押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )は、アニメや実写映画を中心に活動している日本の映画監督。その他にも、ゲームクリエイター、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、大学教員等として活動している。東京都大田区出身。東京都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。静岡県熱海市在住。2008年度から2009年度まで東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授であった。代表作に『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』など。アニメ映画『イノセンス』(カンヌ国際映画祭コンペ部門出品作品)により、日本SF大賞を受賞した。大賞でアニメ映画が対象となったのはこれが初めてであった(星雲賞では過去に例がある)。押井自身も日本SF作家クラブ会員に。個人事務所は、有限会社八八粍。事務所所在地は、東京都港区虎ノ門。押井自身の全額出資によって設立された。押井守が多く用いる映像表現として、アニメにレンズの概念など実写的要素を取り入れたレイアウトシステムの導入、2Dの手描きのアニメと3DのCGIの融合、更にそれら素材にデジタル加工を施し、手描きの絵やCGIでは得られない質感を加えたり、画面全体に統一感を持たせるエフェクト処理(ビジュアルエフェクツ)などがある。これらの手法は全てが押井の独創ではないが、現在の漫画・アニメ界に関わる多くの人に影響を与えている(押井のこれらの手法の使い方が印象的であることの証明ともいえる)。また「映画の半分は音である」と語るほど音響と音楽を非常に重視する。初期の実験的作品「天使のたまご」ではクラシック系作曲家の菅野由弘に音楽を依頼し、現代音楽の手法が多用されている。管楽器を排し、ピアノや打楽器群と抑制された弦楽および合唱を用いた、透明で無彩色な音響設計が行われている。興行的には失敗となる本作は、アート色が強いがため、美しいが難解な性格のサウンドとマッチすることになる、とも評されている。近年の大作では音響作業を米国のスカイウォーカー・サウンドで行い、『紅い眼鏡/The Red Spectacles』以降の音楽はほとんどを川井憲次に任せている。もはや川井憲次の音楽表現は押井作品と切り離せないと言える。その映像センスと音楽表現、そして時には「ギャグ」、時には「衒学的」「哲学的」に語られる独特の長台詞回し(「押井節」とも呼ばれる)は、ファンから高い評価と支持を得ている。一般的には映画を構成する要素(A「キャラクター」・B「物語」・C「世界観」)はA→B→Cの順番で構築されるケースが多いが、押井作品では逆にC→B→Aとなることが多く、まず「世界観」ありきでそこから無理の無い「物語」・「キャラクター」が逆算で割り出される。押井の永遠のテーマとも言える脚本の方法論として、「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」がある。これも上記と同じく押井が源流ではない(前例として古くは荘子、近年ではフィリップ・K・ディック等が挙げられる)。これに付加して、同じ状況を何度も繰り返すなど「永遠性」を意識した演出も多用される。アニメーションにおいては演出万能論を唱えており、物語もキャラクターも演出家のものであって脚本はあくまで素材や動機に過ぎないとしている。北久保弘之によれば、脚本家が書いた脚本の7割は押井自身が書き直しているが、『うる星やつら オンリー・ユー』においては脚本家の金春智子から苦言を呈されている。映画は単に映像の快感原則の連続によってのみ成立するのではなく、あえて流れに逆らう部分が必要という考え(「ダレ場理論」と呼ばれる)から、押井作品には多くの割合でストーリーの進行とは直接関係ないダレ場(ある意味、眠気を誘うシークエンス)が挿入される。押井は自らを「娯楽作品をつくる商業監督である」と語っているが、一方で「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」、「1本の映画を100万人が1回観るのも、1万人が100回観るのも同じ」といった発言があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である。また、それに関連して「自分が普通の映画を撮ったところでなんら存在意義が無く、映画を発明するのが自分の役割」として、特に実写作品では実験的側面が強い傾向にある。職業監督として制作に入った作品は決められた予算でキッチリ納期までに仕上げることをポリシーとしていて、現に(現場が動き出す前に頓挫した作品を除き)殆どの作品で予算と納期を守る優れた管理能力を示している。しかしそうしたスタンスのため、公開に間に合わなくなると判断したシーンは、たとえそれが作画作業中であってもカットすることが少なくない。また、上映時間は90分前後から最長でも120分未満を理想としているため、ストーリー上余分と判断したシーンはコンテ段階で極力省かれる そうした、ストーリー的な解りやすさよりも映画の完成度を優先する姿勢が、結果的に観客に難解な印象を与える要因の1つとも言える。 また、「映画は一回観ただけで解ったつもりになる必要があるのか?」と疑問も呈しており、「観るたびに違う印象を与えるように心掛けている」と語っている。1度完成し、公開された作品の映像に新たに手を加えることを好まず、ビデオソフト化においても本編に未公開シーンを加えた完全版などは基本的に制作されなかった。しかし2007年末、『ブレードランナーファイナルカット版』の上映に伴うトークセッションにおいて「以前だったら絶対やらなかったと思うんだけど、ある作品は、今作り直す価値があるんじゃないかと考えている」と発言しており、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』の制作発表時にも見られた信条の変化が伺われる。デジタルの登場により、実写とアニメーションは融合して区別できなくなる、というのが年来の押井の持論である。『ガルム戦記』において、その自身の理論を現実に展開するはずであったが、パイロット版を作ったあと、制作は途中で凍結された。ただ、このパイロット版の制作で得たノウハウは、後に『アヴァロン』に活かされている。アニメにおけるレイアウトシステムの重要性を訴え、自らの作品における大量のレイアウトを解説した『METHODS 機動警察パトレイバー2 演出ノート』を上梓している。制作した作品は暴力的なシーンが多い。これについては「僕らの仕事は暴力とエロを表すことだ」という考えに基づくものだと言う。しかし、押井自身は血を見ることが嫌いであり、『ケルベロス-地獄の番犬』 の撮影中、銃撃シーン用に用意された大量の血糊を見て気分が悪くなり、その大半を廃棄させたこともある。同じ理由でスプラッター映画も敬遠している。遠浅の東京湾が埋め立てられていく過程を見て育ったためか、埋立地への嫌悪を隠そうとしない。『機動警察パトレイバー』シリーズでは「予算の都合から(作画の手間が少なくて済む)埋立地を舞台にした」としているが、押井が担当したエピソードでは人間が持つエゴイズムの象徴として描かれる傾向がある。また『パトレイバー』に限らず、いくつかの作品では埋立地のゴミ処分場がラストシーンになっている。『うる星やつら』での制作に「懲りて」今後は一生テレビアニメ制作はしないと心に決めている。これは宮崎駿に「テレビシリーズであくせくせずに自分の作りたいものを作れ」と助言されたことも一因だという。以来テレビアニメには脚本・絵コンテ・企画の監修程度しか関わっていない。『機動警察パトレイバー』のTV化に「シリーズ化なんだ、あんたがやるのが筋だろう」と監督を依頼されるも、何とか粘って断ったという過去がある。NHKの番組に出演した際、最も気に入っている作品はどれかと聞かれ、「繰り返して観るのは『御先祖様万々歳!』」 「自分で映像的に満足できた作品は『アヴァロン』」と答えた。邦画のシステムに対して不信感を抱いており、金子修介との対談の際「邦画というシステムは一度崩壊した方がいい」「(アニメをおだてておきながら)アニメを映画として認めてこなかった。現に日本アカデミー賞にはアニメーション映画部門がない」(対談当時。2006年に新設された)との発言をしている。兄、姉の三人兄弟の末っ子。血液型O型。父は興信所で私立探偵を行なっていたが収入は専ら母によるものであり、また押井自身は自分の思い描く探偵像と大きく離れている父親の仕事に複雑な心境だった。父はシェイクスピアを小説家と勘違いするなど、文化の知識に乏しかったと言う。小学生時代はパイロットを目指していたが、運動神経が良くなかったため断念。体育の成績だけが、1か2だったと語っている。他の学科の成績は全て5であったという。担任からストーブの薪で殴られるという体罰を受けたことがあるが、その理由はまったく覚えていない。高校時代、羽田闘争をきっかけに学生運動に参加。運動の目論見がばれた父親には大菩薩峠の山小屋に軟禁され、そのうちに学生運動のピークは過ぎ、後に押井の運動に対する熱も冷め、父の作戦通り見事に更生させられたという。山小屋では受験勉強もしていた。学生運動は後に押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。後に自らの世代を「(学生運動という祭りに)遅れてきた世代」と語っている。1970年、東京学芸大学入学後すぐに「映像芸術研究会」を設立、実写映画を撮り始める。後に『平成ガメラシリーズ』を監督する金子修介はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。このサークルは既存の大学の映画研究会と喧嘩別れして新たに作ったもので、金子のほかに当時一橋大学の学生で後に防衛大学校教授となる荒川憲一が所属していた。後年『機動警察パトレイバー2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなった人物が荒川である。この時期、いくつか映画を製作するが、完成したのは卒業制作の一本のみであったとのこと。本人は童顔のため、少年役で出演することが多かった。学芸大に入学してからの2年間は、ほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しか取っていなかった。押井は留年することになったが、その後もさらに2年間ほとんど大学に通わなかった(合計4年間)。当時の押井にとって大学は、留年はするけども、1単位も取らなくても4年間は放り出されないことに意義があり、無条件に自分の時間と場所を確保できたこと、それが唯一の成果だったと回想している。当時は毎日のように名画座に通い、映画館でバイトをしつつ年間1000本の映画を見たという。またそのうちの大半はピンク映画であり、反面教師的な意味でよく観ていたという。この時に影響を受けた映画監督はジャン=リュック・ゴダールやイングマール・ベルイマン、鈴木清順など。在学中に小学校1級・中学校2級の教員免許を取得し、学生時代は何度も教育実習に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べている。このほか、塾の講師を2年務めていた。卒業間近に映画監督への道を諦めて小学校の図画工作の教員になる予定だったが、教員試験の願書の提出を頼んでおいた友人が提出することを忘れていたために受験が不可能となってしまい、映画関係の会社に就職活動するも全社不採用となる。大学の同窓生によれば卒業制作は絵画・彫刻によるとされているにもかかわらず、ただ一人映画製作をし、強引に卒業作品として教授に認めさせ卒業してしまったという(使用したカメラはNHKから安く手に入れたベル&ハウエル)。1977年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料が少なく生活が辛かったので半年で退社。「ひたすら毎日プラモデルを作るなどして暇をもてあましていた」(本人談)時に、電柱に貼ってあった求人広告を見て竜の子プロダクション(タツノコプロ)の面接を受ける。当初は事務雑用を担当していたが、演出の人手不足からアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂、真下耕一、うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井はラジオでのディレクター経験を買われ、最初から演出を任されていた。独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。タツノコプロ退社後もアルバイトで絵コンテを描き、後には持ちネタのひとつとした「立ち喰い」ネタをこの時すでに『タイムボカンシリーズ』に盛り込んでいる。1980年、尊敬する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍。テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。タツノコプロ時代よりこの頃の押井はギャグを得意とすると見なされており、ぴえろ社員として『まいっちんぐマチコ先生』の絵コンテを1本描いたこともあった。翌1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。当初は低視聴率に苦しみ、フジテレビ側との軋轢も生じたが、やがて高視聴率を挙げるようになる。その後、劇場版第1作『うる星やつら オンリー・ユー』、さらに劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で単なるアニメ演出家というよりも映像作家として認知されるようになる。なお『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は1984年キネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位(邦画)となっている(同年の1位は『風の谷のナウシカ』)。虚構性をテーマとする押井の作風が確立したのはこの頃からである。1984年、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社。以後フリーランスの演出家となる。ぴえろ退社後の押井は、一時宮崎駿の個人事務所「二馬力」に机を置いた。この年、宮崎と大塚康生の勧誘もあり、『ルパン三世』の映画第3作の監督を引き受ける。ところが、半年間考えた脚本を東宝と読売テレビのプロデューサーから没にされて製作は中止。その後、同映画のスタッフだった天野喜孝とともに、徳間書店・『アニメージュ』のバックアップにより、スタジオディーンの制作でOVA『天使のたまご』(1986年)を完成させる。『天使のたまご』には、のちの劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』にも共通する、押井版『ルパン三世』で描こうとしたテーマが根底に流れているといわれる。また、同年『アニメージュ』で初の漫画原作作品『とどのつまり…』連載を開始。作画は『うる星やつら』の作画を支えた森山ゆうじが担当した。『天使のたまご』以降は作家性の強いマニアックさが災いして5年ほど干された(本人談)。最初の1年目は印税の貯金を取り崩して毎日ひたすらTVゲームをして過ごしていたが、2年目は貯えも底を突き、さすがに危機感を覚え、企画書を書いて持ち込んでは断られという毎日だったという。そこに、スタジオぴえろ時代の同僚である伊藤和典より『機動警察パトレイバー』の企画を進めていた「ヘッドギア」への参加依頼を受け、押井曰く「しょうがなく」参加する。1987年、タツノコプロで同僚だった西久保瑞穂が監督を務めた『赤い光弾ジリオン』に参加。絵コンテ2本のみだったが、この作品がきっかけとなって、後に活動の拠点とするProduction I.Gとの付き合いが始まる。同年、声優・千葉繁のプロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社オムニバスプロモーションの製作による実写作品『紅い眼鏡/The Red Spectacles』を監督。この映画の予算は「こんな低い制作費で作れるわけがない!」と関係者が叫んだほどの安さで、自主製作映画に近いものだった。しかし、その低予算ゆえのユニークな演出が一部で高い評価を受ける。これ以後、アニメのみならず、実写にも活動の場を広げる。1991年には「ケルベロス・サーガ」の第2作として『ケルベロス-地獄の番犬』を公開。本作のロケハンで移動中、台北へ向けて搭乗するはずだった飛行機が墜落、乗員・乗客全員死亡という惨事が起こるが、予算の都合で飛行機を諦めてクルマで移動することに変更したことで難を逃れている。1988年にはOVA『機動警察パトレイバー』を監督して第一線に復帰。続けて1989年に公開された劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』で第7回日本アニメ大賞を受賞し、メジャーシーンに返り咲いた。スタジオぴえろから独立後、OVAシリーズ『機動警察パトレイバー』まで、スタジオディーンと組んで仕事をすることが多かったが、『機動警察パトレイバー the Movie』を契機として、活動の拠点をProduction I.Gへと移した。以後、Production I.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押井塾」を主宰するなど、中心的役割を担っている。旧Production I.G(現IGポート)の大株主の1人でもある(2008年1月現在、全株式の0.8%所有)。1995年の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』で海外から注目を浴び、同映画を収録したビデオは米国『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録した。これは日本アニメ史上初の快挙として、国内で大きく報道された。スティーヴン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンなどに絶賛され、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』はその影響を強く受けている。兄弟は、押井に面会した際「パクリじゃない」との意を語った。押井本人にそのような実感はなく、ビルボードさえ知らなかったと話す。1997年に織部賞を受賞。2004年には『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。カンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本のアニメーション作品が出品されるのはこの作品が初めてであった(宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』はベルリン国際映画祭に出品)。2005年の愛知万博にて、中日新聞プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。2008年、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』がヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門ノミネート。フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞。第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭で批評家連盟賞とヤング審査員賞を受賞。2009年は、6月公開の『宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-』で、原案・脚本を手がけた。12月には単独作品としては8年ぶりの実写映画となる『ASSAULT GIRLS』が公開された。中高時代に柔道をやっていたので身体は丈夫で、腐りかけた牛乳を飲んでも身体を壊すことはないという。一人の時の食事は5分以内に済ます。日本酒については熱燗派で、夏でも冷酒は飲まないとのこと。55歳を過ぎてから空手を習い始めた。その理由については「いまから自分の身体を鋼のように鍛えるということではなくて「どううまく使おうかな」というふうなことなんですよ」と今野敏との対談で述べている。話し方は基本的に独白で、自分の考えを包み隠さずに話すので毒舌に聞こえる(行定勲の談)。初対面の人間ともよく喋るが敬語を使うことは少ない。耳の聞こえが良くないので早口で小声である。このため、邦画より字幕つきの洋画を好んで鑑賞する。『アヴァロン』を海外で撮影した理由のひとつは字幕が出る方が好都合だと判断したため。そのため近年の絵コンテには写植が施されている。無類の犬好きで、犬を飼うためだけに熱海へ引っ越したと公言している。魚、鳥とともに犬を作品のモチーフとし、自らの愛犬を作品によく登場させる。愛犬雑誌の『WAN』(ペットライフ社)に連載「熱海バセット通信」を執筆した。かつては犬(バセットハウンド)の絵柄がデザインされたTシャツやトレーナーを好んで着用していた。本人の自画像などにも犬を用いるが、これはアンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』によるものらしい。好きな犬種はバセットハウンドとシェーファーフント(シェパード)。愛犬はバセットハウンドのガブリエル(通称ガブ・♀ 2007年4月3日 永眠)と雑種のダニエル(通称ダニィ・♂ ダニだらけだったからダニィということもある)。『イノセンス』の制作中ガブリエルがヘルニアを患ったため引越しをし、さらに看病のために仕事を休んだため、一時は監督解任かと騒がれたという逸話がある。また、完成した絵コンテにはハンコが捺印されるが、その絵柄も犬である。猫も嫌いというわけではなく過去には愛猫「ねね」(2000年 夏 永眠)、現在「水無月」がいる。高度化したネット社会を扱った作品を複数手がけているため、ネットの達人と誤解されることが多くあるが、実際はまったくと言っていいほどインターネットを利用せず、時々調べものに使う程度だという。2008年当時は携帯電話も持たず(それ以前に電話が嫌いと述べている)、「電話をかけるとき時は相変わらずテレフォンカードを手に公衆電話を探しているような有様」と記していた。2012年の著書では、東日本大震災の折に携帯電話をかけようとしたがつながらず、ちょうど治療を受けていた歯科医から「ありったけの硬貨を借り受けて」公衆電話をしたと記しており、2011年時点では携帯電話を所持していたとみられる。ネットの掲示板などで自身の作品についての議論が行われていることについて2008年の著書で「筆者が正体を現わさない批評に耳を傾けるつもりはない」と匿名での発言に興味のないことを示した上で、「もしも僕に何か言いたいことがあれば、いっそ手紙でもくれたほうがいい。しかし、実際はそんな手紙が来たためしはほとんどない」「ドイツの女子中学生が定期的に手紙をくれるが、ほんとうにそれくらいだ」と語っている。ただし、過去にはパソコン通信を嗜んでいた時期もあり、アスキーの運営する『アスキーネット』に書き込みをしたことがある。コンピューターゲームの原作者であると同時に、自らもゲーマーである。ゲーム雑誌『コンプティーク』および『電撃王』にエッセイ『注文の多い傭兵たち』を連載。製作に関わったゲームには、ファミコンゲーム『サンサーラ・ナーガ』、スーパーファミコン『サンサーラ・ナーガ2』、メガドライブ『機動警察パトレイバー 〜98式起動せよ〜』、そして昨今ではPSP『機動警察パトレイバー かむばっく ミニパト』がある。またコンピュータRPG『ウィザードリィ』の影響を強く受けており、『機動警察パトレイバー2 the Movie』には「トレボー」「ワイバーン」など『ウィザードリィ』にちなんだ名前が劇中に登場する。『アヴァロン』に至っては、『ウィザードリィ』を押井が独自の解釈で映像化したものであり、押井が脚本を担当した『パトレイバー』TV版の『地下迷宮物件』および『ダンジョン再び』は、エピソードそのものが『ウィザードリィ』のパロディとなっている。戦車や銃、戦闘機を愛好するミリタリー好きである。アルバイトで加わったアニメ『名犬ジョリィ』では、必要以上にガンの描写にこだわった絵コンテを切った。下でも触れているが、人手が足りない『うる星やつら』初期に、戦車の原画を描いたことがあった。『うる星やつら』の演出を担当した最後の話では、第二次世界大戦時代の戦車や航空機を用いて攻防戦を描いた。特に好きな航空機は、旧日本陸軍の戦闘機「飛燕」。映画『ミニパト』でも銃について薀蓄を披露している。初のOVA『ダロス』製作時には、作画スタッフをビルの屋上に集めて目の前でモデルガンを撃ち、薬莢は均一に飛ばないことを力説した。夫人の影響で、2000年代頃からはサッカー観戦も趣味となった。贔屓のクラブチームはジュビロ磐田。チェルシーFCとその元監督ジョゼ・モウリーニョのファンであり、UEFAチャンピオンズリーグも非常に楽しみにしている。ドイツも好きらしくワールドカップではドイツ代表を応援し、日韓大会の際にドイツ対イングランドをスタジアムで観戦した。その影響は作品にも現れ『ケルベロス 鋼鉄の猟犬』作中の実在していない人物の名前は、サッカー選手から採られていたり、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』では戦争請負会社の社名『ロストック』『ラウテルン』はブンデスリーガのクラブ名から採られている。押井の小説『番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課』は、全編にわたってサッカーの蘊蓄が披露された作品であり、特車二課の警備対象も試合中のサッカースタジアムである。姉は舞踏家の最上和子。映画ライターの押井友絵は前妻との間にもうけた長女。押井は友絵から取材を受けたことがあり、その際は「妙な気分だった」と語っている。押井友絵は作家の乙一夫人となり、押井の映画『立喰師列伝』ではハンバーガー店の店員として出演している。『スカイ・クロラ』の企画を持ち込まれた際に、娘がその企画に興味を示したことが『スカイ・クロラ』の監督を受けるきっかけとなったと押井本人は語っている。宮崎駿と親交があり「宮さん」と呼んでいる。押井は宮崎駿がかねてよりその才能を認めていた数少ない同業者の一人であり、『ルパン』製作に押井を推薦するなどしている。対談でも圧倒的な論理を展開する宮崎に対して押井も独自の理論を展開して応戦するなど負けていない。過去の企画では顔を合わせるとほぼ必ず意見が食い違い、はたから見ればほとんど喧嘩をしているような空気になったという。宮崎は自分と対等に理論的に話せる相手を欲している、と最初に二人を引き合わせた鈴木敏夫は語っており、押井はその数少ない一人だったといえる。また、二人の作品には共通点もあり、例えば戦車や飛行機など軍用機器や車、バイクを出すのが好きであること、モブシーンが多いこと、時折難解で長い文章を人物に話させること、高度なカメラワーク、そしてアニメ界屈指の演出能力の高さ、オチの付け方などである。初の対面は『うる星やつら オンリー・ユー』制作後に当時『アニメージュ』編集者であった鈴木敏夫の引き合わせによって実現した対談の場である。その対談で宮崎は初対面であるにも拘らず『うる星やつら オンリー・ユー』についての疑問点を容赦無く押井にぶつけ、押井自身もそのことを承知していただけに大変悔しい思いをしたと語っている(宮崎は相手に才能がなければこのような質問はせず、それだけ押井の才能を認めていたから細かい部分が気になり、『うる星やつら』における仕事について「竜之介初登場の回は面白かった」などと賞賛し、原作者(高橋留美子)は女性だから、自分ら男性にはラムの心はなかなかわからない、などと同情もしている)。押井は「1は自分の思い通りにできなかったけど、2は絶対リターンマッチしてみせる」と意気込んでおり宮崎も励ましていたが、次回作『ビューティフルドリーマー』に対し、「何がいいのかわからない」と評した。その後の『天使のたまご』や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などにも否定的な意見を述べている。押井もここ最近の宮崎作品の数本は基本評価しないと語る。2度以上見たのは『ナウシカ』だけだという。しかし「風立ちぬ」については「正直でいい映画。近年のジブリ映画で抜きん出ている。」などと高く評価している。。上記の通り、宮崎は東京ムービーからの『ルパン三世』監督の依頼に対して、自分の代わりに押井を紹介。「押井版『ルパン三世』」頓挫後にはスタジオジブリで宮崎プロデュースによる押井監督作品を準備するなど、才能を認め合う仲である。しかしその一方で、考え方の上での二人の対立(科学文明への賛否や環境保護の有り方など)溝は深いとも言われる。宮崎のワンマン体制であるスタジオジブリの制作システムについて「クレムリン」、「KGB」、「道場」と評している。またこれらにちなんで、宮崎を「書記長」、高畑勲を「ロシア共和国の大統領」、鈴木敏夫を「KGB長官」と評している。この意見に対して宮崎も報復的とも受け取れるコメントを寄せているが、本当に仲が悪いのではなく基本的には友達であるという。宮崎は押井の特徴を、何かありげに語らせるのなら彼に敵うものはいないと発言している一方で、実写を撮る才能ならは庵野秀明なんかのほうが上とも発言している。過去に、犬は屋外で飼って餌は残飯(ネコまんま)で充分だという宮崎に激怒したことがある。押井がたまにジブリに行き、宮崎に見つかると3時間は話し続けるという。押井は犬のために熱海へ引越しをしたほどの愛犬家であった。兵器に並外れた拘りを見せる押井が、「誰もやったことのない空中戦」を見せると意気込む『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』の会見で「空中戦に関しては、はっきり言って宮さんより自信があります」と語ったように、親しみも敬意も対抗意識も見られる関係ながら、『スカイ・クロラ』について語られる端々に表れる「若い人に」という言葉は子供達の将来を案じる宮崎の姿勢に近づいて来ていることを窺わせる。東京藝術大学での講演ではスカイ・クロラについて「それまでは若者のことはどうでもよかったのが目を向けるようになった」と語っている。宮崎が『千と千尋の神隠し』で、押井が『イノセンス』などでCGと作画を駆使し情報量に拘わり抜いた後の新作(『崖の上のポニョ』と『スカイ・クロラ』)では押井が「老人の妄想」「面白いが伏線が重要な映画としてはダメだ」「テーマなんてとっくに無くなってる」と、宮崎は「こんな戦闘機は無い、飛べるの?」と、それぞれ否定的な見方で互いの作品を評しているが、共に「シンプルな画」を標榜し、作画を担当する優秀なアニメーターが育っていない現状についても対照的ながらそれぞれ答えを出すという共通点がみられた。影響を受けた映画監督はジャン=リュック・ゴダールを筆頭に、ヴィム・ヴェンダース、アンドレイ・タルコフスキー、フェデリコ・フェリーニ、ルイス・ブニュエル、鈴木清順、大和屋竺、フランソワ・トリュフォー、イングマール・ベルイマン、アラン・レネなど。才能があると感じる監督にリドリー・スコット、デヴィッド・リンチ。苦手な監督にウディ・アレン、ティム・バートンを挙げている。その他、多くの映画監督の影響を受けている。一度見た映画は3カット見れば思い出すが、日常生活での約束や用事はすぐに忘れてしまうと語る。つまらない映画ほど記憶には残るという。日本の実写映画人では、北野武に関心を持ち、作品のソフトはすべて所有している。「SFの匂いのする作品を追いかけて観ていた」という高校時代『ウルトラセブン』、特にアンヌ隊員を演じたひし美ゆり子に憧れを抱く。NHKの『週刊お宝TV(2006年5月19日放送)』に出演した際ひし美のサイン入り写真集(『セブン』時代のもの)を贈られ感激、さらに『真・女立喰師列伝』では「鼈甲飴の有理」役、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』では「ユリ」役にひし美を起用、演出している。少年時代からSF作家の光瀬龍のファンであり、所属していた図書委員会の「図書新聞」の取材のためと題し光瀬をインタビューしている。ファンレターを書いていたこともきっかけとなり、それ以降自宅に何度も訪問するまでになった。しかし、当時押井もかかわっていた学生運動について意見が対立し、それ以降は長く接することがなかったという。『天使のたまご』を制作した際に押井の希望で対談により約20年ぶりの再会を果たし、確執は解けた。光瀬が亡くなった時に押井は『アヴァロン』の撮影で海外へ渡航中であり葬儀に出席できなかった。このことを押井は大変悔いていた。光瀬が亡くなった翌年(2000年)の日本SF大会(ZERO-CON)で押井が光瀬との思い出を語る企画が設けられた。その際、「今でも『百億の昼と千億の夜』は映画化したいと思っている」と発言している(企画書を書いたこともあったという)。この後2005年の日本SF大会(HAMA-CON2)においても企画に参加している。押井は2008年より『月刊COMICリュウ』で連載の始まった『夕ばえ作戦』の漫画版で脚色を担当し、初めて光瀬の作品を手がけることになった。新装版『百億の昼と千億の夜』では解説を書いている。学生時代はSF小説家も志望していたが、ほぼ同い年である山田正紀のデビュー作『神狩り』を読んで才能の差にうちのめされ、「小説家になるのを諦めた」といくつかのインタビューで語っている。なお、山田は小説『イノセンス After The Long Goodbye』の執筆も手がけており、同作品内で押井は寄稿文を寄せている。アニメのキャラクターデザインのモデルになったことがある。スタジオぴえろ時代にアルバイトで参加した『逆転イッパツマン』では「若作りの丸輪さん」。アニメ『うる星やつら』の脚本の伊藤和典とキャラクターデザイナーの高田明美が参加した『魔法の天使クリィミーマミ』では「星井守ディレクター」、「日高守少年」。伊藤と高田はアニメ雑誌『アニメージュ』で押井を主人公にした4コマ漫画を連載したこともある。『ゼンダマン』や『タイムパトロール隊オタスケマン』、『ヤッターマン(第2作)』に登場する「惜しい」を連呼するマスコット「オシイ星人」も押井から取られたもの。『ミニパト』の中でも押井をモデルにした犬「オシイヌ」が登場する。オシイヌをデザインしたのは『ミニパト』のキャラクターデザイン・作画を担当した西尾鉄也であり、押井は「ある種の悪意の産物」とコメントしている。「オシメーション」とは、デジタルカメラで撮影した俳優の写真をデジタル加工し、アニメのパーツとして使用する技法のこと。従来からアニメーションの技法のひとつとして、実写の人間をコマ撮りする、「ピクシレーション()」がある。このピクシレーションをさらに発展させたものが、「オシメーション」である。「オシメーション」という名称はProduction I.G社長石川光久が「押井守の原点にもどって作ってもらおうということで」「原点の赤ちゃんになってもらって、押井監督がおしめをはくような作品」という理由で命名し、『立喰師列伝』の制作会見の席上で西尾鉄也によるデフォルメ調の「おしめを穿いた押井守のイラスト」と共に発表された。 以後、あまり浸透せず宣伝等では「スーパーライヴメーション」という名称で紹介されることが多い。以上のテレビアニメとOVAは監督もしくは脚本・演出・絵コンテとして携わった作品であるが、ノンクレジットながら原画製作の経験もある。一つは『うる星やつら』の制作時、戦闘機・戦車が書けるアニメーターがいなかったために押井が描いていた(「さすがに旋回シーンは書けなかった」(本人談)。『ダロス』制作時にも最終話のレーザービーム発射シーンの2・3カットは押井が描いていた。作品賞・日本アニメ大賞作品賞・アトム賞個人賞・演出部門企画賞作品賞・劇場部門
出典:wikipedia
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