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オリックス・バファローズ

オリックス・バファローズ()は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。大阪府をフランチャイズとし、同府大阪市西区にある京セラドーム大阪を本拠地、兵庫県神戸市須磨区にあるほっともっとフィールド神戸を準本拠地としている。球団全体の練習場と合宿所が神戸市西区に設けられており、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地を同北区にあるあじさいスタジアム北神戸、ほっともっとフィールド神戸サブ球場としているなど、活動拠点は同市におかれているが、2017年からは大阪市此花区の舞洲地区に建設される新球場、室内練習場、選手寮が球団の新たな拠点となり、神戸市からは2016年をもって撤退する(ほっともっとフィールド神戸の使用は継続予定)。阪神急行電鉄(現阪急電鉄。以下、阪急と記す)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り「宝塚運動協会」として運営したことがあるが1929年7月に解散しており、後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見していた。1935年に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部などが結成したのを受けて、小林は当時アメリカに出張中だったが、出先のワシントンから電報で球団設立を指示し、設立が進められ1936年1月23日に「大阪阪急野球協会」が設立される。発足当時の球団で球場を自前で所有することを計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だったこともあり、宮武三郎、山下実、山下好一ら慶應のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。小林一三が、ライバル企業である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗するため、設立を決意したとも言われる。球団名に阪神急行電鉄の通称である阪急の名称が入っているが、企業名を球団名に入れた日本で最初のプロ野球球団である。トーナメント制の夏季の大阪大会で首位になっている。5月1日、本拠地球場となる阪急西宮球場が開場、春季は8球団中4位となったが監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮をとるがチームは投手陣が弱く、粘りがないとされ、8球団中7位に終わっている。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位のタイガースにはどうしても勝てないという状況だった。1939年、この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り9連勝もあり首位となっているが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ2位に終わっている。井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わる。1941年、戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。1942年以降も応召が続き8球団中4位、1943年、選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが8球団中7位。1944年、夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり3位に終わっている。、西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていたこともあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催され、よりリーグ戦が再開される。他球団に比べて、用具がそろっていたことや野口二郎や今西錬太郎が加入したことで、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、翌年4月18日には「阪急ブレーブス」に再改称している。総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。、投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。、長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の2人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。パ・リーグ参戦初年度の開幕4戦目から球団新記録の11連敗と低迷し、54勝64敗2分で首位の毎日オリオンズと28.5ゲーム差の4位に終わる。、天保義夫と野口二郎で合わせて13勝止まりで、7球団中5位と低迷。オフにはジミー・ニューベリー、ジョン・ブリットンが入団し、翌にはニューベリーが11勝、ブリットンが打率3割の活躍を見せるが、2年連続7球団中5位。西宮球場にナイター設備が完成し、5月5日よりナイター試合が行われるようになった。阪急はこの年のナイター試合で26戦21勝と「夜の勇者」のあだ名がつくほど強く、新加入のルーファス・ゲインズが14勝、ラリー・レインズが盗塁王になるなど、8月から9月には首位に立つこともあり、9月2日には大映、阪急、南海の3チームがゲーム差無しのそれぞれ1厘差で並んでいたが、ここから南海が12連勝、逆に阪急は5連敗で優勝争いから後退し、最終的に南海と4ゲーム差の2位で終わっている。オフには梶本隆夫が入団。新人の梶本隆夫がこの年の開幕戦の対高橋ユニオンズ戦で初登板で初先発し、初勝利を挙げている。梶本はこの年20勝をあげる活躍を見せるが、チームはその他の投手陣が安定せず、後半戦に息切れして 8球団中5位。ラリー・レインズが首位打者となるが、この年限りで退団。、新加入のロベルト・バルボンが1番打者で163安打、49盗塁を記録し、チームも夏場まで好調だったものの、9月以降投手陣が不調となり、80勝を挙げたものの、99勝の南海から19ゲーム差の4位に終わる。、米田哲也の入団に関して、阪神との二重契約問題が生じていたが、2月13日にコミッショナー裁定で阪急入りしている。その米田は9勝、梶本隆夫が28勝、種田弘が17勝を挙げるなど、リーグ1の投手陣と、盗塁のシーズン日本プロ野球記録を更新した河野旭輝の活躍で3位。監督は藤本定義が就任。オフには、地元の西宮出身で東京六大学では長嶋茂雄らと競い合って首位打者にもなった慶應の中田昌宏が入団。1月25日、球団創設者である小林一三が死去。梶本隆夫が24勝、米田哲也が21勝とヨネカジコンビが共に防御率1点台の成績を残すが4位に終わる。オフには立教大学の「立教三羽烏」の1人、本屋敷錦吾が入団。、前半戦を2位で折り返し、8月には首位に立つこともあり、南海、西鉄との首位争いとなるが、3位に終わる。チーム73勝のうち、米田と梶本で53勝を占めた。、米田、梶本が5月まで勝てず、チームは前半戦に8連敗、オールスターを挟んで8月1日に11連敗を記録し、球団史上最低勝率を更新する.369で5位に終わる。藤本定義はシーズン途中で監督を辞任しており、戸倉勝城が指揮を継いだ。あまりの打撃の不振から西宮球場にラッキーゾーンが設置され、本塁打は前年より7本増えたが、それでもリーグ最低の数字で、相手チームの本塁打も増える結果となり、梶本隆夫と米田哲也が共に20勝するものの4位に終わる。、中田昌宏が南海の野村克也と共に最多本塁打を獲得するが、得点力不足で、米田、梶本は2年連続ともに20勝だが5位に終わり、この頃には「地味」という意味で「灰色の阪急」というあだ名が定着している。このオフ、コーチに西本幸雄を招いている。、8月半ばまで2位を保つが、最終的には4位に終わっている。11月6日、西本が監督に就任。梶本隆夫がプロ入りして初めて勝利数が二桁に届かない5勝、米田哲也がリーグ最多敗の23敗で、投手陣は石井茂雄が頼りという状況で、8連敗を3度記録するなど、最終的に57勝92敗1分で首位の西鉄から30.5ゲーム差の最下位に終わる。、ダリル・スペンサーとゴーディ・ウインディが加入し、野球の戦術を熟知したスペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、やがて来る黄金時代へと大きく貢献する。チームは前半戦を首位で折り返し、南海との首位争いとなり、8月に対南海戦3連敗で2位に落ち、9月12日に南海との首位攻防戦に勝利し0.5ゲーム差としたが直後に3連敗 、9月19日の東京オリオンズ戦に阪急が負けたことで南海が優勝、最終的に3.5ゲーム差の2位に終わる。1965年、チームは前半戦だけで首位と27.5ゲーム差と離され、打線はスペンサー頼みで、スペンサーは7月にはサイクル安打を達成し、野村克也と本塁打王争いとなるが、10月に交通事故でシーズンを棒に振る。チームは4位に終わる。この年初めてドラフト会議が行われ、長池徳士や住友平が入団。、梶本隆夫が9月27日に15連敗を記録するなどこの年は2勝止まりで、打線は頼みのスペンサーが20本塁打63打点に終わり、チームも5位に終わる。10月14日、監督の西本幸雄の信任投票事件が起きて、西本は辞意を表明し、球団は青田昇を後任監督に進めるが、それを聞いたオーナーの小林米三が自ら西本を説得し、西本は19日に辞任を撤回している。スペンサーが30本塁打、長池徳士が27本塁打するなど攻撃力がアップ、投手陣は足立光宏が20勝、米田哲也が18勝、梶本隆夫が15勝を挙げる。オールスター前には2位に8ゲームをつけ首位、10月1日、対東映フライヤーズ戦(西京極)に勝利し、球団史上初のリーグ優勝を達成する(球団創立から32年目での初優勝は日本プロ野球史上最も遅い記録となっている)。しかし初出場となる日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗退。投手陣は米田哲也が29勝、打線ではそれまで9年間で8本塁打の矢野清がこの年27本塁打で「10年目の新人」と呼ばれる活躍を見せる。チームは南海との首位争いとなり、10月11日の共にシーズン最終戦を同率で並び、阪急は対東京戦、2点ビハインドの9回裏に矢野が同点打を放ち、10回裏にサヨナラ本塁打で勝利をおさめている。阪急の試合終了の8分後、同時に試合を行っていた南海が近鉄に敗れたことで、2年連続優勝達成。しかし日本シリーズでも2年連続で巨人に2勝4敗で敗退。ドラフトで後に「花の(昭和)44年組」と呼ばれることになる山田久志、福本豊、加藤秀司が入団。近鉄との優勝争いとなり、10月19日に対近鉄戦(藤井寺)に勝利して3年連続リーグ優勝達成。長池徳士が本塁打と打点の二冠王となる。しかし日本シリーズは3年連続で巨人に2勝4敗で敗退。福本豊が一番に定着し初めて盗塁王を獲得し、この後福本は13年連続で同タイトルを獲得することになる。山田久志が10勝を挙げるが、打線が低調で4位に終わる。オールスター前までに2位に6ゲーム差をつけ、オールスター直後のロッテ戦2連勝で差を広げるが、この直後8連敗した。それでも9月28日のロッテ戦に勝利し、2年ぶり4度目のリーグ優勝達成。長池徳士が31試合連続安打を記録するなどMVPとなり、山田久志が最優秀防御率を獲得。新旧戦力がかみ合った年になった。しかし、日本シリーズは巨人と4度目の対戦で、第3戦で9回2死から山田が王貞治に逆転サヨナラ3ランを打たれて敗れるなど、1勝4敗で敗退。オフには東映の大橋穣、種茂雅之らを阪本敏三、岡村浩二、佐々木誠吾との交換トレードで獲得。移籍の大橋穣と種茂雅之が揃ってダイヤモンドグラブを獲得するなど、守備が強化され、福本豊がシーズン盗塁数のメジャーリーグ記録(当時)を上回る106盗塁を挙げるなど、最終的には2位に14ゲーム差をつける強さで、9月26日に南海に勝利して2年連続5度目のリーグ優勝達成。しかし、5度目の巨人との日本シリーズでは、2年連続1勝4敗で敗退。V9時代の巨人とはこれが最後の戦いとなったが、すべての年で3勝以上挙げれずに敗退しており、V9時代の日本シリーズで最も多く巨人に負けた球団となった。、この年よりパ・リーグは前・後期の2期制によるプレーオフ制度を導入。前期は3位に終わったものの、後期は前期優勝の南海に12勝0敗1分として、他球団を圧倒して10月5日に優勝する。阪急有利とみられた南海とのプレーオフは第5戦までもつれ、0対0で迎えた9回表に2点を取られて、3勝2敗で南海の「死んだ振り」に敗退し、西本幸雄は監督を辞任、西本の後任には上田利治が就任。。この年のドラフト会議で作新学院高等部江川卓を1位指名したが入団拒否。、前期は最終的にロッテとの優勝争いとなり、5月まで不調だった阪急は対南海3連戦に3連勝したことで調子をあげて6月20日に前期優勝決定。後期はロッテ、南海との優勝争いとなるが3位となり、通年では2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3連敗で敗退。、前期は関西大学から松下電器を経て入団した新人の山口高志が7勝を挙げるなどあり、優勝。後期は6位だったものの、近鉄とのプレーオフでは山口の2完投もあり3勝1敗で3年ぶり6度目のリーグ優勝達成。投手陣はチーム最多勝が山口と山田久志の12勝だったが、この年の2桁勝利投手は山口、山田らを含めて5人となった。打線では新外国人のボビー・マルカーノ、バーニー・ウイリアムスの活躍があった。広島東洋カープとの日本シリーズでは4勝0敗2分で負け無しで6度目の日本シリーズで初めて日本一達成。、山田久志が最多勝を獲得しこの年より日本プロ野球史上初の3年連続MVPを獲得、福本豊が盗塁王、加藤秀司が打点王になるなど「花の44年組」がいずれもタイトルを獲得、「阪急史上最強の年」とまで言われ、前後期とも優勝で2年連続7度目のリーグ優勝達成。4年ぶりに巨人との6度目の日本シリーズとなったが、阪急が3連勝のあと、巨人に3連勝されて迎えた第7戦は足立光宏が完投し、4勝3敗で日本一達成となり、前後期優勝の状態で日本一となったため、球団初の完全制覇を達成した。、前期は南海、近鉄との在阪3球団による優勝争いとなり、6月3日からの対南海戦を3勝1敗とし、64試合目に優勝決定している。後期はロッテが先行、それを追う阪急との争いとなったが、近鉄との最終3連戦で3連勝すれば逆転の可能性も残っていたが、近鉄に敗れたことで1分2厘の差で2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3勝2敗として、3年連続8度目のリーグ優勝。2年連続巨人との日本シリーズは山田久志の投打にわたる活躍で4勝1敗で3年連続日本一達成。投手陣では新人の佐藤義則が7勝を挙げて新人王を獲得。打線では代打本塁打の記録をもつ高井保弘が、2年前より導入された指名打者制のおかげでレギュラーに定着し、この年は4番にも入っている。、前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。投手陣ではこれまで6勝の今井雄太郎が完全試合を達成するなど、2年目の佐藤義則と共に13勝を挙げ、打線では簑田浩二がレギュラーに定着、この年より8年連続ダイヤモンドグラブを獲得する活躍を見せる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは3勝3敗とした第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議。判定は覆らず先発していた足立光宏が試合再開後に降板、ヤクルトの松岡弘に完封負けで敗れ、3勝4敗でシリーズ敗退。上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。後任の監督は梶本隆夫が就任。、前期は近鉄とは1ゲーム差の2位に終わる。後期は優勝で、近鉄とのプレーオフに3連敗で敗退し、5年ぶりにリーグ優勝を逃す。加藤秀司が首位打者と打点王の二冠王。、山田久志、山口高志の故障もあり、前期4位、後期は5位で10年ぶりのBクラスとなる5位に終わり、梶本は監督を辞任し、後任には上田利治が3年ぶりに監督に復帰。、エースの山田久志が13勝12敗で貯金を作れず、前期3位、後期2位の通年2位。、前期は2位で、この年山田が16勝するなど復調したが、後期は主軸打者が不振で5位となり、通年でも5位に終わった。、広島の水谷実雄が加藤英司とのトレードで入り、水谷は4番で36本塁打、114打点で打点王になり、トリプルスリーを達成した簑田浩二や、ブーマー・ウェルズらと強力なクリーンアップを形成するものの、チームは首位の西武と17ゲーム差の2位に終わる。、開幕から3連勝し、5月から6月にかけて13連勝で独走態勢に入り、9月23日の対近鉄戦(藤井寺)で6年ぶりにリーグ優勝達成。ブーマー・ウェルズが外国人選手初の三冠王を獲得も、広島との日本シリーズではブーマーが徹底的にマークされ、3勝4敗で敗退。この年が阪急最後の優勝となった。、勝ち越すものの首位の西武と15.5ゲーム差、3位の近鉄とゲーム差無しの1厘差で4位に終わる。、6月4日に近鉄と首位が入れ替わると、そのまま後退し、3位に終わる。佐藤義則の故障などで先発陣が不足するなど、監督の上田は「選手層が薄いと実感した」とコメントした1年となった。、首位の西武と9ゲーム差の2位となるが、かつての先発3本柱の山田久志が7勝、佐藤義則が7勝、今井雄太郎が4勝に終わる。、開幕10試合で1勝9敗で、シーズン通して3位以上とならないまま、監督の上田として初の負け越しで4位となる。10月19日、球団がオリエント・リースに買収されることが発表され、この年が阪急ブレーブス最終年となった。山田久志と福本豊が現役引退。新球団名は「オリックス・ブレーブス」となり、監督は上田が続投、本拠地は西宮球場を使用することになった、オフにはこの年同じくダイエーへ球団買収となった南海の門田博光が、ダイエー球団の本拠地の福岡へ行くことを拒み、オリックスに移籍。1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リース(当時・翌1989年「オリックス」に社名変更)に球団が譲渡。球団名は「オリックス・ブレーブス("ORIX Braves")」、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」にそれぞれ変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から、同市同区曾根崎新地に移された。球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した。同時に、球団幹部の一般公募を実施し、その結果として井箟重慶が1989年には球団常務に就任。井箟は翌1990年から2000年まで球団代表を務めた。球団譲渡とともに、ユニフォームは黒と赤を基調としたデザインから、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)を基調にしたデザインへ変更される。当初は、「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。球団譲渡後の初年度となったシーズンは、南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった。2年連続の2位に終わり、上田監督が辞任。翌1991年より、40年以上も本拠地としていた西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移した。当時、オリックス球団はコンサルタント会社を使って西宮球場周辺の市場リサーチをしたが、西宮球場は競輪場と兼用していたため、公営競技である競輪が行われる場所は「男がビール片手に集まる場所」とのイメージがあったため、西宮周辺は女子大学が多いにもかかわらず、野球観戦をする女子大生らが足を運びにくいとの調査結果が出たのが、本拠地移転の動機だった。移転の候補地としては、札幌市や千葉市、大宮市も検討されたが、結局はグリーンスタジアム神戸に決まった。その理由は、すでに同球場が準本拠地のような位置づけだっただけでなく、神戸市から熱心な誘致活動を受けたことや、同球場に大型スクリーンの設備投資を約束してくれたこと、入場者数によって球場使用料が変わったり、球場内の売店の売り上げや広告収入を球団と神戸市が折半するなど、当時としてはこれまでの慣例にとらわれない使用契約を結んでくれたことなどが要因である。また、本拠地移転と同時に、チーム名を長年使用した「ブレーブス」から「ブルーウェーブ(BlueWave)」に変更、「オリックス・ブルーウェーブ」となる。監督も長年チームを率いた上田から土井正三に代わり、脱阪急色が進んでいった。からまで土井がチームを率いたが、3年連続で3位に終わった。またの開幕権をロッテに譲っている。(同年勝率.488、首位西武と18.0ゲーム差で3位)前年限りで退任した土井に代わり、仰木彬が監督に就任。仰木の下でレギュラーとして起用されたイチロー(この年に登録名を変更)は初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立し、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録。その功績に対してオフには正力松太郎賞が贈られた。また、それまで内野手だった田口を外野手に転向。左翼田口・中堅本西厚博・右翼イチローは当時12球団最強の外野陣と言われるほどの守備力の高い布陣となった。最終順位は2位に終わったが、イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり、観客動員も球団記録を大幅に更新した。1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、当時の本拠地・神戸市が甚大な被害を受けた一方で、神戸市西区内の強い地盤の上に建つ「青濤館」(球団所有の選手寮兼室内練習場)では被害が軽微にとどまった。そのため、震災の直後には、館内に備蓄していた水や食糧を近隣の被災者へ無料で配布した。球団関係者は全員無事だったものの、春季キャンプ以降のスケジュールの大幅な変更を余儀なくされたほか、一時は神戸での試合開催が危ぶまれた。しかし、地元・神戸市出身の宮内オーナーが、「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という表現で神戸での開催を主張。結局、当初の予定に沿って神戸で公式戦を開催することが決まったため、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にシーズンへ臨んだ。被災した神戸市民を励まそうと一丸となったチームは、6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となり、7月末に早くもマジックが点灯した。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では21勝5敗と大きく勝ち越した。また、4月19日には野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成すると、佐藤義則が8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で、当時の史上最年長でのノーヒットノーランを記録している。また2年目の平井正史が抑えの切り札として15勝27セーブ42セーブポイントを挙げる、これは当時の日本記録である。「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し念願の地元胴上げはならなかったものの、西武球場で行われた9月19日の対西武戦に勝利し、1984年以来11年ぶりにして球団譲渡後初のリーグ制覇を達成した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたが、被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。日本ハムに先行を許し、前半戦5ゲーム差をつけられたものの、後半戦に驚異的な追い上げを見せて9月上旬には逆転し、9月23日の日本ハムとの直接対決(グリーンスタジアム神戸)ではイチローのサヨナラ安打で勝利を収め、リーグ2連覇と2年越しの「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでも巨人を4勝1敗で下し、地元神戸で1977年以来19年ぶりにして球団譲渡後初の日本一に輝いた。この年は観客動員数も大幅に伸び、過去最高の179万4000人を記録している。91年新人王の長谷川滋利がMLBアナハイム・エンゼルスに移籍。リーグ3連覇がかかっていたが、後半戦において投手陣が崩壊。さらに若返りを焦ったあまり2連覇に貢献したベテランを相次いで放出してしまい勝負所で若い選手のミスが出てしまう。西武の前に2位に終わり、23年ぶりに全球団に勝ち越しながら優勝を逸するという珍記録も残している。開幕6連敗を経験するなど前半最下位に甘んじてしまうものの、後半リーグ驚異的な追い上げをし3位で終わったが、この年のパ・リーグはブルーウェーブ以外の5球団は1度は首位に立つくらい激戦だったにもかかわらず、優勝争いに絡めずにシーズンを終える。この年のドラフト会議で、沖縄水産高校の新垣渚を指名し、交渉権を獲得したが、入団交渉は難航し、球団編成部長の三輪田勝利が自殺するという事態となった。新垣は入団せず九州共立大学に進学し、後にダイエーに入団している。(詳細は三輪田勝利#1998年のドラフト、突然の死参照)打率リーグ1位、防御率2位となったものの、若手の伸び悩みが目立って最終的な順位は3位だった。この頃から1995年と1996年のリーグ連覇を担った選手たちが、引退・トレード・FA等で次々とチームを去っており、弱体化の傾向が目立つようになる。そしてそれ以降優勝争いができないシーズンが続くことになる(観客動員数も年々減少)。ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸( - こうべ、"SURPASS KOBE"。後にチーム名は「サーパス」に変更)に改称した。「ファームとは本来選手がいてはいけないところ」という理念のもとにファームの改革をしようとした結果だが効果は発揮せず、チームの弱体化に歯止めはかからないままだった。結局4位に終わり、オリックスへの球団譲渡後としては初、球団としては阪急時代最後のシーズンである1988年以来12年ぶりにBクラスに転落した。また、シーズンオフにはイチローがポスティング制度を利用して大リーグのシアトル・マリナーズに移籍した。韓国・ハンファ・イーグルスから獲得した具臺晟や新人の大久保勝信を加えて臨んだ。イチローの守っていた右翼では若手の葛城育郎がレギュラーを確保し、大久保勝信も新人王を獲得するなど若手の台頭こそあったものの、それまでの監督生活13年間でBクラスは前年の1回だけという名将仰木を以てしても戦力不足は補えず、4位に終わったもののシーズン勝ち越しはしている。このシーズンをもって仰木は監督を退き、後任には石毛宏典が就任。この年に左翼のレギュラーで、チームの精神的支柱の田口壮がFA宣言を行い、大リーグのセントルイス・カージナルスに移籍した。9月26日の大阪近鉄バファローズ戦では、大久保勝信が北川博敏に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を喫した。この年はチーム打率.235と極端な貧打に悩まされた。この貧打により、主戦投手の金田政彦が防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得するも4勝9敗、具臺晟もリーグ2位の防御率2.52を記録しながら5勝7敗と投手陣を見殺しにする試合が多く、阪急時代の1963年以来39年ぶりとなる球団史上2回目の最下位に転落してしまった。特に接戦に弱く、1点差だと15勝23敗、2点差だと8勝21敗であった。5月14・15日にはダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦を開催、球団としては阪急時代の1962年に当時の米国統治下にあった沖縄での対大毎戦以来40年ぶりの日本国外での試合となった。前年の極度の貧打を受けてシーズンオフにはメジャーリーグで将来を嘱望されたルーズベルト・ブラウン、ホセ・オーティズや、中日で本塁打王を獲得した実績のある山崎武司など長距離砲を積極的に補強したが、大砲に偏った構成が響いて開幕から打線のつながりを欠いて低迷。当初不振に喘いでいた外国人選手の起用を巡っての球団との対立もあって4月23日に石毛は解任された。後任監督には打撃コーチを務めていたレオン・リーが就任したが、リーはオーティズを二塁手で起用するなどの極端な攻撃重視のオーダーを組んだ。これにより打率、本塁打の向上は見られたが得点力には必ずしも結びつかず、逆に投手陣に故障や不振が続出したところに、ブラウンやオーティズなど守備力に難がある選手が多かったことが重なり、ディフェンス面が壊滅。とくに、7月26日から8月1日までの1週間で91失点し、その後も大量失点する試合が目立った。結局、シーズンを通しての失点は927(818自責点)にものぼり、シーズン通してのチーム防御率も5.95という日本プロ野球史上ワーストの成績に終わる。特に対ダイエー戦では20失点以上を6月から9月にかけて毎月に計4度記録しているするなど。48勝88敗4分、最終的な借金が40と大惨敗であった。球団史上初の連続最下位となり、レオンが引責辞任。後任にはこの年まで西武の監督だった伊原春樹が就任。このオフ、ダイエーからFAで村松有人を、阪神からムーアを獲得している。後述する近鉄との球団合併問題が発生し、ブルーウェーブとしての最後の年となった。この年も投手陣が崩壊(防御率5.65)し、3年連続最下位に終わっている。特にダイエーには4勝23敗、うち後半戦は10戦全敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。後半戦で全敗したことについて、当時監督だった伊原春樹は「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。また、山崎武司、川越英隆といった一部主力選手と伊原との確執も囁かれていた。9月27日のYahoo! BBスタジアムでの最終戦は、合併相手でありこちらもこの試合が球団として最終試合となる対近鉄戦となったが、7-2で勝利している。6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、「オリックス・バファローズ」となった。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数を新規参入球団『東北楽天ゴールデンイーグルス』に譲渡している。合併後の監督には、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。球団事務所については引き続き神戸市内に置くこととなった。2015年現在、オリックス・ブルーウェーブに所属経験のあるNPB・MLBの現役日本人選手は、イチロー(マイアミ・マーリンズ)と後藤光尊(現:楽天)の2人のみであり、オリックス・バファローズには1人も残っていない。合併により有力選手が加入したことに加え、仰木が監督に復帰したことから戦力は大幅に向上して臨んだシーズンとなった。肺がんに侵されながらも指揮を執る仰木の下でチームは最後までAクラス争いを続けたが4位でシーズンを終え、Aクラス入り・プレーオフ進出を逃がした。シーズン後に仰木は監督を退任し、代わって球団ゼネラルマネージャーだった中村勝広が監督に就任した。編成を司るGMより監督への就任は日本球界初となる。仰木は球団シニアアドバイザーに就任したが、12月15日に肺がんによる呼吸不全のため70歳で逝去した。オフには巨人を自由契約となった清原和博、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んでいた中村紀洋を獲得している。前述した清原や中村、広島東洋カープを戦力外となったトム・デイビー、新外国人のジェイソン・グラボースキーなどを獲得し、シーズンに臨んだ。デイビーは開幕から好投を続け、開幕投手の川越も期待に応えたが、清原は故障離脱を繰り返し、中村も故障に苦しみ、前年から在籍するブランボーは不振で、ガルシアは試合前の長電話で中村監督の怒りを買い、前年ほどの成績を残せず、前年奮闘したリリーフ陣も菊地原と加藤を除けばほとんど調子を落とし、低調な戦いが目立った。また、谷も不振を脱却できず、規定打席に到達したのは村松、塩崎、谷の3人だけと主軸を固定できなかった。8月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦で敗れて7年連続Bクラスが確定し、26年ぶりの5位に終わった。成績不振の責任を取って中村が監督辞任、後任はテリー・コリンズが就任。11月20日よりこれまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転した(後に京セラドーム大阪内に再移転)。この結果、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)は大阪に集約され、一方の神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小するなど、球団の経営機能は大幅に大阪にシフトしていくことになった。一方で、選手の入団会見や契約更改は、現在でも主に神戸にて行われる。また、専用球場の登録はこの年に限り暫定的に神戸に移したがこのシーズン終了と共にまた大阪に戻し、試合数を大幅に増やすことになる(後述)。1月6日に前川勝彦が大阪市内でひき逃げ事故を起こし、さらに無免許だったことが発覚して、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。これを重くみた球団は1月18日付で前川を懲戒処分として所属契約を解消、その騒動の最中だった1月17日に、大幅な減俸を提示されて契約交渉が決裂した中村紀洋も同様に契約を解消した。この他球団の編成も完了している時期の契約解消について、選手会が野球協約上、問題のある交渉ではないかと批判している。低迷期より主戦打者だった谷佳知を、鴨志田貴司・長田昌浩とのトレードで巨人に放出し、ダン・セラフィニなどを補強。シーズン開幕前にタフィ・ローズを獲得して臨んだシーズンだったが、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すと、優勝争いはおろかAクラス争いにすら加わることなく、パ・リーグ他5球団に負け越し、3年ぶりの最下位となった。オフにはかつてオリックスに在籍していた前巨人のジェレミー・パウエルの獲得を発表したが、1月29日になって福岡ソフトバンクホークスとの間で二重契約問題が発生し、パウエルはソフトバンクに入団している(詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題参照)。この年より協約上での保護地域を大阪府に統合。3月1日にこれまで共同出資を行っており、袖のユニフォームスポンサー契約を結んでいた近畿日本鉄道とのスポンサー契約を更新しないことが発表された(出資も引き揚げ)。これにより近鉄は1949年の近鉄パールス創設以来関わって来たプロ野球事業から完全に撤退した。シーズン開幕から4月までに12勝19敗とシーズン序盤は低迷が続き、借金生活に。結局5月21日にコリンズが辞任を発表した。この辞任を受け、大石大二郎ヘッドコーチが監督代行に就任し、8月2日に監督に昇格した。※2008年の監督代行も含む。大石の監督代行就任後、6月3日の巨人戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝を達成するなどチームは持ち直していった。9月24日の対ソフトバンク戦に勝利して2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初のシーズン勝ち越しを決め、9月29日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝利して、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。シーズンも2位で終わり、クライマックスシリーズでは第1ステージで3位日本ハムと対戦。2連敗で敗れ日本シリーズ出場はならなかったものの、15勝を挙げて新人王を獲得した小松聖を筆頭に、山本省吾・金子千尋・近藤一樹が先発10勝、加藤大輔が最多セーブ、坂口智隆はゴールデングラブ賞、タフィ・ローズは打点王を獲得するなど、チームの戦力は大幅に充実した。1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名が「サーパス」から一軍と同じ「オリックス・バファローズ」に変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。この年は、楽天を退団したホセ・フェルナンデスを加えローズ・アレックス・カブレラ・グレッグ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が死球などで全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から1軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、1軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは1軍チーフ投手コーチの佐々木修を2軍投手コーチに降格、先日1軍投手コーチとなった清川栄治を1軍チーフ投手コーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに6勝18敗、2位楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2年ぶりに最下位となった。その責任を受けてGMの中村と監督の大石を解任、後任監督には岡田彰布が就任した。2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで、小瀬浩之が転落死する事態が起きた。直後に阿部真宏とのトレードで西武から赤田将吾を獲得している。3月20日から3月26日まで、1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日に1軍バッテリーコーチの三輪隆が2軍バッテリーコーチに降格、2軍バッテリーコーチの吉原孝介を1軍バッテリーコーチに昇格する人事を発表した。交流戦に入ると、16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝した。交流戦後の後半戦に入ると一時は3位に浮上したものの主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内にとどまっていたが9月26日、日本ハムが勝ち、勝率差で日本ハムに及ばなくなったため、2年連続のBクラスが、9月28日には4年ぶりの5位が決定した。T-岡田が本塁打王、金子千尋が最多勝を獲得している。「オリックス・バファローズ改造計画」と称し、球団旗・ユニフォーム・ペットマーク・ロゴマークを全部一新、新マスコット(バファローブル、バファローベル)を導入した。交流戦は2位。チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していたため8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格し、ブルペン担当だった小林宏はベンチへ昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった。その後、8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶりの9連勝を達成した。9月は18勝5敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦においてオリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が勝ったため、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位となり3年ぶりのAクラス入りとクライマックスシリーズ出場を逃した。オフには李承燁、朴賛浩、加藤大輔が退団。一方で、西武から許銘傑を、韓国のロッテ・ジャイアンツから李大浩を獲得した。開幕序盤の4月19日に勝率5割とした以外はすべて勝率5割を切った。月間別勝率でも7月と10月に勝ち越した以外はすべて負け越し、6、8、9月は勝率3割台で、9月には12連敗で球団記録を更新するなど、タイ記録となった9月24日の対ロッテ戦で最下位が確定。翌25日にはシーズンの最後まで指揮を執ることになっていた監督の岡田彰布とヘッドコーチの高代延博の休養が発表され、チーフ野手コーチの森脇浩司が監督代行に就任するが、この日の対ソフトバンク戦にも敗れ連敗の球団新記録となった。翌26日に対ソフトバンク戦に勝利して連敗を止め、代行就任以降の成績を7勝2敗とする。10月8日、シーズン最終戦で小久保裕紀の引退試合となった、対ソフトバンク戦では西勇輝がノーヒットノーランを達成し、試合後、森脇が来季の監督に正式に就任すると発表した。チーム打率、防御率は共にリーグ最低で、最下位チームからは史上6人目の打点王となった李大浩が打点を挙げた試合では30勝27敗2分と勝ち越すが、打点0の試合では27勝50敗8分と大きく負け越した。日本ハムの糸井嘉男、八木智哉と木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾の2対3のトレードが成立。交流戦は13勝10敗で、巨人・日本ハム・ロッテと同率の3位とした。金子はケガのため、オープン戦に登板できなかったものの、ぶっつけ本番で開幕投手を任され好投した。また、西も先発ローテーションに入り、2人とも成績を残した。金子は沢村賞は獲得できなかったものの、見事な成績を残した。しかし、大事な場面で勝つことができず、10月1日の対ソフトバンク戦に2対9で敗れて5年連続のBクラスが確定、クライマックスシリーズ進出を逃し、10月6日の対ロッテ戦に3対1で勝利して3年ぶりの5位を確定させた。この年のオフ、李大浩が退団しソフトバンクに移籍。また、後藤光尊が鉄平とのトレードで楽天へ移籍。これにより、ブルーウェーブ時代から一貫してオリックスに在籍し続けた選手は姿を消した。2年連続最優秀中継ぎ投手の佐藤達也、最多セーブ投手の平野佳寿に、馬原孝浩、比嘉幹貴らリリーフ陣の活躍で、リードした試合は落とさない安定した戦いを見せ、9月17日に6年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定。終盤までソフトバンクとの優勝争いとなり、一時は2位ながらも優勝へのマジックが点灯したが、10月2日の対ソフトバンク戦(ヤフオクドーム)で延長10回裏にサヨナラ負けしたことで優勝を逃し、2位に終わる。日本ハムとのCSファーストステージでは1勝2敗で敗退したが、金子千尋が自身初かつ球団史上初となる沢村賞を獲得した。前年2位の好成績を収めたうえ、アメリカから帰国の中島裕之、日本ハムからFA宣言した小谷野栄一、DeNAを自由契約になったトニー・ブランコ、広島を自由契約になったブライアン・バリントン、一時期同チームに在籍していた前BCリーグ・群馬のフランシスコ・カラバイヨらを次々と獲得。大型補強を行い、優勝候補とまで言われた。ところが、開幕から打撃陣の不振や相次ぐ故障者、エースの金子や昨年活躍したリリーフ陣の出遅れなどが響いて大きく負け越した。チーム打率.232はリーグ5位と低迷、それを受けて4月19日の西武戦終了後に佐藤真一一軍打撃コーチと下山真二二軍打撃コーチの配置転換を発表した。しかし、チームは浮上することなく5月31日には早くも自力優勝が消滅。6月2日には森脇監督がチーム低迷の責任をとり休養し、併せてヘッドコーチだった福良淳一が監督代行として指揮を執ることを発表した。※2015年の監督代行も含む。交流戦はパリーグ球団では唯一負け越しの8勝10敗の9位に終わった。6月22日に独立リーグからヨヘルミン・チャベスを獲得、また東京ヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツの4番として活躍したアレックス・ラミレスの巡回アドバイサーの就任を発表した。しかし、交流戦以降もチームの低迷を歯止めをかけることができず、前半戦を首位・ソフトバンクと18.5ゲーム差の最下位でターンした。後半戦になっても浮上できず、8月16日の対ロッテ戦に敗れて、自力でのクライマックスシリーズの進出の可能性が消滅。8月25日の対楽天戦に勝ち最下位から脱出するもその後、3連敗を喫し最下位に逆戻りした。8月27日に休養していた森脇監督が31日付けで退任することと、球団シニアアドバイザーへの就任を発表した。福良コーチは、監督代行のまま指揮を執る。9月15日のソフトバンク戦(京セラドーム大阪)に6-1で勝利し、前身の阪急時代から数えてリーグ戦通算5000勝を達成した。なお、NPB所属の球団では、巨人・阪神・中日に次いで4球団目で、パシフィック・リーグ所属球団としては初であった。9月23日に中村勝広元GM・監督が66歳で急逝した。終盤は楽天との5位・6位争いとなり、10月3日の対ソフトバンク戦に勝利しリーグ5位が確定、優勝候補と言われながら終わってみればBクラスという信じられない結果に終わってしまった。10月1日付で、監督代行扱いであった福良が来シーズンより正式に監督に昇格して引き続き指揮を執ることが決定した。また、2軍監督に球団OBの田口壮の就任も同じく決定している。しかしオフに谷佳知、平野恵一の両ベテランが引退し、また西武時代の2013年に最高出塁率を獲得したエステバン・ヘルマン、楽天時代の2009年に首位打者を獲得した鉄平、日本ハム時代の2010年にパ・リーグ新人王を受賞した榊原諒、阪神時代の2003年に最多勝・最優秀投手などを獲得した井川慶、長らくオリックスの外野の一角を担い2011年に最多安打を獲得した坂口智隆、ソフトバンク時代の2007年にセーブ王を獲得した馬原孝浩らといった移籍組が戦力外となり、相次いでビックネームが退団した。ドラフトでは10位選手まで指名し、大幅な「血の入れ替え」となった。シーズン終盤に日本ハムに所属していた中嶋聡が引退したことによって、阪急ブレーブス時代の選手がNPBから姿を消した。新外国人としてキャンプ前にブレント・モレル、ブライアン・ボグセビック、エリック・コーディエの3選手を獲得した。だが、キャンプ直前に昨年まで正遊撃手を担っていた安達了一が潰瘍性大腸炎を発症し離脱、キャンプ中には4人目の新外国人である左腕投手パット・ミッシュを獲得した。オープン戦を中日、DeNAと同率の最下位(10位)で終えると、シーズンに入っても投打ともに低調な状態が続き、とくに先発の一角を担うべき西、金子といった先発陣だけでなく、新守護神として期待されていたコーディエら救援陣も大量失点する試合が目立っており、打線も2リーグ制となってからワーストとなる「チームとして開幕から13試合連続無本塁打」を樹立してしまった。5月17日、元中日のマット・クラークの獲得を発表した。交流戦は5勝13敗で最下位に終わった。7月17日、八木亮祐との交換トレードで近藤一樹が東京ヤクルトスワローズに移籍、このトレードによって大阪近鉄への在籍経験がある現役選手がオリックスから姿を消した。その後、後半戦に至っても低迷から抜け出すことはできず、9月29日の楽天戦に敗戦し、4年ぶりの最下位が確定史上初のオープン戦・交流戦・公式戦全球団に負け越し、2軍も最下位となった。また、同年セ・リーグで横浜DeNAベイスターズがクライマックスシリーズ・ファイナルステージに進出したことにより、12球団で唯一ファイナルステージ進出経験がないチームとなった。2005年より球団合併に伴う暫定処置として3年間限定で「ダブルフランチャイズ制」が認められ、合併前に両球団が本拠としていた2球場をともに本拠地球場扱いとした。ただし、野球協約における正式な本拠地球場である専用球場については規定通り1つとされ、大阪ドームが登録された。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)が開催されている。球団は最終的には神戸での試合数を削減した上で大阪ドームに本拠地を一本化する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。ところが2005年10月、大阪ドームを運営する第三セクター「大阪シティドーム」が会社更生法を申請し、その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは同年、専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ開催する措置を執った。同年4月、オリックスが大阪ドームの買収に乗り出し、同年6月にシティドーム社を100%減資した上で施設とともにオリックス子会社のオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)が買収した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再び大阪ドームを専用球場として登録。同年も予定を変更して主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。2008年以降はダブルフランチャイズ制が終了、専用球場の選択は保護地域の大阪府内にある京セラドーム大阪(大阪ドーム)に限られることになった。ただし神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)の準本拠地としての使用も継続とし、年間20試合程度を開催していった。2011年度からは大阪ドームでの試合数を増やし、近鉄との合併後初めて20試合をきった。これまで必ず行われ特別料金が設定されていた神戸での対巨人戦と対阪神戦もなくなった。神戸で中止になった試合が発生した場合は、あらかじめ組み込まれている予備日を除いて大阪で振り替えられるようになっている。正式な本拠地球場は1つであるが、選手名鑑などでは両球場を併記している場合もある(1999年までの近鉄も本拠地と準本拠地が併記されていたことがあった)。球団合併以後の大阪ドーム、神戸総合運動公園野球場の試合数は以下の通りである。オリックス球団は、ブレーブスとしての初年度(1989年度)から、ファームチーム(二軍)の本拠地を神戸市に設定。「青濤館」を神戸総合運動公園の近くに設ける一方で、公園内のサブ球場(グリーンスタジアム神戸サブ球場)を本拠地として使用した。サーパス神戸時代の2000年からは、「青濤館」を残したまま、本拠地を北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)に移転。その一方で、2010年からは、神戸サブ球場の使用も再開した。しかし、オリックスでは2007年以降、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を一軍の本拠地として本格的に使用。「青濤館」の老朽化が進んでいることもあって、2010年代の前半からは、二軍の本拠地を一軍と同じ大阪市内へ移転することを検討してきた。2015年には、舞洲ベースボールスタジアムがある舞洲(大阪市此花区)が、移転の候補地として浮上。同年12月7日には、大阪ドームを運営する球団関連会社の大阪シティドームが、大阪市所有の舞洲ベースボールスタジアムおよび近隣の未利用地(舞洲野球場北西用地)の運営委託に関する一般競争入札に応募した。その結果、2016年4月1日から50年間にわたってスタジアムおよび未利用地の運営を委託されることが決まったため、オリックス球団は舞洲への本拠地移転計画を正式に発表した。この発表では、球団社長の西名宏明が、「大阪に本拠地を置く球団として、京セラドーム大阪から近い場所(スタジアムのある舞洲スポーツアイランド内)にスポーツ施設が整っていたことが(移転決定の)大きな要因」と述べている。上記の計画によれば、大阪シティドームと大阪市による事業用定期借地権契約の締結後に、オリックスが総工費約30億円で舞洲ベースボールスタジアムの北西に球団の練習施設(サブ球場、室内練習場、選手寮、クラブハウス)を建設。竣工後の2017年シーズンからは、「青濤館」を閉鎖したうえで、二軍の本拠地を同スタジアムへ移転する。球団主催分のウエスタン・リーグ公式戦については、大半の試合を同スタジアムで実施する一方で、神戸市内の上記球場でも一部の試合を引き続き開催する予定。一軍の主催公式戦についても、神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)で一部試合の開催を継続する。また、舞洲に新設する練習施設では、一軍の選手が常時利用することも想定している。※太字は優勝達成監督当球団は、50年を超える伝統を持つチームを吸収合併し、なおかつ存続側の球団自体もオーナー企業の変更や本拠地移転を経験した複雑な歴史を持つ。球団は2006年に「阪急ブレーブス・近鉄バファローズ・ブルーウェーブの『3つのB』の伝統を大切にする」と宣言し、球団理念にもそれをうたっている一方、公式ウェブサイトの「ヒストリー」においてはオリックスが球団を買収した1988年(ブレーブスについては同年10月)以降の歴史のみが本文に記載されている。近鉄については合併当初は創立時から記載していた(アーカイブ)。パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルス以外の5球団がオーナー企業の交代と本拠地移転を経験しているが、このうち千葉ロッテマリーンズ公式ウェブサイト「チームヒストリー」、福岡ソフトバンクホークス公式ウェブサイト「「ホークスの歩み」」や埼玉西武ライオンズ公式ウェブサイト「伝説の西鉄ライオンズ」では、前身球団創設以来の歴史を記載している。ただし、ホークスの場合南海時代の歴史やエピソードが積極的に取り上げられるようになったのは、ソフトバンクに親会社が交代してからで、ダイエー時代は「南海色をできるだけ消すという姿勢は、なかなか改められなかったようだ」という指摘がある。ライオンズの場合も西鉄時代の歴史が記載されるようになったのは、西武による買収・移転から約30年を経た2008年からである。球団関係者からは2007年の時点で「それぞれの球団のファンにすると、中途半端な印象があるのかもしれません」「2つの球団が合併したとはいえ、選手の大半は近鉄側でしたから、大阪に力点を置いた事業展開を行うべきだったのかもしれません」といった、複雑な成立過程を持つ球団ゆえの悩みを認める発言がなされている。2011年シーズンには「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」と題して1970年代の阪急・近鉄に光を当てたイベントが実施され、両球団の復刻ユニホームの使用や当時の選手

出典:wikipedia

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