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イサム・ノグチ

イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人である。父親が日本人(愛知県生まれの日本の詩人で慶應義塾大学教授の野口米次郎)で母親がアメリカ人(アメリカの作家で教師のレオニー・ギルモア)のハーフ。1907年、イサムが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、イサムは野口勇として、森村学園付属幼稚園に通学する。1年後に神奈川県茅ヶ崎市に転居して地元の小学校へ転入し、その年に米次郎とまつ子の子供アイリス(イサムにとっては異父妹)が誕生する。1913年からは野口勇に代わりイサム・ギルモア(ギルモアは母の性)を名乗り、横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入し、茅ヶ崎の自宅の新築設計を手伝うなど数々の建築作品に携わった。学校に通う中、イサムは1915年での1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら茅ヶ崎の指物師について見習い修行していく。学校を卒業した後、1918年には母の意思で単身で米国へ送られ、インディアナ州ローリング・プレーリーのインターラーケン校に7月に入学するが、8月に同校は閉鎖する。エドワード・ラムリーが父親代わりとなり、C・マック宅に寄宿し、ラ・ポート高校に通学し、トップの成績で卒業する。卒業写真に残したノグチの言葉は、「大統領になるよりも、僕は、真実こそを追求する。」であった。ノグチの胸に母が植えつけた願望、「アーティストになりたい」というノグチのために、ラムリーはスタンフォード在住の彫刻家ガッツォン・ボーグラムに助手として彼を預けた。しかし、ボークラムとイサムとは馬が合わず、ノグチは1923年にニューヨークへ移り、コロンビア大学医学部に入学し、日本から帰米してきた母と暮らすようになる。そこでノグチは医学部に在籍しつつ、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻クラスに通い、入学してすぐに初の個展を開催した。ノグチはナショナル・スカルプチャー協会の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品する。美術学校の校長オノリオ・ルオットロからは彫刻に専念することを勧められる。1925年、ニューヨークで活躍していた日本人の舞踏家伊藤道郎のダンス・パフォーマンスに仮面を制作した。これが初めての演劇関連のデザインであった。2年後にグッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学する。半年間、オーギュスト・ロダンの弟子である彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事してアシスタントを務め、夜間の美術学校に通うが、1年後に奨学金の延長が認められずニューヨークに戻り、アトリエを構える。翌年、個展を開く。1930年から1931年にかけて、パリを経由して日本渡航する。1935年に在米日本人芸術家の国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らと共にニューヨークの「邦人美術展」に出品する。第二次世界大戦勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際には、自らアリゾナ州の日系人強制収容所に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂がたち、日本人社会から冷遇されたため、自ら収容所からの出所を希望するも、今度は日本人であるとして出所はできなかった。ノグチは後に芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。終戦後、1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品に手を染める。1950年に再来日し、銀座三越で個展を開き、その時に日本では著名な建築家である丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。1年後にまた来日し、リーダーズダイジェスト東京支社の庭園の仕事の依頼を受け、また当時の岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり (Akari)」シリーズのデザインを開始する。同年、山口淑子(李香蘭)と結婚する(1955年に離婚)。鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学び、素焼きの作品制作に没頭する。この頃に魯山人の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えた。同年、広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザインが選ばれたが、原爆を落としたアメリカの人間であるとの理由で選考に外れた。しかしノグチのデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に生かされている(丹下はこのプロジェクトにノグチの起用を推挙した)。また、戦災復興都市計画に伴い計画され、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋のデザインは、ノグチの手によるものである。ノグチは後年、アメリカ大統領の慰霊碑を設計したこともあるが、こちらは日系であるとの理由で却下された。1961年からはアメリカに戻り、ロング・アイランドシティにアトリエを構え、精力的な活動をし始める。まずはアメリカの企業IBM本部に2つの庭園を設計し、幼少の頃住んでいた神奈川県にある横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移された。そして1968年にホイットニー美術館において大々的な回顧展が開催され、1年後の1969年にシアトル美術館にて彫刻作品『黒い太陽』を設置する。また、東京国立近代美術館のために『門』を設置する。この年、ユネスコ庭園への作品素材に香川県庵治町・牟礼町(現・高松市)で産出される花崗岩庵治石を使ったことをきっかけに牟礼町にアトリエを構え、「あかり (Akari)」シリーズを発表する。ここを日本での制作本拠とし、アメリカでの本拠・ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行う。1970年には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計し、4芸術協会主催によるパーム・ビーチ彫刻競技会にて作品『インテトラ』が2等受賞した。同時期に、東京の最高裁判所の噴水を設計し、設置する。1984年からはニューヨークのロング・アイランド・シティのイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開される。同年、コロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞する。1年後に1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲する。1988年、勲三等瑞宝章を受勲し、札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組む。これは公園全体を一つの彫刻に見立てた「最大」の作品であったが、その完成を見ることなく同年12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で没した。84歳。母レオニーの命日に1日だけ先んじ、その天命をまっとうした。1年後にはイサムの遺志を継ぎ、和泉正敏が制作した遺作『タイム・アンド・スペース』が完成し、新高松空港に設置された。1999年には制作の本拠地であった香川県高松市牟礼町にイサム・ノグチ庭園美術館開館する。ノグチがマスタープランを手がけてから16年後の2004年にモエレ沼公園は完成し、翌2005年にグランドオープンした。モエレ山、プレイマウンテン、テトラマウンド、ノグチデザインの遊具のエリア、さくらの森、テニスコートや野球場などを含む188ヘクタールの広大な公園である。2010年11月20日に松井久子監督によるノグチの母を題材とした日米合作映画『レオニー』が公開された。2013年8月、宮本亜門原案・演出による舞台『iSAMU〜20世紀を生きた芸術家 イサム・ノグチをめぐる3つの物語〜』が3年の創作期間を経て上演された。(PARCO劇場ほか)。ノグチが札幌市の大通公園西8・9丁目に制作した「ブラック・スライド・マントラ」がある場所は本来、他の各丁目を示す大通りと同様、大通公園を南北に横断する道路であった。しかし、大通公園の全体をみたノグチはその天才的感性から、空間全体のバランスを考えた上で、「ここに子供たちの楽しい遊び場をつくりたい」と考えた。一見、無謀とも思える提案だったが、それでも札幌市は「子供らの遊び場に」(「ブラック・スライド・マントラ」は)「子どもに遊ばれて、完成する」というノグチの遺志を尊重し、道路をふさいで、そこを公園にした。本作の所在地が大通公園西8丁目と9丁目にまたがっているのは、その名残である。また、本作の題名「ブラック・スライド・マントラ」は、古代インドの天文台「YANTRA MANTRA」にちなんで名付けられたものである。日本での主な作品家具作品

出典:wikipedia

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