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金平糖

金平糖(こんぺいとう、コンペイトー)とは、砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の日本の菓子。金米糖、金餅糖、糖花とも表記される。語源はポルトガル語のコンフェイト( 、球状の菓子の意)。金平糖はカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから西日本へ伝えられたとされる。初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説あるが、戦国時代の1546年(天文15年)とも言われる。この特徴的な突起がなぜ、またいくつ形成されるのかについてはまだ定説がないが、蔵本・シバシンスキー式 () によって定式化が試みられている。東京帝国大理科大学教授の寺田寅彦が「金平糖の角の研究」を行っている。現在では、色付きやさまざまな味が付いたものも作られている。日本では戦国時代にポルトガル人が西日本へ来航し、南蛮の諸文物がもたらされた。永禄12年(1569年)にキリスト教・宣教師のルイス・フロイスが京都の二条城において織田信長に謁見した際に、献上物としてろうそく数本とフラスコ(ガラス瓶)に入った金平糖が差し出されたという。江戸時代初期には慶長14年(1609年)に佐賀藩の『坊所鍋島文書』に「金平糖一斤(600グラム)」が記されており、慶長18年(1613年)に平戸の松浦鎮信の病気見舞いに贈られたという。さらに、寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていたという。江戸中期には、元禄元年(1688年)に刊行された井原西鶴『日本永代蔵』の中で長崎において金平糖作成を試みる話を記しており、中国人もその製法を知っていたという。なお、西日本では佐賀藩で元禄3年(1690年)から三度に渡る贈答の事例がある18世紀には、庶民の間にも普及している。この小さく奇妙な形の菓子は、様々な色に着色可能であることからその大きさにかかわらず極めて目を引きやすい。加えて高熱で焼き固めることから保存性が良く、湿気さえ気を付ければ20-30年経っても味が変わらないとさえいわれている(ただし伝統的製法に拠る物のみで、一般には賞味期限は砂糖と同じく3年である)。なお、飴玉は夏場などを経て高い室温に晒されたり吸湿すると表面が柔らかくなり、味も損なわれるが、金平糖ではそのようなことはない。本来砂糖は湿気を嫌うことから、金平糖自体の水分含有量は極めて低くなるように作られているが、近年ではボンボンのように焼酎を含む物も開発・発売されている。厳密には金平糖とはやや違う菓子となっているが、金平糖が皇室の引出物にも利用されていることで、これにあやかって「おめでたいお菓子」と銘打っている製造元もあり、土産物として販売されている。他社からもウィスキーや日本酒・梅酒等で風味を付けたものもあり、その他にも色々な風味で変化を持たせた物も存在している。昔から子供には人気のある菓子で、いわゆる「数え歌」の1番目の品物として登場する。金平糖は「甘い」と連想され、それ以降は砂糖・雪・ウサギ・カエル・葉っぱ……と味・色・行動・形状などの要素をもとにした連想が続く。

出典:wikipedia

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