PC/AT互換機(ピーシーエーティーごかんき)とは、1984年にIBMが発売したパーソナルコンピュータである「PC/AT」の互換機すなわち互換性のあるパーソナルコンピュータや、さらにはそれらをベースに拡張された各種のマシンやアーキテクチャの総称である。「IBM PC互換機」「PC互換機」「DOS/V機」などとも呼ばれる。「IBM PC/AT互換機」(IBM PC/AT Compatibles)、「PC/AT互換機」、「AT互換機」などと呼ばれる。世界的には、特に「PC/AT以降」と限定する場合を除くと、単に「IBM PC互換機」(IBM PC compatible)と呼ばれることが多い。この場合の「IBM PC」とはオリジナルのIBM PC(という名称のシリーズ)のことであり、「IBM社のパソコン」という意味ではない。また、「PCクローン」(PC Clones)は、初期に登場した「オリジナルのほぼそのままの複製」のニュアンスが強い。さらには主にMacintoshと対比させて、「PC」「PCs」と総称する場合も多い。日本では、当初は「IBM互換機」、DOS/V普及後は「DOS/V機」、現在は「PC/AT互換機」と呼ばれる事が多い。理由としては、以下が考えられる。なお、大手メーカーは(パーソナルコンピュータに限らず)ブランド戦略やサポート範囲上、「互換機」の表現を前面に出さない傾向がある。コンパック(現HP)は日本でのDOS/V参入時に「業界標準機」(Industry Standard Machine)、日本電気はPC/AT互換機であるPC98-NXシリーズ発売時に「世界標準機」と呼んだ。(日本で初めてのIBM-PC互換機は、日立製作所のMB-16000)また、現在ではWindows(Me、XP以降)が稼働するパーソナルコンピュータはIntel Macを除いてほぼPC/AT互換機ベースとなったため、特に「PC/AT互換機」と表記する必要性も低下した。現在では世界的にも日本でも、パーソナルコンピュータの大多数はMacintoshを除くとPC/AT互換機であり、事実上の標準となっている。また、各種のスーパーコンピュータや携帯情報端末や制御機器などのベースとしても使用されているが、独自拡張によりパーソナルコンピュータとの互換性を失っている場合が多い。PC/AT互換機はオリジナルのPC/ATと互換性を持つところから出発したが、現在では拡張を重ね、ATバス(ISA)を含めてハードウェア面の互換性はほとんど失われている。しかし、ソフトウェア面から見れば、ほぼ上位互換性を持つCPU (x86) やディスプレイ仕様(SVGAなど)などを引き継いでいる。このため現在ではPC/AT互換機とは「オリジナルのPC/ATと直接の互換性があるマシン」という意味ではなく、「PC/ATをベースにソフトウェア面の上位互換性を配慮しながらも、各種の拡張や競争や標準化を重ね、事実上の標準を確立したマシンや仕様の総称」といえる。事実上、パソコンの標準機となっており、1980年代後半から日本を除く世界的なパソコンのシェアの過半はPC/AT互換機で占められていた(日本では1980年代の半ば頃から1990年代の前半頃まで、日本語で使用できるシステムを実用化させた日本電気のPC-9800シリーズが市場をほぼ独占していた)。ハードウェアやBIOSのインタフェースを共通にすることで、ソフトウェアや周辺機器が複数のメーカーのパソコンで利用できる。PC/ATの仕様がデファクトスタンダード化した後には、多くの互換機メーカーや、台湾などを中心とした部品メーカーが登場し、競争によるコストダウンが進み、標準パソコンの地位を築いた。これにより、1990年代半ば以降、低価格なホビーパソコンはほぼ消滅し、パーソナルコンピュータ市場はPC/AT互換機がほぼ独占するようになった。結果として「PC/AT互換機の世界」内に対し、組み合わせに関して暗黙の保証ができたため、メーカーではない個人でも、比較的容易にコンピュータを組み立てられるようになっている。零細なガレージメーカーのほか、自作パソコンと称して個人が必要な部品を買ってコンピュータを組み立てることも盛んである。ただし、実際には規格に「合致」ではなく、「準拠」させてあるだけであるため、個々の部品特性のバラツキなどから動作に不具合が生じる場合も無いとは言えず、製品の種類数や組み合わせ数が膨大なため、メーカーでもすべての組み合わせの対応を検証することは不可能で、製品の動作を保証しないこともある。これを俗に相性という。IBMによって発売された、1981年のオリジナルのIBM PC、1983年のマイナーチェンジであるIBM PC/XT、1984年のIBM PC/ATは大ヒットとなり、ビジネス用途を含め広く普及し、多数のアプリケーションソフトウェアや周辺機器が市場に普及した。IBM PCは早期参入のために市場で入手可能な部品のみで構成され、周辺機器の普及のためにオープンアーキテクチャとして回路図やBIOSのソースコードを公開していた。そのため、互換機を作ろうとするのは必ずしも困難なことではなかった。しかし、BIOSのソースコードが公開されていることはむしろ罠で、それをそのまま使えば著作権の侵害になるし、後発で従ってIBMよりも少ない生産量からスタートすることになる互換機メーカーは、IBMと同じ原価で部品を入手することもできないはずであった。よって、IBMの当初のオープンアーキテクチャの姿勢は互換機のためのものではない。しかし、ごく初期にはBIOSをそのまま流用したものもあったものの、クリーンルーム設計によって回避され、CPU周辺部品等についても市場性があるとみなしたLSIメーカが安価な互換LSI等を供給し始めたため(これは、後にはわずかな数のチップに集積されたチップセットになった)、前述の障壁はいずれも取り除かれた。さらに、OEMで調達したPC DOSについても、IBMを通さずに開発元のMicrosoftが直接MS-DOSの名称でリリースする事を認めたため、市場には各種のMS-DOSマシン(一部はLotus 1-2-3互換を名乗った)、さらには「IBM PC互換機」が登場した。互換機のうち、初期に登場した各オリジナルのコピー(模倣)に近いものをクローンと呼ぶ。クローンは先行したApple IIなどでも存在したが、中にはBIOSなどの著作権を侵害しているものも含まれる。初めてのIBM PCクローンは、1982年のによるMPC とされ、クリーンルーム設計による著作権侵害とならない互換BIOSを搭載した。1982年には代表的な互換機メーカーであるコンパックが設立され、1983年出荷のCompaq Portableもクリーンルーム設計による互換BIOSを搭載した。さらに、1984年にはBIOSメーカーであるがクリーンルーム設計による互換BIOSを各メーカーに供給開始し、後にはアメリカンメガトレンドなども参入し、合法的な互換機市場が形成された。1986年 コンパックがIBMに先駆けて80386 CPUを採用した際に、従来のXTバスやATバスにバスブリッジを導入し、CPUのクロックと外部バスのクロックを分離した。これは後にEISA陣営によりISAバスと呼ばれ、さらに、IEEEで標準化された。このことはIBMオリジナルの各モデル(CPU)のローカルなバス規格であったXTバスやATバスが標準化され、コピーから生まれた互換機が、以後は独自に高速CPUを搭載したり周辺機器を設計することが可能となり、PC/AT互換機市場が確立した。ハードディスクの規格も当初のST-506やESDIから、1986年にコンパックとコナー・ペリフェラルが開発したIDE、さらには標準化されたATA、SATAが主流となり、特定メーカーの影響力は低下した。ディスプレイ(テキストおよびグラフィック)の規格も、上位互換が徹底された。オリジナルのIBM PCで採用されたCGAおよびMDAの画面モードは、PC/ATで採用されたEGAの規格の中にも含まれ、IBM PS/2で採用されたVGAの規格にはEGAの画面モードが(つまりCGAやMDAの画面モードも)含まれており、ユーザーがハードウェア的な切替操作をすることなく複数の歴代の画面モードを表示できる。各社のチップやボードも同様で、Hercules Graphics Cardなどの共存型を除き、大半のものは各オリジナルの画面モード(EGAなど)に加え、独自の高解像度や色数のモードを追加し速度を競った。特にSVGA(VGAの上位互換規格の総称)では一部の規格がVESAで標準化された。1987年には、IBM PS/2が次世代バスとして全く新設計のMCAを採用し論議を呼んだが、結果的にはMCAはむしろ「IBM離れ」を招き、ISAの拡張という保守的な設計でMCAと対立したEISAも部分的にしか普及せず、ATバス(ISAバス)が使われ続けた。そのため、特にグラフィックにおいてバスが足枷となったため、1992年にVLバスが策定され一時は普及したが、これは486CPUの信号線に直結するという「つなぎ」の性格が強かった。そのため、標準として練られた仕様を持つPCIが登場すると、すぐに置き換わった。この頃になると、もはや「IBM PC互換機」という呼称はナンセンスに近く、元の「PC/AT」とも大きく違う部分も増えたわけであるが(たとえばPS/2ポートなど)、定義があいまいなまま、それらの用語が使われ続けた。別な呼称としては「DOS/V機」というものもあったが、これもWindows化により形骸化した語となった。1994年には、次世代CPUとしてインテルとHPがIA-64を、また、IBMがPowerPCベースのPRePを発表した。しかし、IA-64は当初からIA-32との互換についてソフトウェアエミュレーションでx86の後継としての位置付けは酷く不透明な位置付けとされており、しかも1994年に行われたのは協業することの発表であって、リリースは何年も後である。PRePはすぐ立ち上がったものの賛同企業等も少なく、当時PowerPCを採用していて主要プレイヤと言えたアップルもあまり乗り気でなく、結局のところどちらも最初から、「次世代」ではあっても「x86の後継」ではなかった。その後もアレコレあったものの、x86の後継は、IA-32の64ビット拡張という形でAMDがリリースした「AMD64」がデファクトスタンダードとして先導する形で、x64となった。その他のハードウェア面では、いわゆるレガシーデバイスからそれらを代替するデバイス(具体的には、キーボードの接続はATコネクタ(DIN5ピン)からPS/2コネクタ(ミニDIN)を経由してUSBに、マウスの接続はバスマウスからシリアルポート、PS/2コネクタを経由してUSBに、プリンターの接続はパラレルポート(セントロニクス)からUSBに)という移行があった。しかし、ソフトウェア面ではアプリケーションプログラムの上位互換性はほぼ維持されている。また、パーソナルコンピュータ以外の用途を含め「x86サーバー」「x86システム」と総称される事も増えている。以上のように、当初はIBM製品のクローンから始まったAT互換機だが、各種の規格争いと標準化を繰り返して発展しており、現在は、IBMはほぼ撤退し、有力メーカーやインテルでも市場(業界、ユーザー)の支持を得られない規格は普及できないデファクトスタンダードの世界である。オリジナルのIBM PCを含め、歴史的にPC/AT互換機に大きな影響を与えたものには以下がある。1980年代のうちからPC/AT互換機を独自に日本語化した製品を、各メーカが製品化していた。しかし、各社バラバラの方式で拡張していたため、当時の日本電気 (NEC) のPC-9800シリーズの牙城を崩すには至っていなかった。かろうじて成功をおさめていたのが、東芝のJ-3100(Dynabook)だった。これはCGA/EGAをベースに日本語化したものである。DOS/V発売後にVGA対応がなされたが、東芝は完全にDOS/Vに移行した。PC/AT互換機を日本語化する別アプローチからの方策として、1986年には、マイクロソフト主導によるAXという仕様も策定されている。これはEGAをハードウェア的に拡張したJEGAボードによって日本語化を行なうものであった。当時、NECと東芝、富士通、日本アイ・ビー・エムを除く家電やコンピューターメーカ等は、AX協議会に参加し、AX規格のパソコンを販売したが、本来低価格なパソコンの値段を押上げ、海外ソフトを動作させる必要があった外資系企業で使われた程度で、国内でのシェアは低く、弱者連合と揶揄されることもあった。また、AX規格の制定の頃から、海外でのPC/AT互換機では、より上位の表示規格であるVGAや、さらに、拡張されたスーパーVGAが主流になったが、時代の流れを読み違え、EGAベースで、しかも非常に拡張性の低い方式を採用してしまったため、DOS/Vの登場によって存在意義を失った。AX協議会は発展的な解消をし、参加各社はOADGに「移行」した。日本でのPC/AT互換機の本格的な普及は、1990年に日本アイ・ビー・エムが、IBM PS/2ベースの自社製品を対象に、特別なハードウェアなしにソフトウェア処理のみで日本語の取り扱いが可能になるオペレーティングシステム「DOS/V」を発売したことから始まる。当時は同じ予算でPC-9801では80386搭載機であるところが、PC/AT互換機では80486搭載機が購入できるなど、価格帯性能比において圧倒的にPC/AT互換機が優れていた。その上で日本語を扱うソフトウェアがDOS/Vを導入することで動作可能になったことから、まずパソコンに詳しい層から支持が始まった。このことや、当時日本で「PC」というとNECのPC-9800シリーズを指すことがほとんどだったこともあり、PC/AT互換機という呼び方よりも「DOS/V機」「DOS/Vパソコン」、さらには単に「DOS/V」という呼び方が先に普及した。当時はWindows 3.0の時代で、アプリケーションも少なかったが、その間、ネットワーカーたちによって環境の整備やノウハウの蓄積が行なわれた。例えば、DOSの日本語拡張表示機能であるV-Textは、西川和久やLeptonらネットワーカーたちによって考案され、IBM公認の仕様となり、当時のDOS/Vブームを支えた。ブームに伴い、日本語変換入力ソフト、各著名アプリケーションがDOS/Vパソコンに移植されていった。業界団体として作られたOADGにより、日本語キーボードの標準化がなされたのもこの時代である。初期に富士通が脱退するなどのごたごたもあった(のち復帰)。リリースが大幅に遅れた日本語版Windows 3.1は、1993年に発売されるとブームになり、パーソナルコンピューターを急速に普及させた。Windowsはパソコンのアーキテクチャの違いを埋め、異なるアーキテクチャのパソコン同士であっても、同一のパソコン操作環境を提供した。その過程で、安価で高性能、かつ内外多数のメーカーから機種を選択できるということで、PC/AT互換機は日本でも一般層に徐々に浸透していった。そして、日本での標準機であったPC-9801シリーズを供給していたNECは、PC-9800シリーズアーキテクチャーの維持が価格競争上困難であると判断し、その供給を終了することになる。世界標準のPC/AT互換機がそのまま日本語環境で使える事になったため、コモディティ化を招くことになった。海外、特にコスト面で競争力が強かった台湾製のPC/AT互換機が大量に流入するに至って、日本メーカーはNEC他、細々と独自のものを維持していたメーカーも、そのアーキテクチャーを放棄した。加えて、ほぼNECの寡占状態であったパーソナルコンピューター市場は、広く日本の他のメーカーにも開かれた形になり、それらのメーカーはPC/AT互換のプラットフォームの上で独自性を持たせる製品開発の方向へと進み、それは世界のパーソナルコンピューター市場にも大きな影響を与えることになる。現在は、多くの日本メーカーが台湾などのメーカーからOEM供給を受けてパーソナルコンピューターを販売するようになっている。その際、日本メーカーと供給元とが提携し、日本側が提案した特徴を持つ機種も市場に提供されている。オリジナルのPC/ATと今日のPC/AT互換機(デスクトップタイプ)を比較すると以下のようになる。「互換機」と呼ばれながら既にオリジナルと共通するハードウェア規格はほとんど無い。しかし、ソフトウェアから見た上位互換性はほぼ保たれている。なお、BIOSだけは20年以上ほぼ原型のままであり、HDDの物理パーティションが4個を超えて作れない、POST仕様が原始的などさまざまな制約の原因になっていた。しかし、近年になりようやく代替となるEFIが採用されはじめ、これらのレガシー仕様も解消されていく見込みである。
出典:wikipedia
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