江川事件(えがわじけん)とは、1978年のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動である。江川問題(えがわもんだい)、空白の一日(くうはくのいちにち)とも言われる。1973年、江川卓は作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残して日本中の注目を浴びた。プロの目に止まるようになり、ほぼ全球団のスカウトが江川の家を訪問するようになるが、江川は大学進学を希望する。後に江川は「当時は大学進学を完全に決めていたので、たぶん巨人であったとしても行かなかったと思う」と語っている。当時のドラフト会議はクジによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であった。ドラフト1位指名では、指名順位上位だった大洋ホエールズ・南海ホークス・近鉄バファローズ・日本ハムファイターズ・中日ドラゴンズは進学希望の江川の指名を回避して別選手を指名して選手契約を締結した。しかし、指名順位6番目だった阪急ブレーブスが進学希望の江川をドラフト1位で指名する(なお、このドラフトにおける巨人の指名順位は10番目だった。巨人はドラフト1位で小林秀一を指名するが入団拒否された)。しかし、江川は大学進学を変えずに入団拒否。江川は当初慶應義塾大学を目指したが、入試不合格だったため、法政大学に進学する。法政大学では1年目からエースとして活躍し、通算47勝(史上2位)、完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれ、通算奪三振数443個(当時1位、現在2位)などの記録を残す。大学4年となった1977年、巨人への入団希望を表明。巨人側も1位指名の方針を固めていた。1977年11月に行われたドラフト会議は4年前と同じくクジによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であり、この時の指名順は1番目がクラウンライターライオンズ、2番目が巨人だった。クラウンが江川指名回避に動いていると情報があったため(クラウンは地元出身の門田富昭を1位指名するという情報があった)、江川の巨人入団は確実と思われた。しかし、当時観客動員で苦しんでいた福岡市の球団であるクラウンライターが経営再建の切り札にする目的で江川を1位指名した(江川を指名できなくなった巨人は、早稲田大学の捕手であった山倉和博を1位指名した)。これに対し江川は「九州は遠い」という理由で入団を拒否。なお、江川は引退後のインタビュー等で、巨人でなくとも関東のセ・リーグ球団であるヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)からの指名であれば入団するつもりだったと語っている。この点について江川は後に、巨人との対戦機会が多いことに加え、当時交際中だった後の夫人が東京在住のため遠距離恋愛を避けたいという点を考慮し、「首都圏のセ・リーグ球団なら」との思いを固めていたことを語っており、クラウンライターは福岡市を本拠地とするパ・リーグ球団のため、江川が望む条件とは大きくかけ離れていた。1978年、大学卒業と同時に作新学院職員という身分でアメリカの南カリフォルニア大学へ聴講生として野球留学を行った。大学から社会人野球チームに入団すると、最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択した。1978年10月12日、クラウンライターの運営会社である福岡野球株式会社は西武グループに球団を譲渡、翌1979年より球団名を西武ライオンズに改める。新生西武は本拠地を埼玉県所沢市に移転させることを発表し、本拠地が関東から遠隔地という拒否理由を取り除いている。西武はクラウンライターから交渉権を引き継ぐと、西武グループ総帥であった堤義明は先代(堤康次郎)からの番頭格であった宮内巌を球団社長にし、宮内球団社長を渡米させて江川と入団交渉を行うも江川の翻意はなく、11月20日を以って西武は江川との交渉権を喪失。江川は2日後に予定されるドラフトの対象選手としてもう1度指名を待つ身となった。11月20日、江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。その翌日の11月21日午前に、巨人は江川と入団契約を締結。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。この規定は前日まで交渉を続けた場合には、その交渉地が遠隔地だった場合に、気象の急変などによって球団関係者がドラフト会議に出席できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設けたものだった。また、当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」であり、当時の江川は社会人野球にも行かなかったため、野球協約の文言上では「ドラフト対象外」だった。日本野球機構はドラフト対象の範囲を広げるために、1978年7月31日の改正によってドラフト対象選手を「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正した。しかし、この新協約は「次回ドラフト会議当日から発効する」ことになっていた。以上のことから、ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅しており、「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11月22日以後であると巨人は解釈し、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川と自由に契約できると主張して入団契約を行った。ドラフト対象選手を在学生野球選手と社会人野球選手に限定すると解釈できる文言になっていたことは野球協約の盲点であり、巨人は野球協約の死角を突いたことになるが、これを認めればドラフトは骨抜きになるため、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効とする裁定を下した。しかしこれに対して巨人が猛烈に反発し、その抗議として、翌22日のドラフト会議を欠席(ボイコット)することになる(なお、巨人はドラフト会議が終了した後でテスト入団などのドラフト外入団選手扱いで新人選手を10人獲得している。新人選手の一人には鹿取義隆がいる)。なお、江川本人は「空白の一日」を利用した契約の詳細については当日(11月21日)の朝に聞かされたという。実際、当初はアメリカでドラフト会議の結果を待つ予定で、会議終了後にロサンゼルスのリトル・トーキョーにある日本食レストラン「ほり川」で記者会見を行う段取りも組まれていたが、直前になり父親から「とにかく帰って来い」との電話連絡を受け、ドラフト会議前々日(11月20日)に慌てて帰国することとなった。他球団は江川を指名する意思は無かったとされるが、巨人の抜け駆け契約に抗議する形で江川を指名する球団が現れ、ドラフト会議において南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団が1位指名した。ただし江川を指名しても騒動や裁判に巻き込まれる恐れがあり、確実に取れる選手を獲得するために江川指名を回避する球団もあった。この年から採用された「複数球団による重複指名→抽選」方式によって、4球団の抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。これに対し、巨人側はあくまで江川との契約の正当性を主張。「全12球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」と日本野球機構の金子鋭コミッショナーに提訴した。また、11月23日、巨人側は江川卓選手の地位保全の仮処分申請を東京地裁に申請した。巨人のオーナーであった正力亨は江川との交渉権が認められないのであれば巨人がセ・リーグを脱退してドラフト制度に左右されない新リーグを作る構想を公言。そのため、12月中旬でありながら翌年の開催日程も組めない非常事態に追い込まれた。12月21日、金子は「ドラフト会議欠席は巨人側が勝手に行ったこと」とし、ドラフト会議の結果はそのまま有効に。その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」ことと「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」ことを正式に決定した。金子は巨人の訴えを退けたが、翌12月22日のプロ野球実行委員会において「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という“強い要望”を提示した。これは、江川獲得の正当性やセ・リーグ脱退を主張する巨人に対する批判が強まり、今後のプロ野球運営に支障をきたす可能性が出てきていたため、「江川の巨人入り」という巨人の当初の目的を達成させることによって問題の解決を図ろうとするものだった。野球協約では新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されていたが、金子はそれを承知の上でトレードによる解決を提案した。この“強い要望”を公表したとき、金子は「各球団の実行委員もほぼ同意してくれた」と語っているが、阪神はこれに強く反発。小津正次郎球団社長も「トレードには出さない」と繰り返し発言していた。一方、巨人は前記のコミッショナー裁定を受けて12月27日に「空白の一日」による江川との契約を解除した。これにより阪神が正式に江川との交渉を開始することになったが、江川サイドはトレードの確約を得られないことから阪神に不信感を抱き、契約交渉ははかどらなかった。しかし、1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表。阪神は最終的に金子の要望を受け入れることとなった。トレードの一方の当事者となった小林は、巨人のキャンプ地である宮崎に渡るため羽田空港に向かっていたが、ここで巨人の球団関係者に呼び止められ、阪神と契約した江川との交換トレードを告げられた。球団フロントの説明・説得に応じ、この日の深夜に交換トレードが正式決定された。この解決策は特例であり、慣例および前例とはしないこととされた。これに対し小林は、阪神のキャンプ地へ向かう空港で「請われて阪神に行くのだから、同情はされたくない」と語っている。なお、江川がそのまま阪神に残留していた場合、背番号は3になる予定であった。これによって江川は念願の巨人入りを果たしたが、あまりにも唐突な展開だったためファンやマスコミからは「電撃トレード」と騒がれ、その多くは非難の声であった。また、江川や巨人だけでなく、江川との交渉中に「トレードはしない」と発言していながら、唐突なトレード発表をした小津も強い批判を受けることになった。しかしその後、2月8日のプロ野球実行委員会でこのトレードの野球協約違反が再び指摘された。上記の通り、金子はこのトレードが協約違反であることを承知で要望を出していたのだが、改めて指摘されたことにより“強い要望”を全面撤回し、両者は交換トレードという形を取らず、小林は交換選手なしで阪神に移籍(契約上は金銭トレードで、江川の契約金を巨人が全額支払うことで相殺となった)、江川は開幕日の4月7日に巨人に移籍とされた。江川が巨人のキャンプやオープン戦に参加せず、入団発表が4月7日に行われたのはこのためである。巨人のキャンプに参加できなかった江川は巨人に入団するまで元巨人捕手だった矢沢正と練習をしていた。金子は強権発動の責任を取る形でコミッショナーを辞任。辞任の際には「次のコミッショナーは法曹関係者にするように」と要望を言い残した。後継コミッショナーは、外交官であり最高裁判所判事を務めた下田武三が就任した。また、巨人は、同日のプロ野球実行委員会において一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕から5月31日までの約2ヶ月間、江川の出場を自粛させることとした(あくまでも球団側の要請による「自粛」であり、「出場停止」ではない)。江川は6月1日に一軍選手登録され、翌6月2日の阪神戦で初登板した。これは当時、試合出場は登録翌日からと規定されていたためで、6月1日の同カードで登板していた小林との対決は実現されなかった(なお、現在は規定が改正され、登録当日より試合出場が可能となっている)。また、江川と入れ替わりに阪神に渡った小林は、この年には対巨人戦8勝負けなしという成績を収め、意地を見せた。なお、江川と小林の初の直接対決は1980年8月16日に実現した。巨人対阪神で江川と小林が先発となり、結果は5-3で巨人が勝利、江川が完投して勝利投手となった。小林は5回に江川に勝ち越しのヒットを打たれて4失点で降板し、敗戦投手となった。ドラフト制度によって選手は自分の球団を選べず、憲法が定める「職業選択の自由」に反するのではないかという議論が巨人の親会社である読売新聞を中心に起こり、国会でも議題にのぼった。江川がクラウンからの指名を拒否している1978年2月16日に参議院法務委員会で質疑の対象になり、鈴木龍二、三原脩、川上哲治など球界関係者5人が参考人に呼ばれた。江川問題は沢村賞の選考基準の変更にも影響を与えている。当時、沢村賞は明確な選考基準がなく、運動記者クラブの部長会投票で選出されていた。江川は1980年に16勝をあげ最多勝のタイトルを獲得したが落選(該当者なし)、翌1981年には20勝6敗の好成績で最多勝、最優秀防御率等投手タイトル五冠を獲得したが、記者投票により沢村賞には西本聖が選ばれた。原因に江川事件が影響しているとされ、記者会見の場で記者から「江川は沢村賞の人格に値せず」との理由が飛び出した。そのため、翌1982年からは、選考基準が作成され、且つ元プロ野球投手から構成される「沢村賞選考委員会」による選出に変更された。後年、選手が球団を選べる裁量を大きくするために、日本野球機構は逆指名制度(1993年から2007年まで)の導入やFA制度を導入した。2011年、巨人のヘッドコーチ人事を巡って、渡邉恒雄球団会長より「現ヘッドコーチの岡崎郁を更迭し、江川をヘッドコーチとする」という話があったことが清武英利球団代表によって明らかにされた(清武の乱)。江川はヘッドコーチ就任要請について「正式な話は受けていない」とコメントし、名前が挙がったことは光栄であるとしつつ、「入団したとき、小林繁さんに迷惑を掛けた(江川事件)時と同様に岡崎さんに迷惑を掛けることになるので、受けるのは難しい」と要請を固辞する考えを明らかにした。また、巨人監督の原辰徳は、コーチ人事について「まったく知らなかった。江川さんは大事な先輩なので、ご迷惑をかけてなければいいのですが」とコメントした。この当時、江川事件に加え、松沼博久・松沼雅之兄弟を巡る争奪戦、読売ジャイアンツと西武ライオンズの球団間の争いは多岐に渡り、最終的に親会社である読売グループと西武鉄道グループの遺恨にまで発展。読売新聞・報知新聞、日テレは西武鉄道グループ・セゾングループの広告・CMを締め出し、逆に西武鉄道も駅構内ポスター・車内吊り広告から読売グループの広告を締め出した。更にこの遺恨はプロ野球中継にも波及し、新生ライオンズは西武球場における中継から日本テレビを締め出し、同時期に開局し当時から同球団と密接な関係にある地元局・テレビ埼玉からは当時先発の首都圏独立UHF3局(tvk・チバテレビ・群馬テレビ)で実施していた日テレ制作の後楽園における巨人主催試合のトップ&リレーナイターのネットワークを開局直後の1979年に受けただけで翌年から打ち切る事態にまで発展した。ただし、1983年には日テレもデーゲームを数試合放送したほか、その後もテレビ埼玉が読売テレビから近鉄・南海主催のデーゲームをネット受けする等していた。なお、1991年に当時の読売の最高実力者だった務臺光雄が亡くなってからはこの遺恨も自然消滅、以降、堤義明と古くから親密である渡邉恒雄が読売の実力者となってからは両グループの関係は修復されている。事実、日本テレビも、松坂大輔投手の登板した試合を巨人戦と二元中継したほか、2001年にBS日テレで1試合放送された。また、ビジターの地元系列局向けの中継を読売テレビ(対阪神)と福岡放送(対ソフトバンク)が制作している。江川のアメリカ留学中は三菱商事の現地駐在員が後見人を務めており、入団交渉しようとして門前払いされた西武は三菱商事本社に掛け合ったところ、「社員個人のプライベートには干渉できない」という対応をされたが、これに西武グループ総帥であった堤義明が怒り、当時西武グループ各社のバスが三菱自動車(当時、現「三菱ふそうトラック・バス」)製であったものを全て日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)に変更させ、西武百貨店でも三菱関連商品を全て撤去した。ただし、江川によれば直接交渉のために渡米した当時の宮内巌球団社長に会い、自分の周囲の人間の顔を潰すため入団できないと説明している。なお、宮内が球団や堤に対して江川に会って断られたのか、会わせてもらえなかったと言ったのかは分からないという。江川が巨人入りを強く望んだ大きな理由は、慶應入学が叶わず、法政に行かざるを得なかったからとも言われている。1985年から1989年まで巨人の広報室長を務めた若林敏夫によれば、江川は若林に「僕もいつかは野球選手を辞めて、社会で仕事をしなければいけなくなる。そのためにもどうしても慶應に入っておきたかった」ということを話していたらしい。若林によれば、江川にとって「慶應」に代わるブランドが「巨人」だったという説明がされている。1978年のドラフト会議で巨人は江川の次の指名選手として東芝府中の落合博満を予定していた。しかし、巨人のドラフト会議欠席によって流れ、落合はロッテに3位指名された。これはのちに、落合自身が自著や出演番組で証言している。学生時代でのドラフト指名を拒否して、翌年のドラフト指名のために、数年間ドラフト指名ができなくなる大学野球や社会人野球に行かなかった選手に、1969年ドラフト指名の荒川尭(ヤクルト)や1989年ドラフト指名の元木大介(巨人)、2011年ドラフト指名の菅野智之(巨人)がおり、荒川と元木はアメリカに野球留学、菅野は大学留年をしている。なお、現在の野球協約では、ドラフト指名されなければ現在では四国アイランドリーグplus・ベースボール・チャレンジ・リーグ・BASEBALL FIRST LEAGUEなどの日本国内の独立リーグに参加すれば、国内で野球をしながら高卒及び大卒1年目での指名は可能であるが、ドラフト指名を拒否した場合は高卒は3年目、大卒は2年目まで指名できない。江川に対するメディアスクラムは激しく、江川家はしばらくカーテンを閉め切った生活を余儀なくされた。江川が外出するとマスコミが追尾し、ただの買い物とわかるや記者からふざけるなと罵声を浴びせられた。江川は当時の新聞の閲覧を避けていたが、江川の引退後に伝記漫画を描いた本宮ひろ志が、当時のスポーツ新聞を、もう時間もたったから大丈夫だろうと取材時に江川に見せたところ、江川はトイレで嘔吐してしまったという。江川の妻は江川が巨人に入団して3年目の1981年、日本一のV旅行でハワイを訪れた際に開かれた夫人の食事会で、某主力選手の夫人から「うちの主人はあなたのご主人(江川のこと)が先発した時に勝たせないようにわざとエラーをしたり、打たないようにしていた」と告白され困惑したという。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。