佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時のポジションは主にミッドフィールダー (MF) 。小学1年生の時にサッカーを始める。1992年に清水市商高へ進学。柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを武器に、1993年の高円宮杯及び選手権を制した。1994年には背番号10を付け、総体優勝と高円宮杯を連覇。高円宮杯では両大会とも自身の得点が決勝点となった。さらに国体でも連覇を経験。1995年に高校を卒業し、鳴り物入りで清水エスパルスに入団。しかし、クラブにとって絶対的存在のMF澤登正朗とポジションが重なったことに加え、「地元出身のスター候補」という周囲からの扱いも重荷になり、ベンチ入りも中々出来ずにいた。実戦機会を増やす為にブラジルのグレミオFBPAに長期留学に行かされるなど下積み時代が続き、サッカーの楽しさを感じられなくなりつつあった。1998年に自ら志願してジャパンフットボールリーグのモンテディオ山形に期限付き移籍。石崎信弘監督の下で攻撃の中心としてトップ下に据えられ、能力を開花させた。ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となり、同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞した。石崎は翌1999年より大分トリニータへと転任することになり、大分移籍、清水復帰、さらに他数クラブからの獲得の打診と争奪になったが、J1昇格を目指す熱意とサポーターの熱さに惹かれ、清水に籍を残したままJ2のFC東京へと期限付き移籍。大熊清監督からは縦への突破力とクロス精度を買われ、山形で務めた司令塔役から右サイドのアタッカーへと転向することになった。当初はプレーエリアや視野の違いに苦しんだが、大熊やサポーターに認められるべく懸命に新ポジションでのプレーを続けて攻撃を引っ張り、J1昇格が懸かる同年のJ2最終節では自身の右足クロスから加賀見健介の決勝点を導いた。また、この年行われたナビスコカップではニューヒーロー賞に輝いた。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、フロント及びサポーターの熱心な引き留めを受けFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。2001年、新加入のMFケリーに一時ポジションを奪われたが、全体練習後に長澤徹コーチの下でクロスを「常人ではありえないほど」繰り返し蹴り込んで向上を追及し、5月になって布陣を変更してからはケリーがトップ下、佐藤が右サイドに入る形で先発に復帰。長澤の助言を受けてオフ・ザ・ボールの動きも大きく向上し、ケリーとのコンビネーションは、自ら「運命的な出会い」とコメントする程 絶妙なものとなった。同年9月にはフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表候補に初選出。リーグ戦終了後には優秀選手賞として表彰された。2002年は負傷で出遅れていたところ、新監督の原博実は横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。佐藤はシーズン後半に復帰したが石川の重用は続き、右サイドのポジションを奪い返せずにいた。同年末に入籍。2003年は複数クラブからオファーを受ける中、横浜FMの「優勝以外は失敗」という目標提示を意気に感じて同クラブへ期限付き移籍。岡田武史監督の下でレギュラーに定着し、右サイドからFW久保竜彦らへ高精度のクロスを放って アシストを量産。クラブのJ1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。シーズン途中には石川と入れ替わる形で 完全移籍へと移行。しかし、2004年シーズン後半になると、田中隼磨の台頭によって控えに回ることも増えていた。2005年には古巣の清水に移籍したが、直後の負傷によって出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いた。2006年6月、恩師石崎 が監督を務めるJ2柏レイソルへ期限付き移籍。先発出場は限られたが、同年のリーグ戦全試合にベンチ入りし、FC東京在籍時以来2度目となるJ1昇格に貢献。12月には柏へ完全移籍することが発表された。石崎は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏では山形でも務めていたトップ下や、ボランチでも起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。2008年、J2ベガルタ仙台へ移籍。山形とのダービーマッチで移籍後初得点を挙げ、持ち前の高精度のキックで 短時間でも流れを引き寄せて得点につなげるジョーカーとして 出場を続けた。同年クラブはJ1との入れ替え戦にまで進出したもののここで敗退しJ1昇格を逃した。12月にクラブから契約非更新が通知され、1年での退団を余儀なくされた。仙台を去る際に残した言葉は次のようなものだった。「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」Jリーグ合同トライアウト参加を経て、2009年3月にJリーグ準加盟クラブであるJFLのV・ファーレン長崎へ加入。当初はDF(センターバック)に配されていたが前向きに取り組み、本来の右サイドに戻ってからは得意のクロスで健在ぶりを見せた。シーズン中盤にはゲームキャプテンを任され、2010年より正式に主将に就任。スタジアムの不備によるJリーグ昇格断念など困難が続いたが、チームメートからは厚い信頼を寄せられ奮戦を続けた。2011年にB級コーチライセンスを取得。2013年よりクラブはJ2昇格を果たし、自身5年ぶりのJリーグでのプレーとなった。同年の出場機会は僅かとなったが、クラブにとってその存在は大きく 精神面でも牽引を続けた。2014年限りで20年間に渡った現役を引退。2015年、13年ぶりに 古巣FC東京へ復帰し、普及部コーチに就任。148||14||27||2||6||0||181||1685||10||7||2||8||3||100||1529||14||colspan="2"|-||4||3||33||1799||13||colspan="2"|-||6||2||105||15361||51||34||4||24||8||421||63その他の公式戦|2004||横浜FM||7||4||0!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦
出典:wikipedia
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