伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。語源は「伊呂勢(=弟)」であり、出雲の分派としての機能から発達したという説がある。また、海に近いことから「イソ」が転じたとする説もある。『日本書紀』などの倭姫命伝説では美し国(うましくに)と称された。『伊勢国風土記』によると、神武東征神話で、国譲りの国つ神(土着の勢力)伊勢津彦(イセツヒコ)の名「イセ」にちなむという。大和政権の勢力がこの地域にまで及んだことを神格化したものと考えられている。7世紀の孝徳天皇の時代に、島津国造、伊賀国造の領域も含んだ伊勢国造の領域を中心に成立した。天武天皇9年(680年)7月に伊賀国を分置した。8世紀はじめまでに志摩国を分立したが、その正確な時期は不明である。分立当初、熊野灘に面した沿岸部、現在の南伊勢町にあたる地域は志摩国に属していたが、後に守護の北畠氏により伊勢国に移された。伊勢国府は、『和名抄』によれば鈴鹿郡に存在した。奈良時代中頃の国衙は長者屋敷遺跡(鈴鹿市広瀬町・西富田町、)と推定され、「伊勢国府跡」として国の史跡に指定されている。発掘調査では政庁および官衙の遺構が発見されているが、国府としての整備は未完成のまま機能を終えたと見られる。奈良時代後期から平安時代にかけての国府に関しては明らかでない。南方の鈴鹿市国府町付近にある三宅神社遺跡・天王山西遺跡などで関連遺構が見つかっているが、中心施設は不明。なお国分寺跡・国分尼寺跡そばでは、白鳳寺院の遺構である南浦廃寺跡(大鹿廃寺跡)や、河曲郡衙跡(狐塚遺跡)の立地が知られる。延喜式内社総社・一宮以下なお、都波岐神社(鈴鹿市一の宮町)に関しても『大日本国一宮記』を基に一宮とする説が知られる。しかしこれは、椿大神社に関して「椿宮」を「チングウ」と読まれないように「椿宮<都波岐神社>」と記されたのが、都波岐神社との混同を招いたことによるとされる。室町幕府成立後も、南朝の重臣北畠親房の子孫が伊勢国司となって南伊勢に勢力を誇り、北伊勢を治める幕府守護と対立した。5代国司(伊勢北畠家としては4代)北畠教具の代に幕府と和睦し、伊勢守護も兼ねるようになった。志摩国守護も兼任。
出典:wikipedia
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