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シカゴ・カブス

シカゴ・カブス(、略称:"CHC")は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はイリノイ州シカゴにあるリグレー・フィールド。なお英語では/kʌbz/と発音し、日本語でも「カブズ」ともいう。アトランタ・ブレーブスと共に1871年創設の古い球団であり、創設以来本拠地を移転していないチームとしては最も長い歴史を持つ。かつてはナショナルリーグ優勝16回を誇る強豪だったが、1945年を最後にリーグ優勝は一度も無く、ワールドチャンピオンに至っては1908年以来100年以上遠ざかっている。2003年のフロリダ・マーリンズとのナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)第6戦では、ワールドシリーズ進出まであとアウト5つまで迫りながら、ファウルボールを取ろうとしたファンの妨害が一因となり敗退。これは、かつて山羊を連れて観戦しようとしたところ入場を拒否された「ビリー・ゴートの呪い」ではないかと言われている。MLBでも屈指の人気チームで、同じくシカゴを本拠地とするシカゴ・ホワイトソックス(2005年のワールドチャンピオンチーム)を人気面では凌駕している。ホワイトソックスが市南部で人気があるのに対して、カブスは市北部での人気が高い。ナイトゲームの試合数が制限されるリグレー・フィールドをホームスタジアムとしながら安定した集客を誇っている。同地区のセントルイス・カージナルスとは熾烈なライバル関係にあり、イリノイ州内の地域によってはホワイトソックスと共に人気を三分している。本拠地球場のリグレー・フィールドは、ボストン・レッドソックスのフェンウェイ・パークに次ぎ、全米で2番目に古いMLBの球場として有名。外野フェンス全体を覆うツタが名物となっており、これは1937年に当時のオーナーであるビル・ベックが考案したものである。2008年4月23日にサンフランシスコ・ジャイアンツに次いで『メジャーリーグ通算10000勝』に到達。日本人選手では、2008年から福留孝介が所属したが、11年にクリーブランド・インディアンスにトレード。2008年には、3年ぶりのメジャー復帰を目指す高津臣吾ともマイナー契約を結んだが、スプリングトレーニング途中で自由契約。2009年は田口壮と門倉健がマイナー契約でスプリングトレーニングに参加したが、門倉のみメジャー昇格は果たせず。2013年は高橋尚成と藤川球児が所属した。2014年は前年に続き藤川が所属し、和田毅が渡米3年目でメジャーデビューを果たした。2015年は前年に続き和田が所属した。2016年は川崎宗則が所属した。1871年、ナショナル・アソシエーションに加盟し、プロ球団として誕生。加盟当初はシカゴ・ホワイトストッキングスという名前だった。しかし、同年に起こったシカゴ大火によって球場や備品が全て焼け落ち、チームは丸2年間に渡って活動できない状況に陥る。1876年、同チームのオーナーだったウィリアム・ハルバートらによってナショナルリーグが創設され、同リーグに加盟。同年には監督兼投手を任されたアルバート・スポルディングの下、52勝14敗という成績で初代チャンピオンに輝いた。ちなみにスポルティングはほぼ全ての試合に出場し、47勝12敗で初代最多勝を獲得している。後にスポルティングはスポーツ用品メーカーであるスポルティング社(現在ではNBAの公式球を製造していることで知られる)を創設し、ホワイトストッキングスの理事長に就任するなど、野球界の発展に尽力した。1879年にはキャップ・アンソンが選手兼任監督に就任し、1880年から1886年にかけて5度の優勝を果たした。アンソンは強烈なリーダーシップを発揮し、現在のチーム運営の基礎を作る。時には鉄拳制裁も厭わない厳しい采配を行う反面、選手がのびのびとプレーできる環境を作ることに尽力した。ヒットエンドランや投手の先発ローテーション、スプリングトレーニングを導入したのも彼だった。選手としても優秀で27年間の現役生活で史上初の3000本安打を達成している。しかし、アンソンは強い人種差別主義者でもあり、当時存在した黒人選手をリーグから全て追い出すことを主張した。アンソンは白人選手チームとしか対戦せず、黒人選手チームとの対戦は練習試合でさえ拒んだといわれる。これが元となりMLBの黒人選手排斥は、ジャッキー・ロビンソンが現れる1940年代後半まで及ぶこととなる。その後、1894年にコルツ、1898年にオーファンズとチーム名を変え、1903年に現在のカブス(小熊を意味する)に定着した。かつてボストン・ビーンイーターズ(現:アトランタ・ブレーブス)を5度のリーグ優勝に導いたフランク・セレーによるチーム再建は20世紀に入り徐々に成果を挙げ始めていたが、セレーは1905年のシーズン途中に結核のため監督を退き、フランク・チャンスが選手兼任監督に就任した。「比類なきリーダー」と言われたチャンス率いるカブスは、1906年にはシーズン最多記録となる「116勝」を挙げリーグ優勝を果たした。この頃のカブスは「スリーフィンガー(三本指)」の愛称で知られるモーデカイ・ブラウンをはじめ、エド・ロイルバック、ジャック・フィースター、カール・ラングレン、オーバル・オーバーオールといったシーズン防御率1点台で投げきれる投手を多く抱える投手王国を形成し、一塁手チャンス、二塁手ジョニー・エバース、遊撃手ジョー・ティンカーによる内野陣は多くの併殺プレーを見せた。初めて挑んだワールドシリーズでは同じシカゴを本拠地とするシカゴ・ホワイトソックスと対戦。この年のホワイトソックスもエド・ウォルシュをはじめとした強力な投手陣を擁していたが、「ヒットレス・ワンダーズ」と呼ばれたように極度の貧打のチームであり、戦前の予想では攻守共に圧倒的なカブスが有勢と見られた。しかしシリーズではホワイトソックスの強力な投手陣の前にカブス打線が沈黙し、結果2勝4敗で破れた。翌1907年も107勝をあげ、リーグ2連覇。雪辱を期すワールドシリーズではタイ・カッブを擁するデトロイト・タイガースと対戦した。そして今度はカブス投手陣がタイガース打線を抑え込み、4勝1敗でこれを下して初のワールドチャンピオンに輝いた。1908年はニューヨーク・ジャイアンツとの激しい首位争いを演じ、プレーオフの末にリーグ3連覇。2年連続でタイガースとの対戦となったワールドシリーズも4勝1敗で制し、2年連続のワールドチャンピオンに輝いた。1910年のリーグ優勝以降、しばらくチームは優勝から遠ざかることとなる。1913年にはエバース、1916年にはティンカーがそれぞれ選手兼任監督を務めたが、どちらも優勝には届かなかった。1916年には本拠地を現在のリグレー・フィールドに移した。この球場は元々は1914年には「第3のリーグ」としてMLBへの加入を求めていたフェデラル・リーグのシカゴ・ホエールズの本拠地球場だったが、1915年のフェデラル・リーグ解体の際、ホエールズの経営陣(チャールズ・ウィーグマン、ウィリアム・リグレーら)にカブスが譲渡されたの期に、老朽化が進んでいたウエスト・サイド・パークから移転する形となったものである。1918年にカブスはリーグ優勝を果たしたが、この球場で初開催となったボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは当時投手を務めていたベーブ・ルースに2敗を喫し、2勝4敗で敗れている。以降は再び優勝とは縁のないシーズンが続いた。1926年、後にニューヨーク・ヤンキースで黄金時代を築くことになるジョー・マッカーシーが監督に就任。1929年にはロジャース・ホーンスビーを獲得し、この年には久々のリーグ優勝を果たした。翌1930年のシーズン途中にマッカーシーがチームを離れると、ホーンスビーが選手兼任監督に就任。同年にはハック・ウィルソンが当時のナ・リーグ記録となる56本塁打、MLB最多となる191打点を記録したが、セントルイス・カージナルスに優勝を奪われてしまった。翌1932年には3位に沈むなど、成績が振るわなかったことから1932年のシーズン途中でホーンスビーは監督を解任され、一塁を守っていたチャーリー・グリムが選手兼任監督に就任する。グリムが監督になるとチームは一気に白星を重ね、首位ピッツバーグ・パイレーツをかわしてリーグ優勝を果たす。しかし、ワールドシリーズではマッカーシー率いるヤンキースと対戦し、第3戦ではルースの予告ホームランが飛び出すなど、いいところなく4連敗を喫してしまった。その後はグリム監督の下でチームは安定した強さを誇り、1935年にもリーグ優勝を果たすものの、ワールドシリーズではタイガースに破れ、またしてもワールドシリーズ制覇はならなかった。1938年のシーズン途中、グリムに代わって捕手のギャビー・ハートネットが選手兼任監督に就任したが、カブスは首位のパイレーツを猛追し、シーズン最後の直接対決である2試合を残した時点で0.5ゲーム差まで迫った。その直接対決第1戦で5対5のまま9回表が終わり、辺りが暗くなった9回裏、2アウトとなったところでハートネットに打順が回った。当時リグレー・フィールドには照明施設がなく、これ以上の試合続行は不可能と判断され、同点のまま9回が終了すれば、翌日に再試合が行われることとなっていた。その状況で2ストライクと追い込まれた3球目、ハートネットの放った打球は夕闇迫るレフトスタンドに飛び込み、逆転勝利を収めた。その後、第2戦でも勝利を収め、チームはリーグ優勝を決めた。このチームを優勝に導いたハートネットのホームランは「黄昏のホームラン」と呼ばれ球史に残る一発として知られている。第二次世界大戦が始まる1940年代に入ると、勝率5割を切るシーズンが続いたが、戦争が終わった1945年にはグリムが監督に復帰し、16回目となるリーグ優勝を果たす。しかし、タイガースとのワールドシリーズでは3勝4敗で惜しくも敗れ去った。このシリーズの第4戦では「ビリー・ゴートの呪い(山羊(ヤギ)の呪い)」の元となった出来事が起こっている。これは2勝1敗とカブスがリードして迎えた第4戦。地元バーの店主であるビリー・サイアニスはカブスの熱狂的なファンで、可愛がっていた山羊と共にいつも試合観戦に訪れていた。しかし、この試合に限って球団側は山羊の入場を禁止し、サイアニスと山羊は球場から連れ出されてしまった。理由は山羊の臭いだった。これに激怒したサイアニスは「2度とここ(リグレー・フィールド)でワールドシリーズが開催されることはないだろう」と言い放って球場を後にしたという。そして皮肉にもサイアニスの予言通り、これ以降チームはワールドチャンピオンはおろかリーグ優勝にさえ遠ざかることとなり、長い低迷期を迎えることとなる。1950年代に入るとチームの状況は一層悪化。1966年までに勝率5割を上回ったシーズンは1952年と1963年の2シーズンのみで、1962年と1963年には球団ワーストとなる103敗を記録してしまう。1956年にはカブス初の黒人選手であるアーニー・バンクスがメジャーデビュー。バンクスは「Mr. Cub (ミスター・カブ)」と呼ばれ、2度のMVPを獲得するなど、現役引退までカブス一筋の看板選手として活躍したが、チームの好成績には結びつかなかった。当時オーナーを務めていたフィリップ・リグレーは、チームを低迷から脱出させようと様々な案を講じた。1960年のシーズン途中には、この年に監督に再就任したばかりで、開幕から不調だったチャーリー・グリムと当時カブスの専属解説者を務めていたルー・ブードローを入れ替えた。翌1961年からは監督を固定せず、8人のコーチが監督を交代して務めるという類のない制度を導入し、1965年までこの制度を続けた。しかしどちらも成果を挙げることはできず、むしろチームの混迷はより深まることとなる。1966年には名将レオ・ドローチャーが監督に就任。1960年代後半になると、ファーガソン・ジェンキンス、ビリー・ウィリアムス、ロン・サントといったスター選手も台頭し始め、チームも上位に進出する機会が多くなる。1969年には地区制が導入され、カブスはナショナルリーグ東地区に移動。そしてこの年には開幕から首位を独走し、シーズン終盤手前の8月19日の時点で2位ニューヨーク・メッツと8ゲーム差をつけた。しかしここからメッツの猛追によって差は縮まり、9月10日に首位を明け渡すと、そのままメッツの逆転優勝を許した。以降チームも優勝に絡むことはなくなり、上記選手の多くがワールドチャンピオンどころかリーグ優勝さえ経験することなくユニフォームを脱ぐこととなった。1970年代にはリック・ラッシェルがエースとして活躍。1975年、1976年にビル・マドロック、1980年にビル・バックナーがそれぞれ首位打者を獲得し、1979年にはデーブ・キングマンが本塁打王を獲得した。1981年には長年に渡ってオーナーを務めたリグレー一族がチームを売却し、代わって地元新聞社のシカゴ・トリビューンがチームを買収するなど、この頃は次第にチームの変革が進んだ時期でもあった。1981年、長い間オーナーを務めたリグレー一族は、地元シカゴの新聞社であるトリビューン・コーポレーションにチームを売却。1982年、ライン・サンドバーグがフィラデルフィア・フィリーズから移籍。1984年にはジム・フレイが監督に就任し、シーズン前にはバックナーとボストン・レッドソックスのデニス・エカーズリーをトレード、シーズン途中にはメル・ホール、ジョー・カーターとクリーブランド・インディアンズのリック・サトクリフをトレードするなど補強に励んだ。サトクリフは16勝1敗という驚異的な成績でサイ・ヤング賞を獲得し、サンドバーグは「20盗塁・20二塁打・20三塁打・20本塁打」に後一歩と迫る成績を残した。彼ら2人を中心にチームも快進撃を続け、この年には初の地区優勝を果たした。リーグチャンピオンシップシリーズではサンディエゴ・パドレスと対戦。第1戦、第2戦と2連勝し、リーグ優勝に王手をかけるが、その後2連敗で決着は最終戦に持ち込まれた。迎えた最終戦では6回まで3対0とリードしていたが、7回に一塁を守っていたレオン・ダーラムがエラーを犯し、逆転負けを喫した。1987年にはモントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ)からアンドレ・ドーソンが移籍し、49本塁打・137打点を記録したが、チームは最下位となった。ドーソンは二冠王に輝き、異例の最下位チームからのMVP選出となった。しかし1988年にはドン・ジマー監督が就任し、グレッグ・マダックス、マーク・グレースら若手選手が台頭。そして1989年には上記選手を擁して、再び地区優勝を果たした。リーグチャンピオンシップシリーズでジャイアンツと対戦。本拠地リグレー・フィールドでの初戦は敗れたものの、第2戦で勝利し、1勝1敗で敵地キャンドルスティック・パークに乗り込んだ。しかし結果は全て僅差で敗れ、3連敗。またしてもリーグ優勝はならなかった。1992年にホワイトソックスからトレードでサミー・ソーサを獲得。ソーサは本塁打王2回の他、シーズン60本以上を3回記録するなど、MLBを代表する強打者として活躍した。1998年にはマーク・マグワイアとの熾烈なシーズン最多本塁打記録争いを繰り広げ、66本塁打を記録。この年の5月6日には新人のケリー・ウッドがロジャー・クレメンスと並ぶ1試合20奪三振の快挙を成し遂げ、どちらもカブスファンはもちろん全米の野球ファンが注目することとなった。この年にはチームもワイルドカードを獲得し、プレーオフに進出するが、ディビジョン・シリーズでは、マダックスら先発三本柱を擁するアトランタ・ブレーブスに手も足も出ず、3連敗を喫した。2003年にはダスティ・ベイカーが監督に就任。この年にはマーク・プライアー、ウッド、カルロス・ザンブラーノ、マット・クレメントからなる先発4本柱が揃って13勝以上挙げるなど活躍をみせ、14年ぶりに地区優勝を果たす。ディビジョンシリーズでブレーブスを下し、リーグチャンピオンシップシリーズではフロリダ・マーリンズと対戦。第1戦では敗れたものの、第2戦から3連勝し、悲願のリーグ優勝は目前と思われた。しかし第6戦、リードして迎えた8回に、ファウルボールの捕球をファンに妨害されアウトをとれず(スティーブ・バートマン事件)、ここから逆転負けを喫してしまう。そして続く第7戦も落としたことで、あと一歩のところでワールドシリーズには届かなかった。その後、2004年、2005年と続けて地区優勝を逃し、2006年には6年ぶりに地区最下位に沈んでしまった。この年のオフにはベイカー監督を解任し、ルー・ピネラを新監督に据えた。アルフォンソ・ソリアーノを8年総額1億3600万ドルという巨額で獲得するなど、一大補強を行った。2007年はミルウォーキー・ブルワーズとナ・リーグ中地区で熾烈な首位争いを続け、4年ぶりに地区優勝を勝ち取ったが、ディビジョンシリーズでアリゾナ・ダイヤモンドバックスと対戦し3連敗で敗退した。2007年オフには日本一になった中日ドラゴンズからFAとなった福留孝介を4年総額4800万ドルで獲得。投手陣ではカルロス・ザンブラーノをはじめとした豊富な先発投手を抱え、打撃陣ではソリアーノ、デレク・リー、アラミス・ラミレスと強打者が揃っている。1908年のワールドシリーズ制覇からちょうど100年目にあたる2008年は、開幕からブルワーズと首位争いをして、ナ・リーグ最高勝率で2年連続の地区優勝。しかし、ディビジョンシリーズではロサンゼルス・ドジャースと対戦し、前年同様3連敗で敗退した。オーナーのトリビューンは、2007年シーズン終了後にチームを売却して球団経営から撤退する予定だったが、買い手が見つからないまま2008年末に経営破綻、2009年にようやくシカゴの富豪リケッツ家への球団譲渡が合意された。しかしその後は成績がぱっとせず、2011年は福留などを7月に一部金銭を付けて放出し、若手に切り替えた。現在ファーム組織は2011年シーズンスタート前にマット・ガーザの獲得のために優秀な有望株を5人放出する大出血トレードで放出し一気に悪化しトッププロスペクトが不在に陥る事態になっている。2012年シーズンはセオ・エプスタインが球団副社長に就任し、他にもサンディエゴ・パドレスから自身の腹心でもあり、GMだったジェド・ホイヤーをカブスGMに任命。そしてパドレスのスカウト・育成部長ジェイソン・マクロードを引き抜き放漫経営体制を変えると同時にエプスタインが以前在籍期間していたボストン・レッドソックスの様なファーム主導型チームに変革を進める年になる。2013年・2014年は、連続で中部地区最下位に沈んだ。2015年、タンパベイ・レイズを2度の東部地区優勝、このうち2008年にはレイズをリーグ優勝に導き、地区優勝を果たした2008年と2011年にアメリカンリーグの最優秀監督に選ばれたジョー・マッドンを招聘し、さらにボストン・レッドソックスを2007年と2013年にワールドチャンピオンに導いたジョン・レスターを獲得するなどした。同監督の「若手の成長が必要だ、『頼りにされている』という自覚を選手達に持たせる」という方針のもと、リーグで2番目に若い平均26.9歳の打線が組まれ、就任1年目にして彼ら若手の能力が開花。若き主砲となったアンソニー・リゾ(31本塁打・101打点)、メジャー1年目のクリス・ブライアント(チームのルーキーレコードを更新する26本塁打を記録)をはじめ、アディソン・ラッセル、カイル・シュワーバーなどが活躍。投手でもボルチモア・オリオールズから移籍して3年目でエースとなったジェイク・アリエタが22勝6敗でナ・リーグ最多勝、8月30日のロサンゼルス・ドジャース戦ではノーヒットノーランを達成し、特に夏以降破竹の勢いで勝利を重ね97勝を挙げた。しかし、MLB史上に残る激戦の末、中部地区3位という成績に終わった(これは通常なら優勝でもおかしくない成績だった。ちなみに1位のセントルイス・カージナルスは100勝62敗、2位のピッツバーグ・パイレーツは98勝64敗)。とはいえ、7年ぶりにポストシーズンに進出。PNCパークで行われたワイルドカードゲームにて、同じ中部地区に所属し98勝を挙げたピッツバーグ・パイレーツをアリエタの完封勝利で下して地区シリーズに進出すると、今度は、これまた同じ中部地区に所属し、このシーズンにメジャー最多の100勝を挙げて地区3連覇を果たしたセントルイス・カージナルスを相手に、初戦こそ落としたもののそのあとの第2戦、さらにリグレー・フィールドに移動して行われた第3戦・第4戦を制し、リーグ優勝決定シリーズ進出を果たし、中部地区を完全制圧した。同球場でポストシーズンシリーズを突破したのは、歴史上初めてだった。9年ぶりに東部地区を制したニューヨーク・メッツとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズでは、これまでメッツには1勝もさせなかったものの、奇しくも「ビリー・ゴートの呪い」の山羊と同じ名前を持つダニエル・マーフィーに4試合全て本塁打を打たれ、最終的にはロサンゼルス・ドジャースとの地区シリーズ第4戦から続く6試合連続ホームランというMLBのポストシーズン最長記録を達成させられる等、地元・リグレーフィールドでもニューヨークで行われた最初の2戦(実績十分のレスターと22勝で最多勝、1.77の防御率に236三振を記録したエース・アリエタが先発した試合)で勢いづいたメッツを止められず、また地区シリーズでは2割4分2厘とナショナルリーグのポストシーズン出場チームでは最も高かった打率が、リーグ優勝決定シリーズでは1割6分4厘に抑えられ、結局1勝も出来ずにスイープされ、またしてもワールドシリーズ出場は果たせなかった。2016年は、エースのアリエタが4月21日のシンシナティ・レッズ戦で史上7人目となる2年連続のノーヒットノーランを達成する等、地区優勝を果たした2008年以来の7割7分3厘という圧倒的な勝率で4月の地区首位を確定、11-8で勝利した6月27日のシンシナティ・レッズ戦でクリス・ブライアントが近代メジャーでは初となる1試合でのホームラン3本と二塁打2本を記録した。そして中部地区を独走して9月16日、チームはブルワーズに逆転負けしたものの、マジック対象チームだった中部地区3連覇中のカージナルスがジャイアンツに2-6で敗れて8年ぶりの優勝。3地区制になってから146試合での優勝は史上5番目の速さだった。8年ぶりの地区優勝を果たしても勢いは止まらず、9月20日のレッズ戦でジェイソン・ハメルが15勝目を挙げ、エースのアリエタ、レスター、カイル・ヘンドリックスも既に15勝を挙げていてチームに4人の投手が15勝以上を挙げたのも、9月26日のパイレーツ戦を12-2で勝利し球団史上6回目となるシーズン100勝を挙げたのはいずれも81年ぶりである。ワイルドカードゲームを制したサンフランシスコ・ジャイアンツとのディビジョンシリーズでは、カブスの2勝1敗で迎えた敵地AT&Tパークでの第4戦、2対5のビハインドで迎えた9回表に一挙4点を挙げ、6対5で勝利。2年連続のリーグ優勝決定シリーズ進出を決めた。このシリーズでは、カブスの1勝で迎えた第2戦先発のヘンドリックスが2回にジャイアンツ先発のジェフ・サマージャから中押しとなる2点タイムリー、4回にはヘンドリックスの負傷交代を受けて登板した2番手のトラビス・ウッドがジョージ・コントスからダメ押しとなるソロホーマーを放てば、続く舞台をAT&Tパークに移した第3戦でも先発のアリエタが2回にジャイアンツのマディソン・バンガーナーから先制の3ランを放つなど投手陣の打撃での活躍が目立った。2000年10月、ナショナルリーグなどを統括するメジャーリーグベースボールの知的財産権を管理するアメリカ国内の企業が、日本の特許庁へシカゴ・カブスのロゴの商標登録を出願したが、「カブスのロゴの『UBS』部分がスイスの金融機関『UBS』に酷似している」として、特許庁は認めなかった。同企業はこれを不服として審判を申し立てたが、同庁は2006年9月、審判請求を認めないとの審決を出し、改めて却下した。そのため、同企業が特許庁の審決は誤りとして、審決の取消を求める訴訟を起こした。知財高裁は2007年8月8日、「カブスのチーム名は広く知られ、そのロゴもまた日本で知られている」として、特許庁の審決を取り消した。

出典:wikipedia

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