのを待つという戦法を取ることが多く、進軍速度を緩めてしまったという評価が強い。そのため、従来どおりの戦法を取るチャガタイとは、もともとの不和とあいまって、ウルゲンチのような事態を引き起こしたと見られる。実際にウルゲンチにおいても彼は、降伏交渉を行っている。諸史料によれば、チンギス・カンはこの頃、4人の嫡子のうちから後継者を選び、温和な3男のオゴデイが後継者に指名された。このとき、チンギス・カンは実際に諸子を集めて自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、その場でジョチとチャガタイが口論になり、二人がお互いをカンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられたという。中央アジア遠征の後、ジョチは西方に広がったモンゴル帝国領のうち、北部の良質な草原を遊牧地として与えられ、ジョチのウルスは本領のイルティシュ川上流域からバルハシ湖の北からアラル海の方面に至る草原地帯(カザフ草原、現在のカザフスタン)に広がった。さらに、ジョチはチンギス・カンによってアラル海の北からカスピ海の北に広がる草原地帯の諸族の征服を委ねられ、チンギスがモンゴル高原に帰還した後もカザフ草原に残って北西方への拡大を担当することになった。この間にジョチは病を発し、軍を進めることができなくなった。しかし、この間の事情がモンゴル高原にはジョチが狩猟に興じて軍事をおろそかにしているとの噂になって伝わった。激怒したチンギスはジョチに対して召還命令を下したが、ジョチは病のために帰還することができず、1225年頃に父に先立って病没してしまった。一方、チンギスはジョチが召還の命令に従わないのでいよいよ討伐の軍を送ろうとまでしていたが、そこに病没の報が伝わり、大いに悲しみ落胆したと伝えられている。ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。ペルシア語の歴史書『集史』によると、ジョチが母ボルテの腹の中にいたとき、まだ弱小勢力だった後のチンギス・カンことテムジンの幕営が、モンゴル部と敵対するメルキト部族の君主トクトア・ベキ率いる軍勢によって襲撃される事件があった。メルキト部族に連行された時、母ボルテは既にテムジンの子を身籠っていたという。テムジンの同盟者であるケレイトのトオリル(後のオン・カン)がメルキト側と交渉してボルテを取り戻し、トオリルはテムジンを自らの「息子」と称して尊重していたため、彼女を鄭重に保護してテムジンのもとへ送り戻した。テムジンは側近のひとりだったジャライル部族に属すセベという人物を派遣してボルテを護衛し、その旅中でボルテはにわかに産気づいて男児を出産した。出産後、セベは揺かごの用意も出来なかったので少しばかりの穀粉で柔らかな練り物を作ってそれでジョチをつつみ、さらに、自らの衣服の袖に包んで手足が痛まないよう大事に運んだと言う。こうして、ケレイトからテムジンの居る幕営地までの旅中で生まれた男子だったので、「旅客」を意味するジョチという名を与えられたのだという。一方、モンゴル語で記された『元朝秘史』では話はより劇的となる。すなわち、というもので、現在では『集史』の伝える話よりも広く知られている。明らかな編纂意図を持って記録や口承をまとめ編集された散文の歴史書である『集史』と比較すると、韻文を多用した『元朝秘史』は英雄叙事詩的な歴史物語の性格が強く、どの程度史実を伝えたものかは定かではない。ただし、ジョチがチャガタイと不和だったのは事実であり、『集史』の伝えるような出生の事情を問題視される向きがあったことは事実のようである。『元朝秘史』の物語については、そもそもモンゴルと代々婚姻を重ねる関係にあるコンギラトの出身であるホエルンがもともとメルキト部の者と結婚していたという話が信憑性に乏しいため、略奪叙事詩としての筋を盛り上げるために付け加えられた話であると主張する学者もいる。『元朝秘史』の物語の史実性の是非はともかく、この興味深い物語が多くの人の関心を引き寄せる魅力を持っていることに違いはない。日本の作家井上靖は小説『蒼き狼』で晩年の親子の確執と絡めて、ともに略奪された母から生まれ出自に疑問を抱きつづけるチンギスとジョチの複雑な親子の関係を見事に描き出している。なお、井上靖は、「父は不明」を基本スタンスとしているが、陳舜臣は『チンギス・ハーンの一族』において集史とほぼ同様(つまり、すでに妊娠していたとする説)の主張を行っており、チンギスは自身の子であると認知、ジョチと不和であったチャガタイは、周囲がうわさしていた「メルキトの子」であるという風評を、互いが幼少時の時期に罵ったという亀裂が修復されずに成長し、そのまま成長するにいたって互いに引っ込みが付かなくなったのが決定的な亀裂の原因である、という描き方をしている。また、森村誠一は「チンギスの子ではない」としているなど、歴史小説における彼の扱いはさまざまである。ジョチには、当時の遊牧民の王侯たち一般と同じく、数多くの夫人と子があった。夫人は「カトゥン」(fa. خاتون khātūn<turc. χatun<mon. qatun)、「フジン」(fa. فوجين fūjīn<mon. fujin, hujin, 'ujin)などの称号をもつ正妃の名が複数知られているが、夫人の間の序列はよくわかっていない。子女のうち男子は概数として「40人」以上いたと言われているが、子孫がジョチ・ウルスの王侯貴族として残り、『集史』など後世の系譜書に名前が記されている者は以下にあげる14名がいる。
出典:wikipedia
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