源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。合議制成立の3年後に頼家が重病に陥ると、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡する。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれ、梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈がなされている。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪となったのち誅殺されている。建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は、古今に例を見ないほど武芸の達人として成長した。建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。頼家が家督を相続して3ヶ月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を裁断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。この辺りの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の習慣を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている。合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時が、頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告する(『玉葉』正治2年正月2日条)。しかし景時に反発する御家人たちにより、御家人66名による景時糾弾の連署が頼家に提出された。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救う事が出来ず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。京都の人々は、景時を死なせた事は頼家の大失策であると評した(梶原景時の変)。建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、政子が引き渡しを拒否する。全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにも関わらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請された事が、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた(比企能員の変)。一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握る事になる。『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、12歳の弟・千幡には関西38ヶ国の総地頭を譲ると発表された。しかし千幡に譲られる事に不満を抱いた能員が、千幡と北条氏討伐を企てた」(8月27日条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としている。京都側の記録である『愚管抄』によれば、頼家は病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、病床の頼家を御所から大江広元の屋敷に移してしまい、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺されたという。頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され、激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したという。※日付=旧暦頼家には四男一女がいた。嫡男の一幡は建仁3年(1203年)比企能員の変で北条氏に殺害される。残された男子はそれぞれ出家したが、母が三浦胤義と再婚した三男の栄実は、建保2年(1215年)の泉親衡の乱に擁立されて自害に追い込まれる。三浦義村に預けられたのち、叔父の貞暁の受法の弟子となった次男の公暁は建保7年(1219年)に実朝暗殺を実行して討たれ、四男・禅暁は公暁に荷担したとして承久2年(1220年)に北条氏の刺客によって京で殺害され、4人の男子は皆、非業の死を遂げた。女子の竹御所は祖母・政子のもとにあり、北条氏が擁立した4代将軍・藤原頼経の御台所となるが、天福2年(1234年)33歳で迎えた初産が難産となり、男子を死産した後に死去した。叔父の実朝同様、頼家の子供たちも子を生さぬまま早世したため、竹御所の死によって、頼朝の血筋は完全に断絶した。北条氏の編纂である『吾妻鏡』における頼家像は、遊興にふけり家来の愛妾を寝取る暗君として描かれている。比企氏滅亡と頼家追放に関する『吾妻鏡』の記述は、京都側の史料とは明らかな相違があり、頼家をことさら貶める記述は北条氏による政治的作為と考えられている。頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、比企氏滅亡直後の建仁3年(1203年)9月4日の日付で時政から所領安堵を受けており、「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という書状が『市河文書』に残されているが、『吾妻鏡』では能成は頼家に連座して所領を没収され、遠流とされた事になっている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』も参照の事)。頼朝死去の前後、建久七年の政変や三左衛門事件により朝廷の反幕府派が攻勢を強めていた。十三人の合議制がしかれたのは、頼家が頼朝の跡を継いでわずか3ヶ月後であり、頼家の政治能力の欠如によるものとは考えにくい。頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、幕府成立の起動力となった東国武士達の将軍独裁への鬱積した不満が背景にあったと思われる。結局、頼家は為政者としては殆ど特色を示せないまま没し、以降御家人達による泥沼の権力闘争が続く事になる。
出典:wikipedia
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