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栃ノ海晃嘉

栃ノ海 晃嘉(とちのうみ てるよし、1938年(昭和13年)3月13日 - )は、青森県南津軽郡光田寺村(現在の田舎館村)出身で春日野部屋所属の元大相撲力士、第49代横綱。身長177cm、体重110kg。得意技は左四つ、寄り、上手出し投げ、両前褌、足癖。本名は花田 茂廣(はなだ しげひろ)。花田という苗字で同じ青森津軽地方出身であるが、初代若乃花との血縁はない。年寄・春日野時代、姓を『宮古』とするが停年(定年)退職後は再び花田に戻した。リンゴ園の男子として生まれた花田は6歳の頃に父親を喪い、そのため父の記憶は姿かたちを除いて殆ど残っていない。中学時代には母とも死別したが、兄弟が多かったことで面倒を見てもらうことができ、おかげで高校進学も妨げられなかった。1955年(昭和30年)8月、千代の山・栃錦一行が青森県大鰐町を訪れた際、既に春日野部屋(師匠は第27代横綱・栃木山)に入門していた中学時代の同級生・須藤良一(後の前頭・一乃矢)に出会い力士への憧れが募った。直ちに若者頭・津軽海と栃錦を通して春日野部屋を紹介してもらい、弘前商業高校(現・弘前実業高校)を3年生の夏で中退して春日野部屋に入門。同年9月場所、本名の「花田」で初土俵を踏んだ。ちなみに高校時代は2年生まで野球部で4番を打ち、3年生から相撲部に転部したといい、本人曰く活躍していたというレベルではなかったとのこと。新弟子検査時点では身長176cm、体重72.3kgしかなく、しかも体重に関しては担当の親方から「もうちょっとだけ足りないから、おまえ、もう一回水飲んでこい」再計量を命じられてこれに応じた上でやっと通過した有様である。このようにあまりに体が小さいことからそもそも家族に入門を猛反対されていたといい、そのため事後承諾を当てにして須藤に帯同する形で家族や高校に無断で入門を画策した。地元の関係者は突然登校しなくなった花田を心配したが、花田が前相撲で一番出世を果たしたのを知って驚き、その後快く角界へ送り出されたという。なお入門の背景には昭和30年代の就職難があり、後年本人は「私が通っている高校は商業高校で、進学校でもなかったし、高校を卒業して就職しても、今みたいに大きな会社も少なかったものですから、卒業生のほとんどは個人のちっちゃなお店に就職して、帳面をつけるとかがせいぜいでした(中略)力士にでもなって東京へ行けば、力士がダメでも、またなんか仕事があるだろう…って、当時はその程度の考えですよ」と述懐している。当初から相撲に自信は無かった一方で「俺でも少しいくらいは通用するんじゃないかな?」という気持ちで角界入りしたものの、いざ稽古を行うと実力差を思い知らされて気落ちしたという。それでも1958年1月場所を除いて関取昇進まで負け越しを経験せず、1959年1月場所に新十両に昇進。栃錦がまだ現役であった頃、雪や北風が吹いても露店興業の土俵で怠らず稽古をする栃錦を見て責任感の強さを感じ、本人曰くこれが自身にとって良い教育になったという。1960年(昭和35年)3月場所で新入幕を果たすが、まだこの当時は身長177cm、体重88kg程度であり、勝ち越しは記録できず2場所で陥落。しかし7月場所は14勝1敗で十両優勝、9月場所、四股名を「栃ノ海」と改めて再入幕し、10勝5敗の好成績を挙げた。1961年(昭和36年)5月場所2日目には横綱朝潮から金星を挙げ、翌7月場所では小結に昇進し11勝4敗の成績を挙げ、翌場所関脇に昇進してからは関脇の座を譲らなかった。1962年(昭和37年)5月場所では横綱柏戸に敗れたのみの14勝1敗で初の幕内最高優勝を果たし、13勝2敗の兄弟子・栃光と一緒に場所後、大関に昇進した(この場所は同門の新大関・佐田の山も13勝2敗。さらに12日目から栃光→栃ノ海→佐田の山の順で横綱大鵬を破り、出羽一門総掛かりで大鵬を崩した)。同じ部屋から2人同時に大関に昇進するのはこの組み合わせを最後に50年出ていない(そもそも複数の力士が同時に大関昇進を果たした例自体が少ない)。同部屋であるせいか昇進伝達式は2人一緒に行なわれた。1963年(昭和38年)11月場所では大鵬と柏戸をなで斬りして14勝1敗で2度目の優勝を成し遂げ、翌1964年1月場所、13勝2敗を挙げて当時横綱先陣争いといわれた佐田の山や豊山に先行して場所後横綱に昇進。しかしこの1月場所は優勝者大鵬(15戦全勝)、次点東前頭13枚目清國(14勝1敗)であり、昇進直前場所が優勝同点でも次点でもない成績での横綱昇進には疑問の声もあった。理事会や横綱審議委員会でも「小兵が横綱を務めることは困難である」という意見が多く出たものの、師匠でもある春日野(第44代横綱・栃錦)が栃ノ海を強く推薦したため昇進に至った。推挙を受けた後、その春日野からは「もう、後は引退だけだよ。ダメなら、すぐ辞めなきゃいけないんだよ」と言い渡され、栃ノ海は引導を渡されたように感じたという。横綱2場所目の1964年5月場所では、千穐楽に大鵬との対戦を制し13勝2敗で3度目の優勝(結局、これが最後の優勝となる)を果たした。ところがその後、椎間板ヘルニアを発症して坐骨神経痛となり、以後は3場所連続8勝7敗を記録し「ハチナナ横綱」と揶揄されたりした。その後は回復し10勝5敗の成績を挙げ、復活するが今度は右上腕の筋肉を断裂というアクシデントにも見舞われた。これは患部が見た目でもわかり(右腕の筋肉が断裂した所でへこんでいる)、押せば肌が直接骨に当たるほどの重傷で、力士としての致命傷になってしまった。毎場所ごとに金星を献上するなど厳しい土俵が続き、結局本格的な再起は果たせず1966年(昭和41年)11月場所を最後に引退。本人は昇進当初「私はあまり大きくない。だからせめて、30歳までは現役を務めたい」と目標を立てていたが、引退時の年齢は28歳8ヶ月で、当時の横綱最年少引退記録を作る結果となってしまった。全休場所を除き全ての場所で金星を配給するという、歴代横綱で唯一の不名誉な記録も作ってしまった。横綱としては満足な成績を残せなかったが、大鵬にとってはかなりの難敵で、幕内での対戦成績は大鵬16勝に対して栃ノ海7勝と健闘、自身が横綱在位中に3場所連続8勝7敗の不名誉な成績だった間にも大鵬を撃破したことがある。また、幕下から十両にかけて栃ノ海(当時、花田)は大鵬(当時、納谷)にとってどうしても勝てない強敵で、幕下時代に初めて対戦してから大鵬が新十両の場所まで4連勝している(翌場所大鵬は初めて花田に勝った)。前捌きが巧く、両前褌を取って拝むように寄り進む型や左差し右おっつけの型の鋭さ、出し投げや切り返しなどの技の切れ味、いずれも超一級品の技能だった。自ら「入るときは小さく、入ったら大きく」と解説するような、もろ差しになるときの鮮やかさもまた素晴らしかった。激しい廻し争いを物語るように両手の指先はたこでカチカチになっていたという。横綱土俵入りはキビキビとしていて、相撲ぶりがよく表れており評価は高かった。引退後、大鵬や柏戸、豊山らかつてのライバル達が部屋持ち親方となる中で、年寄・中立として春日野部屋(第44代横綱・栃錦)の部屋付き親方であり続けた。協会の職務としては主に巡業部を担当し、自身が幕内時代に1日50番の申し合いをこなしていたこともあって常々より「稽古しない力士には勝ってほしくない」と発言するなど稽古態度により力士の好き嫌いがはっきりと分かれる性分であった。栃錦停年後の後継も内定していたが、栃錦の停年目前の急逝で1990年(平成2年)、春日野部屋を急遽継承。この時、栃錦子飼いの筆頭弟子である13代玉ノ井との間に確執が生じたとも言われる。還暦を無事迎えたが、還暦土俵入りは行わず赤い綱だけをもらっている。原因は前述の負傷の後遺症のためであるという。横綱昇進後に発生した傷病に苦しみ不成績場所が多かったことで評価を落としてしまったが、こと技能に関しては栃錦以上、と再評価を望む声は多い。また、引退後の審判委員としての説明も明快であった。相撲解説もまた一級品で、受け答えを一度も外す事がなかった。2015年11月現在生存している横綱経験者の中で元佐田の山に次ぐ第2位の年長者(同い年だが栃ノ海が1ヶ月年少)であり、昇進順では最古参である。

出典:wikipedia

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