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尾張徳川家

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。徳川家康の九男徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする。義直は慶長8年(1603年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の慶長11年(1606年)に義直は、兄松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際には家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀州徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後には御三卿が創設された影響もあって、結局尾張家からは将軍を出せなかった。藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家であった。このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍についた。尾張徳川家の支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、1799年に尾張徳川家、1801年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し、19世紀以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返して現在に至っている。10代から13代まで吉宗の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は14代慶勝を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。明治維新後は華族に列し、侯爵を授けられた。越前松平家から養子に入った19代当主徳川義親は、財団法人尾張徳川黎明会(現・徳川黎明会)を設立し、旧大名家の中でもいち早く宝物の保護を図った。1935年、愛知県名古屋市東区の尾張徳川家の別邸跡地に徳川美術館を開いた。徳川美術館では、源氏物語絵巻をはじめとする尾張徳川家伝来の貴重な文化財を保存し、公開している。凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。

出典:wikipedia

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