ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen、漢語:日耳曼人)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた。ゲルマンという語が文献上最初にあらわれるのは前80年ころギリシアの歴史家ポセイドニオスの記録であり、前2世紀末におけるゲルマンの小部族キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリア侵寇について書かれた。なお、紀元前4世紀末にマッシリアのギリシア人航海者ピュテアスがノルウェーやユトランド半島の民族について書いているが、ゲルマンという呼称は使われていない。ゲルマン人の記録として重要なのは、カエサルの紀元前50年頃の『ガリア戦記』やタキトゥスの紀元100年頃の『ゲルマニア』である。これらによれば、原住地は紀元前2000年紀中葉にユトランド半島、北ドイツ、スカンジナビア半島の中南部といわれる。紀元前1000年紀中葉ないし紀元前3世紀までには西はオランダからライン川下流域、東はヴィスワ川流域、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの三つのグループを形成した。「ゲルマン系」ないし「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、直接的に生物学的な特徴は関連しない。ゲルマン人の場合は所謂「北方人種の白人」と結び付けられることが多いが、「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、中部・南部ドイツはむしろアルプス人種や東ヨーロッパ人種などの影響が指摘されており、遺伝子的にも北欧よりイタリアやフランス、スペインなど南欧との親和性が強い。反面、北部ドイツの住人は北欧人と近く、特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、内陸部では東ヨーロッパとの近隣性は無視できない。現在のゲルマン系民族のY染色体ハプログループはハプログループI1 (Y染色体) 、ハプログループR1a (Y染色体) 、ハプログループR1b (Y染色体) に大別される。このうちゲルマン語派本来の担い手はR1aの下位系統R1a1a1a-CTS7083/L664/S298と想定されるが、ほとんどが、R1bおよびIに話者交替を起こしているため頻度は高くない。R1bはもともとヨーロッパに農耕をもたらした非印欧系集団であるが、下位系統のR-S21/U106がゲルマン語を受け入れたため、現在ではゲルマン人を特徴づける遺伝子となっている。Iは欧州最古層のタイプであり、サブグループのI1が北欧で高頻度である。I1系統が金髪碧眼の発祥であると考えられ、ゲルマン人特有の外見的特徴をもたらした系統であると想定される。大部族のスエービーはエルベ川の下流域に生息し、のちに一つの集団はライン川上流のドイツ南西部マインツ付近に定住し、もう一つの集団はボヘミア平原に定住した。カエサルとの戦争に敗北したアリオウィスト率いるスエービーの一部は、セムノーネースを中心としたアレマンネンに参加し、のちにフランク王国に併合された。スエービーの名前はシュヴァーベンとして残っている。別の一部はスペインでスエービー王国を作るが滅亡した。スペイン語やフランス語ではドイツ人はAlemania、Allemagneというがこれはアレマン人に由来する。南部のスエービーの主力部分はボヘミアへ移住し、6世紀頃までにマルコマンネン人が住んでいたドイツ南東部からオーストリアに移住し、バイエルンと呼ばれた。ユトランド半島にいたキンブリーとテウトニーは紀元前100年頃にイタリアへ侵攻したが、ローマ軍に撃退された。また、彼らはケルト系のボイイー地域へ移住した。キンブリーとテウトニーの後裔にはアトゥアートゥキーがいる。このほか、ハルーデース、マルコマンニー、トゥリボキー、ウァンギオネース、ネメーテースなどがいた。紀元100年頃にはインガエウォネース、イスタエウォネース、ヘルミノネースの3つの種族に分かれていた。タキトゥスの時代から大移動までの300年の間連続性を保っていた部族は、などである。ゲルマン諸部族については『ベーオウルフ』『ウィードスィース』にも記録がある。ゲルマン人は血統的には非印欧語系スカンディナヴィア原住民、球状アンフォラ文化の担い手など様々な混血である。ゲルマン語をもたらした集団の源流はヤムナ文化より分化し、バルカン半島、中央ヨーロッパを経由してスカンディナヴィア半島南部にやってきた集団(ケルト語やイタリック語の担い手と近縁)と言う説と、戦斧文化の担い手でありバルト・スラブ語派に近縁という説、あるいはその混合であるとの説がある。ゲルマン人は紀元前750年ごろから移動を始め、紀元前5世紀頃にゲルマン祖語が成立、その語西ゲルマン語群、東ゲルマン語群、北ゲルマン語群に分化した。375年、フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたこと大移動の始まりとされる。その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われることもあったが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。この後すぐに西ローマ帝国は滅亡してしまったため、古代ローマ帝国崩壊との関連性が考えられている。しかしフン族の侵攻を食い止めたのは、ローマの支配を受け入れて傭兵となったゲルマン人であり、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人は、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北ゲルマン人の一つであるノルマン人は、大移動に参加しなかった。この後も、ヨーロッパにはスラヴ人やマジャール人(ハンガリー人)といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。ゲルマン語派として分類される語派は東ゲルマン、北ゲルマン、西ゲルマンの三つに分類される。東ゲルマン語はすでに死滅している(ゲルマン語派参照)。古代ギリシャ時代にはゲルマンという概念はそもそも存在せず、スキタイ諸族とケルト諸族に大別されていた。後のローマ時代には概ねオーデル・ヴィストゥラ諸族、ライン諸族、エルベ諸族、ジャトランド・デニッシュ諸族の四つに分類された。オーデル・ヴィストゥラ諸族は今日、東方ゲルマンと呼ばれるグループに相当し、タキトゥスによると、ここにはゲルマーニア人の言語と似ているが果たしてローマ人の知るゲルマーニア人と同種の言語として分類すべきか迷う部族もかなりいることを記しており、現代で言うところのスラヴ語派の古い言語を話していたと推定される部族がいたことを暗示している。残りの三族が西方ゲルマンと呼ばれるもので、移住せずにスカンディナヴィアに残った人々を北方ゲルマンとしている。またタキトゥスはバルト海沿岸部の諸民族が共通した文化を持つスエビ諸族であると主張したが、タキトゥスは「スエビ」が具体的にどのような共通文化を持つのか明言しておらず、実際に文化の連続性があったのか疑問が持たれている。歴史学者のアーサー・ポメロイは「(タキトゥスが)スエビとした複数の集団には全く共通性がない訳ではないが、それ以上に文化や言語で明確に異なる部分がある」と指摘しており、現代の歴史学および考古学ではバルト海沿岸部の住人は複数の民族に分かれるとする見解が一般的である。古代から中世への過渡期には多数の蛮族がそれまで未開とされていた地域からローマへと侵入を開始した為、ローマ側の混乱や蛮族側の離合集散の中で一層に分類は乱れた。今日では明確にインド・イラン語派の集団と判明しているアラン人(サルマタイ人の一部)がゲルマン人とされていた事がこれを物語っている。フランク人の中核となり、一部はザクセン人に吸収された。ヴァイキングとして各地に進出した。歴史言語学で明らかになっていることであるが、ゲルマン祖語の成立(グリムの法則の普及時期)は古くとも紀元前5世紀以降で、ヤストルフ文化時代(紀元前7世紀〜紀元前1世紀)のうちのヤストルフ期(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)の晩期あるいはリプドルフ期(前4世紀〜前150ごろ)の初期と考えられ、他のヨーロッパ諸言語の成立時期と比較するとかなり浅い。すなわちゲルマン語派の集団がローマ人と接触を始めた時代ではその語派の成立からほんの数世紀しか経っていない。そのためキンブリ・テウトニ戦争からマルコマンニ戦争の時代のゲルマン語派の諸部族は未だ主にゲルマーニア西北部一帯の狭い地域に留まっていたと考えられる。
出典:wikipedia
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