北海道南西沖地震(ほっかいどうなんせいおきじしん)は、日本標準時1993年(平成5年)7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底で発生した地震である。マグニチュードは7.8(Mw7.7-7.8)、推定震度6(烈震)で、日本海側で発生した地震としては近代以降最大規模。震源に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者202人、行方不明者28人を出した(このため、奥尻島地震とも呼ばれる)。さらに、ロシアでも行方不明者3人。奥尻島の震度が推定になっている理由は、当時の奥尻島に地震計が置かれていなかったためである。震源は北緯42度46.9分、東経139度10.8分、深さ35kmであり、ユーラシアプレートと北アメリカプレートのプレート境界のサハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯にある奥尻海嶺直下で発生した。気象庁発表のマグニチュード(M)は7.8、モーメント・マグニチュード(Mw)は7.7。震源断層の一部は奥尻海嶺の東端に露出したと考えられているが、この地震の原因となった活断層は未確認である。複数の研究機関によりさまざまな解析が行われた。2 - 3つのアスペリティの破壊により生じた地震と解析されている。最初の破壊から20秒後南側の領域で次の破壊がおき、その10秒後に別の領域が破壊された、全体の破壊継続時間は40秒である。直後の調査で全体として奥尻島は沈降した、沈降量は北側で約30cm、南側で60cmから70cmであった。しかし、島には海岸段丘が発達しており12.5万年前から0.9m/1000年で隆起しているとされるが、どのような活動により隆起したのかは不明である。地震から20年後の2013年に行われた調査では、北海岸は僅かに沈降、東海岸では10cm未満の沈降が継続、西海岸で4cmから8cmの隆起とされ、依然海岸段丘から読み取れる隆起活動には転じていない。特異的な地殻変動や前震は観測されず、地震予知は行えていない。後日の解析により、1992年頃より今回の震央付近の活動が活発化している事が判った。また、1984年3月18日から5月10日にかけて奥尻島で最大M4.1を観測した群発地震が発生していたが、1988年頃までは静かな状態が続いていた。震源域が島のすぐ近くであったため地震発生から数分で奥尻島に津波が到達したことがこの地震の特徴となっている。また、地震発生の4分から5分後に島の対岸にある北海道南西岸の瀬棚町(現・せたな町)や大成町(同)に到達した。なお地震発生が夜間であったため襲来する津波を撮影した写真や動画は見いだされていない。この高い遡上高の津波を発生させた原因は、藻内西方沖約15kmで発生した海底地すべりと推定されている。また、本地震による津波は発震から約1時間後に能登半島、約3時間後に九州北部沿岸へ到達した。遡上高は、震源からの津波の直撃を受けた島の西側で特に高く、藻内地区で最大遡上高31.7mを記録した。なお、調査によっては30.6m。奥尻島の各地区における津波の高さ(波高)は、稲穂地区で8.5m、奥尻地区で3.5m、初松前地区で16.8mに達した。津軽海峡でもっとも高い津波を観測した地点は、大間(1.0m)。震度3以上を観測した地点は以下の通り。気象庁とNHKでは、地震を受け直ちに震源と津波情報の発信を急いだ。その結果、地震発生から5分後の午後10時22分に、気象庁は北海道日本海沿岸と奥尻島を含む北海道西方四島全域及び東北地方の日本海沿岸に津波警報(大津波)、北海道と東北地方の太平洋沿岸に津波警報、オホーツク海沿岸に津波注意報を発表した。NHKでは津波警報発表を受け、地震発生から7分後の午後10時24分47秒に1回目の緊急警報放送を実施した。なお、北海道・東北地方以外でも、津波警報は翌13日午前0時12分に新潟県から福井県の沿岸に、津波注意報は12日午後10時26分には新潟県から石川県能登半島東部の沿岸に、午後11時24分には石川県能登半島西部から島根県の沿岸に、翌13日午前0時12分には山口県から福岡県の日本海沿岸と九州西岸(有明海・八代海と壱岐・対馬含む)にそれぞれ発表された。なお、午前0時12分の津波警報発表で、NHKでは2回目の緊急警報放送を実施した。1983年(昭和58年)の日本海中部地震では、地震発生から津波警報発表まで14分、津波警報の報道までに19分を要した。それと比較すれば、この地震の報道は、かなり迅速化が図られたといえる。ところが、震源に最も近かった奥尻島には地震発生から5分と経たないうちに大津波が押し寄せ、下述のように多くの犠牲者を出してしまった。日本海中部地震の時の半分に満たない時間で報道できたにもかかわらず、奥尻島の住民には津波警報が間に合わなかったことになる。第40回衆議院議員総選挙が近かったため、政見放送を放送していた地域が多く、全国ニュースの切り替えには時間がかかったという。背景には、政見放送を中断することが公職選挙法に抵触する可能性があったためと言われている。報道は災害当初、北海道本島側にある明治期より古くから測候所のあった寿都町より電話にて状況報告が行われていた。災害当時NHKの教育番組制作のためのスタッフが奥尻島青苗地区に滞在中であった。スタッフはカメラ一台とテープだけを持って高台に避難した。避難に際しワゴン車の後部ドアを開いた後方に向けて撮影を続けた素材が存在するが、徒歩避難で力尽きた老人数名を置き去りにした様子が写っていたため、地震翌日に一度放送されただけで非公開となった。その後函館局と電話がつながり、取材班のディレクターが電話リポートを行った。翌朝、札幌局がヘリコプターにて最小限の中継機材を運びこみその機材で翌朝実況生中継が行われた。民放でも一部番組を変更して報道したが、北海道放送(HBC)が地震発生当初、半年前の釧路沖地震を思い出したのか、当時の報道部社員が「釧路、釧路、釧路!」と絶叫し、釧路放送局の関係者に連絡しようとしていた。奥尻島には当時地震計が設置されておらず、災害当初は対岸の北海道本島にあり古くから測候所のある寿都町の情報が報道されたが、寿都町は地盤がよいため震度4程度が報道された。しかし奥尻島の災害がわかるにつれて最終的に人的被害は、死者230人(青森の1人含む)、行方不明者29人、負傷者323人。家屋被害は、全壊601棟、半壊408棟、一部損壊5490棟、焼失192棟、浸水455棟、その他735棟に及んだ。さらに、道路の損壊630箇所、港湾・漁港の被害80箇所、船舶被害1729隻を出した。なお、道南の大成町(現せたな町)では、地震によるショックで52歳の男性が、病院へ搬送中に死亡している。集計年、機関により差違が見られる。島の東部にある奥尻地区では、地震直後に崖崩れが発生、直下にあったホテル洋々荘・森川食堂などが土砂により倒壊し、宿泊客と従業員41名のうち、28名が死亡した。その他数か所で崖崩れが発生し、道道奥尻島線などが一時通行不能となった。フェリーターミナルの方を迂回するしか方法はなかった。震度計が設置されていなかったことなどから、正式な震度については発表されていない。そのため、推定最大震度は6(北海道本土では最大で5を観測)となった。ただし、青苗地区のみを対象とした実地検分(気象庁職員が実際に現地を視察し、震度5・6を観測した地点で家屋倒壊が一定の基準を満たすかどうかについての検査)を行えば、当時の震度で7となっていた可能性が高い。津波での死者・行方不明者は、奥尻島で島の人口の4%にあたる198人、北海道本島の島牧村や北檜山町・瀬棚町・大成町(いずれも現在のせたな町)などでも死者を出した。また、北海道利尻町から山口県および対馬の広い範囲に津波が押し寄せ、中国地方でも高いところで2-4mの津波があり、船舶や港湾施設に被害があった。第1波は地震発生後2-3分で奥尻島西部に到達し、5-7分後には藻内地区のホヤ石水力発電所に到達した。北海道本土側の茂津多岬付近では第1波が地震発生後約5分で到達している。奥尻島西部では第一波到達の10分後に最大波となる第二波(島を回り込んだ波)が到達した。津波の被害を最も大きく受けたのは、奥尻島南部の青苗地区である。三方を海に囲まれたこの地区は、震源より直接到達した波が、市街地でも高さ6.7mに達したほか、島を回り込んだ波、北海道本土で反射した波など複数方向から津波の襲来を受け、事実上壊滅状態になった。地区の人口1,401人、世帯数504に対し、死者・行方不明者109人、負傷者129人、家屋全壊400棟という被害を出した。このほか、藻内・松江など島の南半の各地区と、北端の岬にある稲穂地区でも津波で死者が出ている。奥尻島は1983年(昭和58年)の日本海中部地震で津波被害を受けており、このときの到達は、地震発生から17分後であった。この経験から徒歩で迅速に避難し助かった人も多くいたが、逆に津波到達までは時間があると判断し、車で避難しようとして渋滞中に、また車で避難中に避難路の選択を誤ったり、あるいは避難前に用を済ませようとするうちに津波に飲まれた人も少なくなかった。その一方、海岸付近に立てられた鉄筋コンクリート2〜3階建ての住宅が一家の命を救ったという事例が存在する。この地震では、津波火災も発生した。青苗地区では、津波襲来直後に9件の火災が発生し、北東からの風速10m近い風にあおられ、瞬く間に燃え広がった。出火原因は分かっていないが、奥尻消防署の調べによると、午後10時40分頃、青苗北部の旅館がある一角から出火。さらに、午前0時30分頃にも漁業協同組合の倉庫や食堂が多くあるあたりから出火したという。延焼が進むにつれ、プロパンガスのボンベや暖房用の燃料タンクが爆発を繰り返した。さらに、津波による漂流物が消火活動を阻み、手のつけられない状態となった。そのため、消防団は破壊消防を実施し、延焼の拡大を食い止めた。その結果、青苗1区の17棟だけは焼失を免れた。それ以外は火災により焼失したか、津波により流出している。鎮火に至ったのは、最初の出火から約11時間後で、延焼面積は約5ha、焼失は192棟に及んだ。火災を直接の原因とする死者はなかった。津波により直接・間接的に被害を受けた施設、住宅、生活基盤等の復興の他、将来の災害を見越した各種防災設備が構築された。復興に投入された費用は約927億円にのぼる(単純に当時の島の人口約4700人で割ると一人当たり約1970万円という計算になる)。なお、災害後に190億円を超える災害義援金が集まり、災害復興、災害対策、各種見舞金等に充てられた(檜山広域行政組合ウェブページより)。
出典:wikipedia
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