横田飛行場(よこたひこうじょう)は、日本の東京都多摩地域中部にある軍用飛行場。アメリカ空軍と航空自衛隊の横田基地(よこたきち、)が設置されている。在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ基地(兵站基地)としての機能を有している。また朝鮮戦争における国連軍の後方司令部も置かれている。2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。拝島駅の北側で東福生駅の東側に位置し、福生市・西多摩郡瑞穂町・武蔵村山市・羽村市・立川市・昭島市(構成面積順)の5市1町にまたがる、沖縄県以外の日本では最大のアメリカ空軍基地であり、事実上、日本の行政権の及ばない治外法権地区である。沖縄県の米軍基地のように民有地がなく、そのほとんどが国有地で占められている。軍用機に混じり、軍人及びその家族の本国帰省用に、米軍と契約している航空会社の定期チャーター便(パトリオット・エクスプレス)の民間旅客機が飛来する()。また、アメリカ合衆国大統領専用機「エアフォースワン(VC-25)」が訪日した際、東京国際空港に到着した後、横田飛行場までフェリーフライトし、エアフォースワンを保管する役割も担っている。また、ユナイテッド航空やデルタ航空などアメリカの航空会社の定期便のダイバートや米本国間米軍チャーター (MAC) などで使用されることがある(通常は発着しないものの、何らかの理由によるチャーター便運行時やダイバート発生時に着陸できる許可を得ているため)。貨物便はエバーグリーンインターナショナル航空など複数の航空会社が乗り入れている。さらに、近年は北大西洋条約機構(NATO)加盟国であるフランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本国からニューカレドニアなどの海外県への移動の際のテクニカルランディング地として使用されることもある。東京都調べによる2005年5月時点の基地関係者数は、軍人3,600人、軍属700人、家族4,500人、日本人従業員2,200人の、合計約11,000人である。なお、日米地位協定により、アメリカの海外領土扱いで、米軍人、軍属、家族は出入国の手続きを必要としない。このため、アメリカの高位高官が出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本はその事実を知ることができない。施設整備のためなど、一時的に横田飛行場に入場する際には、入場者の日本国籍確認のため、運転免許証(2つの4桁暗証番号入力が必要)・パスポート・住民基本台帳カードによる身分証明書の提示が必要である。入場者の国籍によっては、横田飛行場への入場が許可されない。1940年、帝国陸軍航空部隊の立川陸軍飛行場(立川飛行場)の付属施設として建設された、多摩陸軍飛行場(たまりくぐんひこうじょう、多摩飛行場)が前身。同年4月1日、新鋭戦闘機を筆頭とする各種航空兵器の審査を行う官衙である飛行実験部が立川より多摩に移転、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年10月15日には、飛行実験部は拡充改編され陸軍航空審査部となり審査業務を行いつつ、末期の本土空襲時には部員と器材を使用し臨時防空飛行部隊(通称・福生飛行隊)を編成し戦果をあげた。敗戦後は1945年9月4日に米軍に接収された。戦中、米軍は偵察機から従来把握していなかった日本軍飛行場の報告を受け、その基地を横田飛行場と名づけたため、また横田基地と呼ばれるようになった。接収後に基地の拡張工事が行われ、1960年頃にはおおむね現在の規模となった。拡張に際しては、北側で国鉄八高線や国道16号の経路が変更され、南側で五日市街道が分断された(この為、この周辺では常時渋滞している)。朝鮮戦争当時はB-29爆撃機の出撃基地として機能し、ベトナム戦争時も補給拠点として積極活用されていた基地である。2012年3月26日に航空自衛隊の航空総隊司令部などが府中基地より移転し、航空自衛隊横田基地の運用が開始された。(基地の沿革についての詳細は、瑞穂町の資料等を参照)多摩飛行場の敷地大部分が当時の西多摩郡福生町(現在の福生市)にあったことから、地元や陸軍航空審査部では福生飛行場(ふっさひこうじょう)と呼ばれていた。この多摩飛行場・福生飛行場を米軍が戦中より「YOKOTA」と呼称したのは、アメリカ陸軍地図サービスが1944年に作成した地図では、北多摩郡村山町(現在の武蔵村山市)の大字名であった「Yokota」が、「Fussa」や「Hakonegasaki」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており、地名としての「横田」は現在では消滅したものの、「武蔵村山市役所」の西隣のバス停名称として残っている。横田飛行場には、朝鮮戦争における国連軍の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また国連軍参加国のうち、8ヶ国の在日大使館付駐在武官が参加する合同会議が、3ヶ月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には日章旗、星条旗の他に、国連旗が常時掲揚されている。国連軍後方司令部は、朝鮮戦争休戦協定成立後、1954年(昭和29年)に、日本とアメリカ・イギリス・フランスなど10ヶ国(のちにタイ王国も加わる)が「国連軍地位協定」を結んだことが始まりで、現在でも朝鮮戦争が戦時国際法上「休戦」中(戦争継続中)であることが、設置の根拠となっている。かつてはキャンプ座間に設置されていたが、2007年(平成19年)11月2日に横田飛行場へ移転した。2010年12月17日に閣議決定・公開された22大綱及び23中期防に基づき、以下の部隊等が府中基地より移駐及び新編されることが発表された。2012年3月21日付で移転を完了し、26日から「航空自衛隊横田基地」として運用を開始した。基地司令は作戦システム運用隊(旧・防空指揮群)司令が兼任(施設所在地:東京都福生市大字福生2552)。いずれの局も24時間運用を行っている。毎年8月、9月頃の連続した土曜日と日曜日に「横田基地日米友好祭」が開催され、普段は立ち入ることの出来ない一般人(原則は日本国籍者とアメリカ国籍者)も、第5ゲート(最寄駅は青梅線牛浜駅)から基地に入場できる。友好祭では米軍機や自衛隊機の展示を行う航空ショー、バンド演奏、米兵による模擬店出店、子供向けの遊戯施設の設置などがおこなわれ、最終日の終了直前には花火の打ち上げもおこなわれてる。2013年は米軍の経費縮減のために無期限の延期となったが、2014年から再開された。基地問題は進駐直後から発生し、滑走路建設のための砂利採取は多摩川の河床を低下させ、下流の府中用水などに影響を及ぼした。また、航空燃料や廃油の流出による地下水や井戸水の汚染、異臭や引火事故、騒音および、たび重なる墜落事故など、周辺住民の日常生活へも深刻な被害を及ぼした。立川基地が返還された一方、横田基地では現在も年間の離着陸数は20,000回は羽田空港の5%程度(羽田空港の1年間の航空機発着回数は約38万4000回)年に数回実施されていた空母艦載機着陸訓練は夜間にも行われていた。このような訓練と、日常的に行われている飛行およびエンジンテストなどにより、周辺住民に多大な騒音被害を与えているため、国や米国に対し、飛行差し止めと騒音被害に対する損害賠償を求める訴訟もたびたび起きていて、現在、過去分の損害賠償の一部についてのみ認める判決の流れがほぼ定着している。東京地裁立川支部に最近提訴され係争中のものとしては、2012年12月12日に起こされた「第9次横田基地公害訴訟」と2013年3月26日に起こされた「第2次新横田基地公害訴訟」がある。2012年まで東京都知事を務めた石原慎太郎は、横田基地を民間航空機にも開放する「軍民共用化」を2003年都知事選で公約しており、石原の任期中には実現しなかったが、後任の猪瀬直樹知事も実現に意欲を示した。一方、地元自治体の間では反対意見も根強い。在日米軍再編に絡む横田基地の軍民共用化は「検討開始から12か月以内に終了する」という日米の合意に沿って、2006年10月より検討会において協議されてきている。しかし、2007年10月半ば、日本政府関係者の報道人への発言によれば、アメリカ側は横田基地への民間機乗り入れに難色を示しており、2007年11月8日、来日中のゲーツ・アメリカ国防長官と高村外務大臣との会談において、協議の継続を求めた高村外相の要請にも同長官は首肯しなかった。日米両政府はアメリカ空軍と航空自衛隊による「軍軍共用化」で合意しており、航空管制権が日本側に返還され、航空自衛隊が受け持つことになる。この合意は実現し、同基地には空軍第5・第13航空軍司令部と、東京都府中市から移転してくる航空自衛隊航空総隊司令部が同居することになった。共用化や総隊司令部の移転などは当初の予定では2010年となっていたが、2012年3月26日、移転が完了し、同日から総隊司令部ほかが運用を開始した。同庁舎地下には空自と米軍が一堂に会する「共同統合運用調整所」が設けられ、地下通路でアメリカ空軍の指揮所とも行き来できる。全世界的な米軍再編の動きに従って、キャンプ座間(神奈川県)への陸軍第一軍団司令部移転計画(現在は米ワシントン州フォートルイスに所在)が存在し、これが実現した場合、四軍の司令部が日本に揃うことになり、“日米軍事一体化・アメリカの世界戦略への協力だ”として反対する一部反米左派系市民団体の反発もあるが、日本政府は米軍再編へ協力する姿勢を示している。だが2010年12月17日に閣議決定し公表された中期防衛力整備計画の内容に、「米軍とのインターオペラビリティを向上するため、横田基地を新設し、航空総隊司令部等を移転する」との表現があることが判明。沖縄県以外の日本では唯一、狭小な行政面積の3分の1を基地に提供している福生市が、航空自衛隊横田基地の新設は、たんなる呼称上の問題にとどまらず、基地機能の強化、基地態様の変化に直結するものだとして、内閣総理大臣、防衛大臣などに、強く抗議、申し入れをおこなっていた。その後民主党政権の決定によって、航空自衛隊横田基地は実現して現在に至る。横田進入管制区、通称「横田空域」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ広大な空域の航空管制は横田基地で行われている。「横田ラプコン(RAPCON: Radar Approach Control の略)」とも呼ばれるこの空域(2016年現在、最高高度は23000フィート=約7010m)はアメリカ空軍の管制下にあり、民間航空機であっても当該空域を飛行する場合は米軍による航空管制を受けなければならない。しかも、事前協議によって飛行経路を設定する必要があり手続きが煩雑であるため、羽田空港を発着する民間航空機の多くは、通常時には同空域を垂直軸または水平軸で避けるルートで飛行している。なお、航空機の性能向上を背景として、短距離を除く国内線ジェット旅客機の巡航高度は8000m~12000mであり国際線等の長距離路線は更に高高度であり、後述の空域高度一部削減により横田空域の存在はプロペラ機や、羽田空港近傍での上昇飛行経路の設定に多少の影響がある他には多大な影響を及ぼすものでは無くなっている。同空域は1992年(平成4年)に約10%、2008年9月25日に約20%が返還され、現在は高度約7000mから約2400mの、概ね西高東低の6段階の階段状となっており、特に西日本方面からの航路が集中する南半分については東部2450mから西部4900mと比較的緩やかな階段状となっている。2008年の一部返還により、羽田空港を利用する民航機が横田空域を迂回したり同空域を越すための上昇率が減るため、年間約180億円(羽田空港の再拡張前は130億円)の経済効果があると試算されている。約180億円の内訳は、燃料費削減による効果が約66億円分、飛行時間短縮による運航コスト低減効果が36億円分、旅客利便性向上効果が77億円分とされる。要求上昇率の緩和は、航路距離にもよるがジェット旅客機についてほとんど横田空域の存在を無視できるようになり、実際に横田空域の空域外上空を飛び越すルートの設定が大幅に増え、これにより羽田空港の年間発着回数は約296,000回から407,000回へと増加する(なお羽田空港の離着陸経路や発着回数は横田空域の存在だけでなく騒音問題他複雑な条件が絡む)。また時間短縮効果は、羽田出発便のうち中国地方・九州北部行きで3分、関西地方・九州南部・沖縄行きで約2分、羽田到着便では2分以上とされる。なお前述の空域返還により横田空港を南から離発着する軍用機等は長い距離で低空飛行を強いられ、進入路周辺では騒音問題や事故危険の増加を招いている。鉄道貨物によってジェット燃料の輸送が行われている。JR鶴見線安善駅に隣接する米軍鶴見貯油施設より、平成26年3月15日ダイヤ改正より武蔵野貨物線・JR南武線・青梅線経由で運行される専用貨物列車(通称「米タン(べいたん)」)が、平日1日1往復設定されている。(平成26年4月時点で火・木曜の週2日が中心)使用されるタンク車は、米軍輸送隊が日本石油輸送より借り受けているJP-8(航空用ジェット燃料の名称・JP-8は軍用)と車体に書かれた専用タンク車であり、36t積みのタキ38000形を使用した13両編成、または45t積みのタキ1000形を使用した12両編成で運行される。拝島駅に到着した貨車は、駅構内でディーゼル機関車に付け替えられて基地内まで伸びる単線非電化の専用線(引込み線)を経由して運び込まれる。以前は定期列車であったが、現在は臨時列車となっている。但し、定期列車時代から運行有無は荷主である米軍の都合で決定されており、臨時列車化された現在と運行頻度は殆ど変りない。1967年(昭和42年)8月8日に新宿駅にて発生した米軍燃料輸送列車事故は、隣接する米軍立川基地へ運転されていた同種の貨物列車で発生したものであり、当時のベトナム戦争反対運動や学生運動等の活動を刺激する原因となった。これとは別に国土交通省地図・空中写真閲覧サービス(以下同様)で公開されている、昭和22年米軍機撮影航空写真によると、八高線東福生~箱根ヶ崎間の東京水道(羽村山口軽便鉄道跡)交差周辺から基地内に数百メートル程の引込み線が写し出されている。積荷が白く写ってることから石灰石の模様。基地拡張工事によるセメント資材輸送用として使用されていたと思われる。昭和27年測量図では同地点には逆の西側に短い側線が書かれている。昭和31年撮影の航空写真では引込み線途中に建物があり、また貨物などが写っていないことからこの頃には廃線したと思われる。
出典:wikipedia
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