第十雄洋丸事件(だいじゅうゆうようまるじけん)は、1974年(昭和49年)11月9日に起こったLPGタンカー衝突炎上事故である。衝突によって発生したタンカーの火災を当時最新鋭の消防船を投入しても鎮火できなかったため、海上自衛隊の護衛艦が砲撃と雷撃でタンカーを撃沈処分した。1974年11月9日13時37分頃、サウジアラビアから京浜港川崎区へ向け、合計57000トンのプロパン、ブタン及びナフサを積載して東京湾の中ノ瀬航路を水先艇である「おりおん1号」の先導で航行中であった日本船籍のLPG・石油混載タンカー「第十雄洋丸」(総トン数:43723トン)の右舷船首へ、木更津港を出港して中ノ瀬航路に入ろうとした15000トンの鋼材を積んだリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」(総トン数:10874トン)が正面から突っ込む形での衝突事故が発生した。事故に至った原因は、「第十雄洋丸」側が中ノ瀬航路を航行していたことで船体が完全に航路を抜けるまで海上交通安全法による航路優先の原則が適用されると考え、また、「パシフィック・アレス」側は中ノ瀬航路北側出口付近をかすめる航路をとったことによる航路外での海上衝突予防法によるスターボード艇優先の原則が適用されると考えたことにより、双方が衝突直前まで回避行動を行わなかったためであった。「第十雄洋丸」の衝突箇所には穴が開き、漏れ出た積荷のナフサが衝突時に生じた火花で引火して爆発、衝突箇所からは炎が噴き出して「第十雄洋丸」の右舷船首に食い込んだままの「パシフィック・アレス」を巻き込む大火災に発展、さらに周辺海域へ流れ出したナフサが海面で炎上したため、辺り一面が火の海と化した。海上保安庁は巡視船を動員して、事故に気づいて戻ってきた「第十雄洋丸」の水先艇の「おりおん1号」とともに救助活動を開始した他、消火活動を行うために自前の消防船「ひりゆう」及び「しようりゆう」を出動させ、海上消防委員会並びに沿岸の東京消防庁、横浜市消防局及び川崎市消防局にも応援出動を依頼し、海上消防委員会からは所属する消防船「きよたき」が派遣された他、東京消防庁、横浜市消防局及び川崎市消防局も所属する消防艇を派遣した。こうして消火が開始されたものの、「第十雄洋丸」は当時日本最大のLPG・石油混載タンカーで合計57000トンに及ぶ多量の可燃物を積んでいたために消火は困難を極め、16時40分頃には「第十雄洋丸」が積荷の可燃物に引火して大爆発を起こした。この間にも「第十雄洋丸」は「パシフィック・アレス」とともに衝突時の形態を保ったまま、現場から南西方向に漂流を続けていたため、衝突した両船を引き離すことが急がれ、19時頃に火勢が衰えたのを見計らって接近したタグボートが「パシフィック・アレス」に曳索を掛けて引き離し、現場から10kmほど離れた場所に曳航した。この時に至っても一方の「第十雄洋丸」は炎上し、川崎市街地方向へ向けて漂流を続けていたため、海上保安庁は「第十雄洋丸」を安全な場所へ座礁させることにしたが、当時の海上保安庁に大型船舶を曳航できる機材はなく、深田サルベージ建設に曳航を依頼した。深田サルベージ及び現場のタグボートは、消防艇の放水支援の下、民間タグボートの船長が放水支援を受けながら船体後部に接近、直接船体を手で触って温度確認を実施した後、進入可能として船員3名が船尾のパイロットラダーより乗船、船尾作業甲板に曳索を取り付けて曳航を開始し、千葉県富津沖の浅瀬に座礁させた。なお曳航開始地点は川崎市の防波堤から700メートルの位置であり、曳航に失敗した場合、川崎市が焦土化する恐れもあった。翌11月10日以降、衝突した双方の船について捜索が開始され、鎮火したものの脱出者が確認されなかった「パシフィック・アレス」からは28名の犠牲者及び1名の生存者が発見された一方、火勢の衰えた「第十雄洋丸」においても5名の犠牲者が発見され、捜索は11月19日まで行われた。その後、地元の漁業関係者から抗議を受けた海上保安庁は「第十雄洋丸」を東京湾外に移動させることを決定、曳索の取り付けられた「第十雄洋丸」はタグボートによって引き出され、湾外へ曳航されていったものの、黒潮から外れた予定の地点に達する前に残っていた積荷のナフサが爆発炎上したことから黒潮上で曳索を切り離したため、「第十雄洋丸」は黒潮に乗って炎上しながら漂流を始めた。海上保安庁は、「第十雄洋丸」の処分を防衛庁(当時)に依頼し、宇野宗佑防衛庁長官は自衛艦隊へその処分を命じた。 当初、自衛隊の出番はないと考えていた中村悌次自衛艦隊司令官は、11月22日に宇野から打診を受けて撃沈処分を了承する。目標は船内に複数のタンクを持つ浮力の大きなタンカーであり、海上自衛隊は最初にナフサのタンクを破壊し、上空から爆撃で穴を開け、最後に魚雷を発射して処分するという方針を立てた。このため、5インチ砲を搭載して即座に出動可能な護衛艦が選抜され、「DDH-141 はるな」を旗艦とする「DD-164 たかつき」、「DD-166 もちづき」、「DD-102 ゆきかぜ」から成る護衛艦部隊(宮田敬助司令官)、潜水艦「SS-569 なるしお」およびP-2J対潜哨戒機が出動した。なお、当時「なるしお」は呉の所属であったが、信頼性の高いMk.37魚雷を調整できる場所が呉の水雷調整所だけだったため、横須賀所属の潜水艦を差し置いて白羽の矢が立った。このため、「なるしお」はMk.37魚雷のホーミング機能を作動させないようにする調整作業を行ったため、到着が遅れている。護衛艦部隊は11月26日に現場に到着、翌27日の13時45分に5インチ砲による第1回射撃(計36発を発射)を開始し、約2時間後に第2回射撃を実施(計36発を発射)し、積荷のプロパンやナフサを炎上させた。積み荷が燃え、船の重量が減ることで喫水が浅くなったため、マスコミから「攻撃に効果がない」との批判が出たものの、当初の射撃は「第十雄洋丸」の側面を破壊して浸水を促すとともに、積み荷のナフサやLPGを燃やし尽くすことで海洋汚染を最小限に抑え、また、浮きの役割を果たすのを防ぐためであった。その後、11月28日の午前にP-2Jの編隊が127mmロケット弾12発(9発命中)と対潜爆弾16発(9発命中)を投下したが、彼らにとって爆撃は初体験であり、照準器は偏流測定儀の流用改造品だったという。午後、本命の「SS-569 なるしお」が魚雷4本を発射したが、1本目は魚雷が発動しない機械故障により艦外へ放棄、2本目と3本目は手続き省略発射で命中したが、4本目は「第十雄洋丸」の喫水が予想より浅くなっていたため船底を通過したまま行方不明となった。しかし沈没には至らず、日没が迫り上層部は予備の潜水艦を現場に向かわせることにしたが、その前に護衛艦部隊からの艦砲射撃が行われる(発射弾数は公表されず)。18時47分、20日間炎上し続けた「第十雄洋丸」は犬吠埼灯台の東南東約520kmの海域に沈没した。「第十雄洋丸」の船体が水没した後も、船体がきしむ音が「なるしお」のソナーで記録されている。この事件は、当時日本最大級のLPGタンカーの積荷が爆発炎上、多数の死者を出した他、東京湾航路の根幹とも言うべき中ノ瀬航路を事実上、閉鎖状態にするという重大な事態を招いたために横浜地方海難審判庁(当時)によって指定重大海難事件とされて海難審判の対象となり、受審人として第十雄洋丸関係者から第十雄洋丸船長、第十雄洋丸三等航海士、第十雄洋丸次席三等航海士及び当時水先艇を務めていたおりおん1号船長が指定され、指定海難関係人には第十雄洋丸船舶所有者及びパシフィック・アレス運航者が指定されて1974年12月26日に第一回審判が開かれた。海難審判では、海難審判庁の調査によって事故に至るまでの次の経過が判明している。その後、1975年(昭和50年)5月23日に「(判決内容)」との第一審の裁決が言い渡されたが、これを不服とする第十雄洋丸関係者から第二審の請求がされ、第二審は高等海難審判庁(当時)において同年8月26日から同年12月17日までの間で審理が行われた結果、1976年(昭和51年)5月20日に衝突場所が航路外の場所であったものの、「第十雄洋丸」は衝突時において船尾の50mほどを中ノ瀬航路内に残していたことから、このような形で競合する場合においては海上交通安全法による航路優先の原則が優先される旨の判断を下し、「本件衝突は、パシフィック・アレスの不当運航に因って発生したが、第十雄洋丸船長の運航に関する職務上の過失もその一因をなすものである」を主文とし、事故の主たる原因が「パシフィック・アレス」の不適当な航路の横切りにあることを認めながらも、第十雄洋丸船長が海上衝突予防法第29条(当時)に規定するグッドシーマンシップに基づく「船員の常務」として行うべきである「パシフィック・アレス」との衝突を回避するための最大限の努力を怠った責任を追及する内容を理由として第十雄洋丸船長の船長免状の効力を1ヶ月間停止する第二審の裁決が言い渡されて確定した。なお、この海難審判においては、最終的に第十雄洋丸船長を除く受審人は全員が「過失と認めない」または「本件事故と関係なし」とされた他、指定海難関係人は全員が「本件事故と関係なし」として処理されている。この事故においては、両船の衝突位置の関係とその後の火の廻り方から、「第十雄洋丸」では延焼による積荷の大爆発を悟った第十雄洋丸船長による適切な時期での総員退船命令により、海へ飛び込む、延焼していない救命艇を下ろす、海上保安庁の巡視船や「おりおん1号」に移乗するなどの方法で脱出し、最後まで船に残っていた第十雄洋丸船長と同船甲板長も海上保安庁の巡視船からの退船勧告に従って11月9日14時5分頃に脱出、乗組員38名のうち、6名の負傷者を含む33名の第十雄洋丸乗組員が救助され、死者が5名であったのに対して、「パシフィック・アレス」は第十雄洋丸に食い込んだまま船全体が一瞬にしてナフサの炎で包まれて閉じ込められたため、脱出することも外から救助することもできず、乗組員29名のうち機関室のビルジウェルにいて火災をやりすごすことのできた二等機関士1名を除く船長以下28名が死亡した。1965年(昭和40年)のヘイムバード号炎上事件で整備された「ひりゆう」型消防船3隻を消火活動に従事させても鎮火に至らず、第十雄洋丸の曳航を民間企業に頼らざるを得なかった反省から、ひりゆう型消防船「かいりゆう」「すいりゆう」が追加建造されたほか、現場指揮能力と船舶の曳航能力を持ったたかとり型巡視船が2隻建造され横須賀港と高松港に配備、さらにひりゆう型消防船を補完するぬのびき型消防艇が10隻建造、全国各地に配備された。この事件を教訓にして羽田特殊救難基地の前身となる特殊救難隊が創設されたとなっている。
出典:wikipedia
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