ポール・フレデリク・サイモン(Paul Frederic Simon, 1941年10月13日 - )は、ユダヤ系アメリカ人のシンガーソングライター。米国・ニュージャージー州ニューアーク出身。元々はアート・ガーファンクルとのユニット「サイモン&ガーファンクル」として、フォーク・ロック・ミュージシャンとして人気を博したが、ソロ・ミュージシャンとしては、ラテン、レゲエ、アフリカン、ボサノヴァ、ジャズ、クラシック、エレクトロといった非常に幅広く、多様な音楽に取り組んでいる。2006年、米タイム誌(Time magazine)は「世界で最も影響力のある100人」の一人に、様々な政治家や哲学者、科学者らと共に、ミュージシャンのポール・サイモンを選んだ。2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第93位。1968年の「ミセス・ロビンソン(Mrs.Robinson)」(最優秀レコード賞等、計2部門)、1970年の『明日に架ける橋 (Bridge Over Troubled Water)』(最優秀アルバム賞等、計5部門)、1975年の『時の流れに (Still Crazy After All These Years)』(最優秀アルバム賞等、計2部門)、1987年の『グレイスランド (Graceland)』(最優秀アルバム賞等、計2部門)など、史上最多となる13のグラミー賞を受賞。また、1990年にサイモン&ガーファンクルとして、2001年にはソロでロックの殿堂入りを果たした。サイモンは1955年、小学校時代からの友人アート・ガーファンクルと共にデュオグループ「トム&ジェリー」を結成し、1958年に「ヘイ・スクールガール(Hey Schoolgirl)」(最高位54位)をヒットさせる。高校卒業後、クイーンズカレッジでは英文学を専攻する。1964年には、サイモン&ガーファンクルとして「水曜の朝、午前3時(Wednesday Morning, 3 A.M)」をリリース。しかし、このアルバムはフォーク・ブームの沈静期の影響もあり、注目を集めることはなく、ポール・サイモンは失意の内に1人ロンドンでの音楽活動を始める。1965年には、初のソロ・アルバム『ポール・サイモン・ソングブック(The Paul Simon Song Book)』を録音するが、ここには、後にサイモン&ガーファンクルのレパートリーとなった曲も、多数含まれている。ヒットは意外なところからやって来た。『水曜の朝、午前3時(Wednesday Morning, 3 A.M)』のA面最後の曲「The Sound Of Silence」をアメリカのFM局が流したところ、リスナーの反応がよかったのだ。これに注目したレコード会社のプロデューサー、トム・ウイルソンがエレクトリックギターとドラムスを多重録音オーヴァーダビングしてシングルとして1965年9月に発売。これが一挙にヒット・チャートを駆け上るヒットとなった。翌1966年1月の「サウンド・オブ・サイレンス(The Sound Of Silence)」のビルボードNo.1。1967年6月カリフォルニアで開かれた第1回モンタレー・インターナショナル・ポップ・ミュージック・フェスティバルに参加、実行委員を務める。その後も、映画『卒業』のテーマ、「ミセス・ロビンソン(Mrs. Robinson)」(最高位1位)、「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」(最高位1位)などのヒットを作り出す。「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」は当初ポール・サイモンがギターで作詞作曲したが、アルバムではガーファンクルの(ほぼ)独唱、そしてピアノのアレンジメントとなり、収録された。「コンサートでこの曲に贈られた拍手と賞賛はガーファンクルのものだ」と受け取ったサイモンは、その度に「これは僕がつくった曲なんです」と心で思ったという(サイモンがギター1本で歌った「明日に架ける橋」のデモ・テープは、彼のアルバムに以後収められている)。ガーファンクルは、アルバム『明日に架ける橋』の制作中、マイク・ニコルズ監督の『キャッチ=22』の撮影と重なり、ポールはひとりで作業をすることが多くなった。ガーファンクルの不在をモチーフとして書かれたのが「ニューヨークの少年(The Only Living Boy in New York)」である。1970年は「サイモン&ガーファンクル」としてビルボードでシングル「明日に架ける橋」、アルバム『明日に架ける橋』が両方の年間チャートでNo.1を獲得した。シングルとアルバム、両方の年間チャートで同じアーティストがNo.1を獲得するのはビルボード始まって以来、初の快挙である。1970年、志向する音楽の違いなどからサイモン&ガーファンクルは正式解散表明はしていないが事実上別々の道を歩むこととなり、サイモンはソロ活動に入った。私生活では、最初の妻、ペギーと結婚。ハーパーという男の子を授かった(のちに彼は「ケープマン(The Capeman)」にギタリストとして参加している)。1972年1月発表のデビュー・アルバム『ポール・サイモン (Paul Simon)』は、米ビルボードチャートの4位まで上昇。このアルバムの1曲目、「母と子の絆」は、有名白人ミュージシャンとして初めてのレゲエ・ヒットとなった。他にも「僕とフリオと校庭で」や「ダンカンの歌」などの佳曲が収録されている。このアルバムでは、サイモン&ガーファンクルで築き上げたスタイルを敢えて崩し、レゲエなど新しいジャンルの曲目を一部取り入れていた。音楽様式の多様性は、その後発表されるポールのソロ作品の一つの傾向となる。1973年5月、アルバム『ひとりごと (There Goes Rhymin' Simon)』を発表。シングルカットされた「僕のコダクローム」や、「ラヴズ・ミー・ライク・ア・ロック」がヒットした。1975年10月、アルバム『時の流れに (Still Crazy After All These Years)』を発表。本作はアルバムチャートの1位を獲得。またグラミー賞の最優秀アルバム賞と男性ポップ・ボーカル部門の2部門を受賞した。シングルカットされた「恋人と別れる50の方法」も1位を獲得した。また、75年にはサイモン&ガーファンクルとして「マイ・リトル・タウン」を発表し、ヒットさせた。1980年には、映画『ワン・トリック・ポニー(One Trick Pony)』の脚本、サウンドトラックを手掛け、俳優としても主演した。しかし、映画の興行は振るわず、アルバムもそれまでのヒットには及ばなかった。1981年に、アート・ガーファンクルと解散から11年ぶりにサイモン&ガーファンクルを再結成し、セントラル・パークに53万人を集めたフリー・コンサートは大きな話題となった。このコンサートの成功を受けて、サイモン&ガーファンクルとしてのアルバム制作が始められたが、2人の音楽観の溝は埋まってはおらず、逆にそれを再認識することになる。こうして、1983年に発表した5枚目のソロ・アルバム『ハーツ・アンド・ボーンズ(Hearts and Bones)』は、商業的には失敗と見られた。アルバムの中の「Train in the Distance」は離婚した最初の妻ペギーを、そして「Hearts and Bones」は2番目の妻キャリー・フィッシャーとのことを歌ったものだ。最後の曲「Late Great Johnny Ace」はポールの少年時代のヒーローJohnny Ace、ジョン・F・ケネディ、そしてジョン・レノンの死を歌っている。先述のセントラル・パーク・コンサートでこの曲を歌い始めたポールに「話があるんだ」といって1人の男がステージに上がってきた。男はすぐに取り押さえられ、幸い事件には至らなかったが、これにはポールも心底驚いた表情をしていた。『ハーツ・アンド・ボーンズ』の商業的な失敗(アルバムの売り上げはキャリア最低の50万枚未満)を受け、ソロ・アーティストとしての人気に陰りが出てきたが、1986年、新境地ともいえるアフリカの民族音楽を取り入れた『グレイスランド (Graceland)』を発表。このアルバムは、世界各地のチャートで旋風を起こす大ヒットとなり、マイケル・ジャクソンの『スリラー(Thriller)』などと共に、80年代の世界のミュージック・シーンを代表するアルバムのひとつとなった。一方で、このアルバムは南アフリカのミュージシャンのサポートが大きく、当時アパルトヘイト政策をとり世界的な非難と経済・スポーツなど、様々な制裁を受けていた南アフリカ政府を利するものだと、大きな非難を浴びた。また、音楽そのものを南アフリカから“盗んだ”とも非難され大きな論争をもたらした。しかし、そもそもポールには純粋な音楽的な動機以外にアルバム制作の目的はない上、アルバムの内容はむしろ南アの黒人ミュージシャンの才能を全面に押し出すものだったため、最終的に当時のANC(アフリカ民族会議)はポール・サイモンを支持し、また南アフリカ出身や他の多くのミュージシャンの支持をも得、『グレイスランド(Graceland)』は、1枚のアルバムで2年連続してグラミー賞を受賞するという栄誉をサイモンにもたらした。1990年に発表した『リズム・オブ・ザ・セインツ (The Rhythm of the Saints)』は、前作のワールドミュージック路線を継承したもので、ブラジル音楽を取り入れ、再びヒット作となった。同年末には、日本の第41回NHK紅白歌合戦に衛星中継で出演し、「明日に架ける橋」を歌った。1991年には、再びセントラル・パークでフリー・コンサートを開き、75万人を動員するという驚異的な記録を自ら更新。しばらくの沈黙の後、1997年にはブロードウェイ・ミュージカルに進出。「ケープマン (The Capeman)」は短期間の上演となったものの、そのキャストアルバムは批評家の間では高い評価を受ける。2000年に発表した『ユー・アー・ザ・ワン(You're the One)』は、グラミー賞の最優秀アルバムにノミネートされた。2006年には『サプライズ(Surprise)』を発表。U2などのプロデューサーとして知られるイギリス人コンポーザー、ブライアン・イーノを迎え、65歳にして、新境地ともいえるエレクトロミュージックに取り組み、話題となった。「エブリシング・アバウト・イット・イズ・ア・ラブソング」はドラムンベース、「ワンス・アポン・ア・タイム・ゼア・ワズ・アン・オーシャン」はブレイクビーツをベースとした楽曲である。米オール・ミュージック・ガイド(All Music Guide)は、ボブ・ディランの『ラヴ・アンド・セフト』とポール・マッカートニーの『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』、ローリング・ストーンズの『ア・ビガー・バン』という同世代のスター達が最近出した傑作アルバムを並べ、「サイモンの傑出した点は、他のミュージシャンとは違い、自身が既に築き挙げた過去の業績に頼った音楽を作らないということだ。キャリアのピークの時とまったく変わらないチャレンジと野心をもって、これを作りあげただけにより注目に値する」として、高く評価している。また、この作品は商業的にもヒットし、ビルボード・アルバムチャートで、全米14位、全英4位を記録。シングルも、「ファーザー・アンド・ドウター (Father and daughter)」が久々のトップ40入りを果たした。2007年、Library of Congress(アメリカ議会図書館)による、新設のガーシュウィン・アワードの第1回の受賞者となる。この授賞式には、ガーファンクルやスティービー・ワンダーなども参加し、米PBSにより全米に生中継された。また、ヒップポップ・ミュージシャン、ワイクリフ・ジョンの新曲「ファスト・カー」にゲスト・ボーカリストとして参加。このアルバムは、2007年12月発売予定の「カーニバル2(Carnival2)に収録された。2009年11月には、『ロックの殿堂(The Rock n Roll Hall of Fame)』の25年記念コンサートに出演。U2、ブルース・スプリングスティーンらと共に、ソロ・アーティスト及びサイモン&ガーファンクルとして、2度に渡って出演、往年のヒット作を披露し、スタンディング・オベーションでの喝采を受けた。2011年、5年ぶりの新作『ソー・ビューティフル・オア・ソー・ワット(So beautiful or so what)』を発表。アフリカやブラジルで吸収したサウンドに、ブルーグラス、ゴスペルなども組み合わされた自身のキャリアの集大成ともいえる作品で、ローリング・ストーン誌、オール・ミュージック・ガイドなど各メディアは総じて『グレイスランド(Graceland)』以来の傑作と絶賛し、ビルボード・アルバムチャートでも発売と同時に4位を記録した(第1週での4位はキャリア最高)。ヨーロッパでの各チャートでも軒並みトップ10入りを果たし、90年の『リズム・オブ・ザ・セインツ(The Rhythm of the Saints)』以来の大ヒット作となった。その美しいメロディに注目されることが多いが、繊細かつ大胆な比喩と韻を多用した歌詞は、詩人としても評価を受けている。ノーベル文学賞受賞者のデレック・ウォルコット(Derek Walcott)は、「グレイスランド」の歌詞 "The Mississippi delta was shining like a national guitar. (ミシシッピー・デルタはナショナル・ギターのように輝いている)" を例として取り上げながら、独特なスタイルをもったサイモンの詩を「Simonesque(サイモン風の)」と呼び、現代最高の詩人の一人として評価している。さらに、ギターのテクニックについてもその評価は高く、「」や「ミセス・ロビンソン」、「スカボロー・フェア」など様々な楽曲でその実力がいかんなく発揮されている。単身渡英中の1965年に録音されたソロ・アルバム『ポール・サイモン・ソングブック』はギターを主体にしたものであり、ライブではギターのみで通常の楽曲を演奏することも多い。その際、イギリスで知己を得た現地のフォーク・ミュージシャンから教わった奏法や楽曲は、その後のS&Gでの作品に大きく影響を与えた(「アンジー」「スカボロー・フェア」など)。しかし、このアルバムは1970年代以降長らく絶版になっていたが、2004年3月ようやくCD復刻された。女優のキャリー・フィッシャー(『スター・ウォーズ・シリーズ』旧三部作のレイア姫役が有名)と結婚したがすぐに離婚。1992年に「What I Am」のヒットで知られる25歳年下のシンガーソングライター、イーディ・ブリッケル()と再婚している。映画とポール・サイモンとの関係も様々だ。ダスティン・ホフマンの出世作となったマイク・ニコルズ監督の『卒業』ではサウンドトラックを担当。「ミセス・ロビンソン」はこの時代を象徴する大ヒットとなり、トム・ハンクス主演の『フォレスト・ガンプ/一期一会』にも使用された。また、思春期の少女を描きアンジェリーナ・ジョリーがアカデミー助演女優賞を獲得した『17歳のカルテ』では「ブックエンド」が、1960年代後半のロックシーンを背景にした『あの頃ペニー・レインと』では「アメリカ」がサウンドトラックとして使われている。(『あの頃ペニー・レインと』では、アルバム『ブックエンド』のカヴァー写真を見た主人公の母親〜フランシス・マクドーマンドが演じる〜に“このトロ〜ンとした目は絶対麻薬をやっている目よ”と言われており、当時の保守層には必ずしも受け入れていなかったことがわかり興味深い)。最近では、ジェニファー・ロペスの『メイド・イン・マンハッタン』で「僕とフリオと校庭で」がオープニングに流れ、小学生が“どうしてサイモンとガーファンクルは解散(ブレーク・アップ)しちゃったの?”と母親役のジェニファー・ロペスに聞いている。ジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズの『デボース・ショー』ではコメディ・タッチに軽く「明日に架ける橋」などが数曲登場する。サイモン自身は、『ワン・トリック・ポニー』以前に同じニューヨーカーのウディ・アレンが主演・監督した『アニー・ホール』にミュージシャン役で数カット出演している。旧友アート・ガーファンクルとは、時折の再結成を除き、デュオ解散後、特に『ハーツ・アンド・ボーンズ』製作中に決裂した後は絶縁に近い状態が続いた。1993年の一時的な再結成コンサート以来、10年間は完全な絶縁状態だったといわれる。2003年、グラミー賞の功労賞を『サイモン&ガーファンクル』が受賞したのをきっかけに、約10年ぶりに再会(2003年のソロでの「ロックの殿堂」入りの際には、「ガーファンクルと仲直りをしたい」とスピーチしている)。そのまま2004年まで再結成し、世界ツアーを行っている。ガーファンクルとの“犬猿の仲”は有名な事実で、過去にもテレビやコンサートでもジョーク混じりでよく話題にされているが、サイモンは2003年のコンサートツアーのインタビューにこう答えている。「アート(ガーファンクル)を友人とは思っていない。彼は家族だと思っている」
出典:wikipedia
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