戦車(せんしゃ)は、攻撃力として敵戦車を破壊できる強力な火砲を搭載した旋回砲塔を装備し、防御力として大口径火砲をもってしても容易に破壊されない装甲を備え、履帯による高い不整地走破能力を持った装甲戦闘車輌。戦車は戦う車の総称ではなく、自走砲や装甲車などとは区別される。しかし、何をもって戦車と定義するかは曖昧な部分もあり、また時代や国、地域によって変化する。21世紀初頭現在では大まかになどが挙げられる。ただ上記の条件にあてはまらなくても、保有する側が戦車と呼べば戦車扱いされる可能性もある歩兵戦闘車や自走砲の多くも上記に該当するが、戦車とは異なった兵器である。直射射撃によって敵の保有する(ほぼ)すべての装甲車輌を撃破するように設計された兵器であることも、上の条件に加えられるかもしれない。戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元のイギリス軍による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 (Cruiser) 戦車や主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本は旧軍では皇紀、自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ…チ=中戦車のハ=いろは順の三番目)もつけられていた。戦車は第一次世界大戦時に、歩兵の突撃を支援して膠着した塹壕線の突破を目的とする、歩兵支援兵器として登場した。戦間期から第二次世界大戦にかけて運用方法が各国で研究され、その過程で武装、重量、装甲厚や機動性などの違いによる多種多様な形態の戦車が作られ、歩兵の突撃を支援する歩兵戦車、多目的の中戦車、重武装で重装甲の重戦車、機動性重視の軽戦車や巡航戦車、空挺戦車や水陸両用戦車といった多数の種類が登場した。第二次大戦では陸上戦闘の主役となり、多くの戦訓をもとに戦車の運用法が大きく進歩し、戦車のみの部隊による集中運用方式の有効性が立証され、機甲部隊による運用方式が確立された。また生産性の問題から、いったん増えた戦車の種類も単一機種で多目的な用途をこなせる主力戦車(MBT)に集約されはじめた。第二次世界大戦後は数次の中東戦争などの戦訓を経て、21世紀初頭現在各国の戦車編成は、一種類の主力戦車にほぼ統合されている。近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた。このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。イギリスではアーネスト・ダンロップ・スウィントン陸軍中佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「リトル・ウィリー」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちのマーク A ホイペット中戦車の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車の元となった。マーク I 戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンムの戦いの中盤での事だった。世界初の実戦参加であったソンム会戦でマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。初めて「戦車」としての基本形を整えたのは第一次大戦中に登場したフランスのルノーFT-17という軽戦車であった。FT-17は、それまでの車台に箱型の戦闘室を載せる形ではなく、直角に組み合わせた装甲板で車体を構成し、横材となる間仕切りで戦闘室とエンジン室を分離することでエンジンの騒音と熱気から乗員を解放した。小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えており、全周旋回砲塔は良好な視界と共に1つの砲で360度の射界を持っていた。FT-17は3,000輛以上生産され、当時もっとも成功した戦車となった。第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、また初期の戦車設計の参考資料となった。第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、ヴェルサイユ条約により戦車の開発は禁止されたものの、農業トラクターと称してスウェーデンで戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と秘密軍事協力協定を結び、赤軍と一緒にヴォルガ河畔のカザンに戦車開発研究センターを設けた。第一次世界大戦中から第二次世界大戦直前までに開発された戦車は、第一次世界大戦において対歩兵戦闘に機関銃が大いに活躍したことから機関銃を主武装にするものが多く見られた。これは当初、想定された戦場が塹壕戦であったためであるが、第二次世界大戦初期には砲を主武装にした戦車に移行した。第二次世界大戦中を含め、各国において開発されたものは巡航戦車、歩兵戦車、多砲塔戦車、豆戦車、軽戦車、中戦車、重戦車など多岐にわたった。これは戦車の運用に対する様々な戦術が新たに研究・提案された結果ではあったが、その多くは一長一短があった。第二次世界大戦では、戦術的に、戦車を中心に、それを支援する歩兵、砲兵など諸兵科を統合編成した機甲師団が対フランス戦においてその威力を発揮し、戦車は陸戦における主力兵器としての価値を証明した。この事実を重く受け止めた各国は、戦車の改良と増産に着手し陸軍の改変をすすめることになる。ドイツでは独ソ戦におけるT-34ショックは、海軍艦艇における戦艦「ドレッドノート」の出現による既存・計画艦艇の陳腐化と同様の衝撃をもって受け止められ、独ソ間でのシーソーゲームは急速な戦車の発展及び対戦車兵器の開発を推し進める原動力となった。東部戦線で恐竜的な進化を遂げた独戦車は、西部戦線で戦った米英軍の戦車より性能で優越することになる。しかしアメリカの戦車は量産性が高く、アメリカの高い工業力とあいまって大量の戦車を生産することができた(M4中戦車だけで5万両以上)。しかもM4中戦車は機械的な信頼性が高く、アメリカ軍の高い兵站能力とあいまって、多数の戦車を戦線に配置することができた。これによりアメリカ軍は数の優越で、質の劣勢を補うことができた。なお、用途に応じた戦車として、偵察戦車、指揮戦車、駆逐戦車、火炎放射戦車、対空戦車、架橋戦車、回収戦車、水陸両用戦車、地雷処理戦車、空挺戦車などが存在した。これらの殆どは、既存の戦車の車体や走行装置を流用して製作された。第二次世界大戦後第1世代の中戦車(第1世代主力戦車)は、アメリカではM36/41 90mmライフル砲、イギリスではオードナンス QF 20ポンド砲、ソビエトではD-10T 100mmライフル砲を搭載して開発された。しかし欧州正面では、東西双方の陣営がより重武装、重装甲のコンカラーやM103あるいはIS-3やT-10などの重戦車を並行配備していた。また、M24やその後継であるM41といった軽戦車もその機動力によって偵察などの任務に不可欠であると認識されていた。60年代半ばまではこの軽戦車・中戦車・重戦車という区分が軍事作戦上の意味を持っていたが、センチュリオン用に開発されたL7・105 mm 砲を装備する第二次世界大戦後第2世代の戦車(第2世代主力戦車)が十分な火力と機動力を得たことから、重量とアンダーパワーによる運用の不自由さを持つ重戦車や、貧弱な武装と装甲しか持たない軽戦車、あるいは自走化された対戦車砲である駆逐戦車は存在意義を失っていった。第二次世界大戦戦後第2世代の戦車(第2世代主力戦車)が従来の軽戦車や重戦車の任務を統合していくなかで、従来の中戦車のみが主戦力として生き残り、その運用要求から第二次世界大戦戦後第3世代の戦車(第3世代主力戦車)が開発されるに及んで、生産や配備、編制上での「主力」ではない、あらゆる局面において活用される戦車としての「主力戦車」 (MBT) の概念が完成したとも言える。また、この過程において軽戦車や歩兵戦車などが果たしていた役割を担うための車輌として、歩兵戦闘車のような主力戦車よりも軽量の戦闘車輌が多数生み出された。第二次世界大戦後の戦車の開発には、東西の冷戦が大きく影響している。双方で主にヨーロッパにおける地上戦を想定した軍備拡張が行われ、その中心である戦車の能力は相手のそれを上回る事が必須条件であった。そのため、ソ連を中心とする東側諸国が新戦車を開発すると、その脅威に対抗すべく米欧の西側諸国も新戦車を開発するというサイクルが繰り返された。その結果、大きく下記の様に世代分類されている。米ソが直接交戦する事態こそ無かったものの、朝鮮、中東、ベトナムなどでの代理戦争において、双方の戦車が対峙する事となった。イスラエルとアラブ諸国が争った中東戦争ではしばしば(第一次中東戦争は歩兵支援にとどまったが)大規模な戦車戦が繰り広げられた。特に1973年10月に勃発した第四次中東戦争ではアラブ側・イスラエル側併せて延べ7,000輌(イスラエル約2,000輌、エジプト2,200輌、シリア1,820輌、その他アラブ諸国約890輌)の戦車が投入され、シナイ半島、ゴラン高原において複数の西側製戦車(センチュリオン「ショット」、M48パットン/M60パットン「マガフ」など)とソ連製戦車 (T-54/55、T-62、なおイスラエル軍も「Tiran-4/5/6」として使用)が正規戦を行った。シナイ方面で行われた10月14日の戦車戦はクルスク大戦車戦以来最大の規模となり、また対戦車ミサイルが大規模に投入され戦車にとって大きな脅威となった事から、以後の戦車開発に戦訓を与えた。なお、東側がソ連・ロシア製戦車の調達で統一されていたのに対して、西側においても開発費・調達費削減などの目的で競作や共同開発による戦車の共通化が幾度か試みられたが(レオパルト1とAMX-30の競作、MBT-70の共同開発など)、各国の戦術思想の違いや自国企業への利益誘導などによる仕様要求の不一致からいずれも失敗に終わっており、主砲などの装備レベルでのデファクトスタンダードに留まっている。20世紀の内にも登場する筈であった「第4世代主力戦車」は未だ模索の段階であり、世界的な定義は決定していない。これは東西冷戦の終結によって、正規戦が起こる蓋然性が低下し、各国の新型戦車開発が停滞しているからである。同時に、戦車開発史上もっとも一般的な手法であった、「サイズを拡大することで主砲の大口径化と防御力向上を達成する」ということが困難になったからである。なぜならば、物理的条件から60tを超えるような戦車は行動を大きく制限され、主力戦車としての運用に支障が出るのである。この問題を解決するために、サイズ拡大によらない性能向上が模索されている。サイズ拡大によらない性能向上の一つは、情報のデータリンクを強化して、集団的な戦闘力を高めることである。これは既に現実のものとなりつつあり、C4Iと呼ばれる情報指揮統制システムを備えることが、世界最新鋭の戦車(いわゆる3.5世代主力戦車)とみなされるための必須の条件となりつつある。情報連携力を強化する研究は各国で盛んに行われており、なかには戦車機能を数量で分担するなど斬新なアイデアも提案されている。そして限られた資源で、非対称戦やネットワーク中心の戦いという新しい課題に対応しなければならず、従来の正規戦闘より柔軟さが求められる。前述のデーターリンク機能に加えて高度なセンサーによる周辺監視システム、不意打ちに備えた全周防御、迅速に戦場まで移動する戦略機動性、戦場における自由度を確保する戦術機動性などが求められている。2010年度に装備化された10式戦車では、可視系の視察照準にハイビジョンカメラを用いたモニター照準方式を世界で初めて戦車に採用、複数の目標を同時に捕捉識別する高度な指揮・射撃統制装置に加え、リアルタイムで情報を共有できる高度なC4Iシステムなどを装備しており、例えば小隊が複数の目標を同時に射撃するときシステムが最適な目標の割り振りを自動的に行って同時に発砲したり、小隊長が小隊内の他の戦車の射撃統制装置をオーバーライドして照準させることも可能である。また、1990年度に制式化された90式戦車では実現困難だった水準の小型軽量化を実現し戦略機動性が向上、戦術機動性も油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) の採用により向上した。戦車の軽量化路線については、米国(M1A3計画)や中国(99式改良0910工程)が追従する姿勢を見せている。しかし、世界的な趨勢とまでは言い切れず、第4世代主力戦車の定義を決定するものとはなっていない。2015年4月現在、ロシアではアルマータと呼ばれる装軌車両用の共通車体プラットフォームを基に次期主力戦車T-14を開発中である。T-14は乗員全員を車体前方に設けられた装甲カプセルに搭乗させることで乗員を弾薬から隔離し、砲塔の操作を車体内から遠隔操作で行う無人砲塔を採用していると見られ、10式戦車と同じく車長と砲手の視察照準にはモニター照準方式が採用されていると考えられる。一方、ドイツではウクライナ問題の影響から戦車の配備数を増やし近代化改修を進める動きがあり、T-14の配備がドイツとフランスの次期主力戦車計画にどのような影響を与えるか今後の動向が注目される。各国の技術開発・研究などから、戦車は将来的に以下のような発展をみせると予想されている。第一次世界大戦の後、他の列強諸国同様、日本もまた登場した新兵器・戦車に注目しており、1915年(大正4年)には輜重兵第一大隊内に軍用自動車試験班が設立され、1918年(大正7年)には欧州に滞在していた水谷吉蔵輜重兵大尉によってイギリスからMk.IV 雌型 戦車が1輌輸入された。1919年(大正8年)には新兵器の発達に対処するために、陸軍科学研究所が創設された。以降1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて、日本陸軍はルノー FT-17 軽戦車とマーク A ホイペット中戦車を試験的に購入して、研究している。当初は「戦車」と言う言葉が無く、「タンク」や「装甲車」と呼んでいたが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったようである。1923 - 24年(大正12 - 13年)頃には戦車無用論も議論されたが、1925年(大正14年)の宇垣軍縮による人員削減の代わりに、2個戦車隊が創設された。陸軍では当時(大正後期)の日本の不況経済や工業力では戦車の国産化は困難と考えられ、ルノーFTの大量調達が計画されていたが、陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始される事となった。原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーバネ式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われ、それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与している。こうして1927年に完成した試製1号戦車を経て、八九式中戦車、九五式軽戦車 、九七式中戦車などの車輌が生産された。しかし、自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本では、技術的な問題から後継車両の開発が遅延を重ねたため、太平洋戦争において日本戦車はアメリカ軍戦車との対戦車戦闘で一方的にほふられる結果となった。幸いにも本土決戦用に温存されていた車輌と共に、原中将はじめ開発・運用要員の多くは終戦まで生き延び、戦後の戦車開発にも寄与する事となった。戦後、共産主義勢力の台頭と朝鮮戦争の勃発により日本に自衛力の必要性が認められて警察予備隊(後の自衛隊)が組織され、アメリカより「特車」としてM4中戦車などが供給された。また朝鮮戦争中に破損した車輌の改修整備を請け負った事などで、新戦車開発・運用のためのノウハウが蓄積されていった。戦後初の国産戦車となった61式戦車は、当時の工業生産技術の限界もあり他国の水準からはやや遅れていたが、続く74式戦車、90式戦車は、世界最高水準に到達した主力戦車であった。2000年代に開発された10式戦車は、全国的な配備を考慮して90式戦車よりも小型軽量化しつつ同等以上の性能を有しているとされ、特に射撃機能やネットワーク機能などべトロニクスの進歩による戦闘能力の向上が著しい。10式戦車は耐用期限到達に伴い減耗する74式戦車の代替更新として2010年度から調達が開始された。一方、2013年に25大綱と26中期防が閣議決定されたことで、今後、本州配備の戦車は廃止され、戦車は北海道と九州にのみ集約配備、本州には戦車とは異なる新たなタイプの車両の16式機動戦闘車のみが配備される。機動戦闘車は装輪車のため10式戦車と比して火力と防護力だけでなく戦術機動性に劣るが、逆に戦略機動性は優れており、路上を高速で自走することにより74式戦車と同等の火力を素早く展開できる。本州配備の74式戦車が担っていた役割の一つ、普通科部隊への射撃支援については、機動戦闘車が引き継ぐことになる。2015年4月現在、防衛省では有人戦闘車両の無人砲塔化と、有人戦闘車両と無人戦闘車両の連携に関するべトロニクスシステムの技術研究が行われている。この研究は2020年度まで行われる。敵の戦車を排除できるように貫通力が高い大口径の主砲が装備され、攻撃対象により砲弾の種類を変更する。砲戦距離は地形条件により変化するが、1967年のゴラン高原での戦車戦では900 m から1,100 m の射程で戦闘が行われており、ヨーロッパでは2,000 m 程度で生起する想定がされている。一般に、1,000から3,000 m の距離で敵戦車と対峙した場合、3発以内で命中させないと相手に撃破されると言われている。そのためには主砲の発射速度は毎分15発程度が求められる。第二次世界大戦時には火炎放射機能を有する戦車も存在したが、被弾した際の引火のリスクが高く、また当初想定していた市街部や塹壕戦用途としては、歩兵用の対戦車兵器の存在に対してあまりに無力なため、運用上の必然性が低くすぐに採用されなくなった。車内から砲口を通して対戦車ミサイルが発射可能なガン・ランチャーも用いられたが、通常の戦車砲から発射可能な対戦車ミサイルも開発されている。戦車砲に並べて取り付けられる主砲同軸機銃や、砲塔の上に搭載された機関銃も用意される。主砲の砲弾は攻撃する対象により弾種が選択される。主砲砲弾数の自走時に携行可能な数は40 - 60内外である。戦車のような硬目標に対しては、多くが運動エネルギーによって装甲を貫徹する徹甲弾 (AP) の中でも細長い弾芯を持ち貫通力を高めたAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)が使用され、モンロー/ノイマン効果を狙った成形炸薬弾 (HEAT) も使用されることがある。21世紀の現在ではあまり使用されない傾向があるが炸裂時の衝撃によって目標の内部を破壊する粘着榴弾 (HESH) も存在する。兵員装甲車のような軽微な装甲を備えた軟目標や陣地のような目標に対しては榴弾が使われ、多くの場合は榴弾の特性も備えた成形炸薬弾が使用される。装填は今なお人の手で行われることが多いが、人力で円滑な装填動作を行うには砲弾重量は20 kg 程度が限界とされており、自動装填装置により装填が自動化されている戦車もある。また車内への砲弾の搬入は多くは砲塔上の装填手用ハッチから行われるが、労力軽減のため砲塔側面や車体に搬入口や自動装填装置の給弾口を設けている車輌もある。戦車がその能力を発揮し続けるためには、外部からの攻撃に対して内部の乗員や火砲、機動力を守る必要がある。防護性という点では、秘匿性を維持するための低姿勢設計や隠密設計、被弾時の人員の脱出効率なども評価対象となるが、通常は対弾防御能力でもってその性能を評価される。重量と防御力を最適化するため、戦車の装甲厚は敵と向き合う砲塔前面や車体前面が最も厚く、一方で上面や底面が薄く造られている。現在の主力戦車の正面装甲は、対抗する主力戦車が搭載する火砲に対し1,000 m で攻撃を受けても耐えることが求められているとされるが、実際には常に競争を続ける盾と矛の関係であり、防護性能より火力性能が上回ることが多い。一般的には正面左右30度の範囲が最も防御力が高くなるように作られており、側面、後面、上面、底面の順番に防御力は弱くなっていく。近年では側面を携帯対戦車兵器で攻撃される事例が多くなり、これに対抗するために側面装甲の増加が行われている。車体下面も装甲は薄く対戦車地雷によって損傷を受けることが多いが、底面への増加装甲も取り付けられるなど、全周囲に対して均等な防御力を持つことが要求されてきている。低強度紛争においては大口径の戦車砲による攻撃を受けることがないため、正面の装甲を減らして側面に増加装甲を施す改良なども行われている。対地攻撃機や対戦車ヘリコプター、地上の兵士が放つある種のミサイルでは装甲車輌の上面に攻撃を加えるトップアタック能力を持つものがあり、これらの兵器に対して脆弱である。乗員が車内に出入りするためのハッチ、キューポラ、また外部を観察するためのスリット、あるいはエンジン部などは装甲を厚くできない箇所で、履帯や転輪のような駆動系も攻撃に弱い。出現した当初の戦車は、対人用の銃器に耐えられる程度の装甲しか持たなかったが、対戦車用の火砲が出現し、戦車自身もそれらを搭載するようになると、戦車は重装甲化への道を走る事になる。無論、厚くて重い装甲は機動性の妨げとなるため、両者のバランスが戦車開発の永遠の命題となった。戦車には防護力を高めるために増加装甲が取り付けられる場合もある。はじめからその用途に開発されたものから、戦地にある部隊が独自に取り付けたものまである。素材も先進装甲から土嚢、セメントの類まで幅広い。工具箱や予備履帯の配置を工夫して増加装甲としての効果を期待する事もある。ただ、これらの事をすると当然車体重量が増え、機動性能が落ち、足回り装置に負担がかかる事になる。第二次世界大戦では増加装甲の取り付けが積極的に行われた。現代では車種ごとに車体にフィットするような専用の装甲ブロックが供給される。最近では、装甲の一部を取り外し可能にして、破損時の交換や新型装甲素材への換装を容易にしたモジュール装甲(外装式と内装式がある)も一部で導入されている。中でも人的資源が限られているイスラエル国防軍が運用するメルカバでは、乗員の生存性を高めるために戦車の防御力強化に力を注いでおり、爆発反応装甲や中空装甲をいち早く導入し、エンジンを車体前部に配置して乗員を護る装甲の一部としている。第二次世界大戦後期には、成形炸薬によるモンロー効果を用いた成形炸薬弾(HEAT弾)が戦車の脅威となった。運動エネルギーに頼らずに砲弾自体が発生させる超高速噴流によって装甲を貫くため、発射装置を簡略化することが出来た。この原理を用いたバズーカやパンツァーファウストなどの携帯可能なロケットランチャーや無反動砲により、歩兵の対戦車戦闘力が向上した。第二次世界大戦後はソ連製のRPG-7などが、歩兵用の対戦車擲弾発射器として広く用いられている。第二次世界大戦時にドイツ軍戦車が用いた「シュルツェン」(エプロンの意味) は、車体から離して薄い鋼板を張った増加装甲である。これはもともとソ連軍の対戦車ライフル対策であったが、HEAT弾に対し効果があることも判明した。HEAT弾を車体からできるだけ離れたところで起爆させ、ジェット噴流が車体に及ぼす効果を極力抑えようとしたもので、後にそれ専用として軽量化を意図した金網製の物も作られた。ソ連軍でもベルリン攻防戦時、ドイツ歩兵のパンツァーファウストへの対策として、砲塔の外側に金網やベッドスプリングを貼っている。初期にはHEAT弾に対して装甲内に空洞を待たせることで対応するスペースドアーマーも登場し、燃料タンクとして利用する試みもなされ、21世紀の現在でもプラスチックやディーゼル燃料を充填する試みが行なわれているが、対HEAT装甲の主役は鋼鉄製の装甲板にセラミック材や重金属を積層した複合装甲に移っている。イラク戦争後、米英を主体とした駐留軍の車両も対HEAT装甲である鳥籠状の構造物で車体を覆っているが、これは前述のように独軍が採用した防御方法であったもので、その後に同じ着想のものが世界中で採用された。これがRPGの弾頭を数十%の確率で不発、または著しく効果を削ぐと云われている。また対戦車ミサイル対策として、箱状の爆発反応装甲を主装甲の上に追加する事もある。初期にはHEAT弾にしか効果がなかったが、現代の爆発反応装甲はAPFSDS弾にも効果がある。爆発反応装甲の作動時にはその爆発によって車体周囲の随行歩兵や自車の装甲に損傷を与える恐れがあり、作動後はその箇所の防御力は低下してしまう。新世代のミサイルに対する装甲防御力が弱い旧世代の主力戦車に、爆発反応装甲を全周に貼り付ける事で兵器寿命の延命を計ることがある。戦車はキャタピラ、または無限軌道と呼ばれる走行装置によって、車体を支え走行する。多くの場合現代的な無限軌道は、鋼製の履板(りばん)を1枚ずつキャタピラピンで接続したもので、転輪を一巡する輪を構成する。この帯状のものは履帯(りたい)、キャタピラ、無限軌道と呼ばれる。また履帯と走行用の車輪、起動輪、誘導輪、上部転輪などの走行装置をもつ車輛を装軌車両と呼ぶ。履板は1枚1枚がピンによって連結され、地形に追従して転輪を支え、穴や溝に差し掛かっても一種のフタのような役を果たして転輪を落としこまない。このような働きによって、装軌車両は、装輪車両では通過できないような不整地や、砲弾の炸裂痕に満ちた大地、壕の設けられた戦場を走破、また鉄条網が引かれた阻止線を突破できる。履板を備えた無限軌道は、タイヤなどに比べて地面と接する面積が広い。これにより荷重が分散され、泥濘のような多少の不整地でも走行できる。また接地面積が広いことから、トラクションをかける力が高く、装輪車両では滑ってしまうような路面でも進んでいける。こうした能力は「不整地走破能力」と呼ばれる。多少の幅のある壕も越えて行け、これは「越壕能力」と呼ばれる。段や堤も通常のタイヤ方式(装輪式)よりは高いものまで越えられ、「越堤能力」と呼ばれる。履帯は接地している地面と大きな摩擦を生むため、「登坂能力」にも優れる。浅く川底の状態の良い河川ならば渡渉が可能である。履帯はエンジンから出力される動力によって駆動するエンジンは変速機、操向変速機、最終減速機を経て起動輪へと動力を伝える。起動輪とはエンジンの駆動力を履帯に伝える車輪である。起動輪には歯輪が取り付けられており、履板に設けられた穴へ歯をかみあわせて履帯を動かす。変速機はエンジンから出力された高回転の動力を順次低回転に調速し、ゆっくりしているものの強い力で数十トンの質量を動かすだけのトルクを作り出す。動力はさらに操向変速機へ送られ、ここで左右の履帯へ分配される。操向変速機によって履帯は動力を増減し、または停止させられる。これによって装軌車両は向きを変えたり、緩く円を描くような旋回、または急旋回を行える。ブレーキは操向変速機に組み込まれており、走行中の減速に使用される油圧多板ディスクブレーキと停車中のパーキング・ブレーキがある。一部の戦車ではディスク・ブレーキに加えてオイル式のリターダを備える。履帯による操向は左右起動輪の回転数の差によって行なわれる。単純な進行方向の変更では左右回転数の小さな差で行なわれるが、片側の履帯を停止したまま逆側の履帯を動かすことで「信地旋回」と呼ばれる停止側の履帯を中心とするほぼそのままの位置での旋回が行なえる。また、左右の履帯を互いに逆回転させることで「超信地旋回」と呼ばれるその場で旋回が行なえる。上記のように履帯は多くの長所を備えるが、短所も多い。履帯による走行はエネルギーロスが大きく、速度や燃費が犠牲になっており、装輪式のようにパンクはしないが、片方の履板1枚のキャタピラピンが切れたり、履帯が車輪から外れれば、その場で旋回する以上の動きは出来なくなる。履帯は騒音と振動も大きく、騒音は戦場での行動において容易に発見されることを意味し、振動は車載する装置の故障の原因となり乗員を疲労させる。路面の状況によっては大きく砂塵を巻き上げて自ら位置を露呈してしまう。またキャタピラと転輪類そのものが車重全体に占める重量も相当なものであり、大きなものでは履帯1枚が数十kgになる場合もあり、これを連結する履帯も数トンの重さとなる。装軌部分は車輛の側面の多くを占め、体積としても装輪車両より占有率が高い。現代的な戦車の走行速度の調整、すなわち変速は、操向操作となる左右の起動輪の回転差の調整を含めてトルクコンバータ式のオートマチックトランスミッションによって実現されており、操縦手は、ステアリングハンドルとアクセルペダル、前進・後進を選ぶセレクター・レバーの操作によって、比較的簡単に操縦できる。第一次大戦中の戦車はこのような機構は未熟であり、右履帯用のエンジンと左履帯用のエンジンを備え、車輛の向きを変えるにはエンジンの回転数を変えてステアリング操作を行うようなものもあった。戦間期から第二次大戦中にトランスミッションは進化し、単純なクラッチ・ブレーキ式のような機械式変速機から、流体変速機のような無段階式・オートマチックな変速機へと変遷した。戦車の行動に適した場所としては開けた土地が挙げられる。これは戦車が攻撃に投入される兵科であり、速度と突進力を生かした機動がその戦術的な価値を高めるからである。電撃戦における機甲部隊は、迂回し、突破し、後方へ回り込んで敵の司令部、策原地などの急所をたたくことが用法の主たるものである。防御戦闘、市街地の防衛などは戦車の任務として本来不適である。戦車は開闊地(かいかつち・Open terrain)や多少凹凸のある波状地 (Rolling terrain) において本来の機動力を発揮できる。反対に密林地帯や森林地帯のような錯雑地 (Closed terrain)、都市部、急峻な山岳地帯、あるいは沼沢地のような車両の進入を拒む場所は、戦車の機動が阻害されるので不適な場所とされる。泥濘も履帯に絡みつき、転輪や起動輪を詰まらせて走行不能にすることがあり、不適である。橋梁による河川の通過は橋の強度が求められ、橋に頼れば移動経路が制約されて、戦争時には意図的に破壊されることもあり作戦上は好ましくない。履帯が隠れる程度の浅い河川では多くの戦車が渡河が可能である。車体を水密にすることで、エンジンの給排気だけ確保すれば水中でも短距離であれば川底を走行することで渡河できる可能性が高く、給排気管や給排気塔と呼ばれる専用装備が用意される戦車もある。ただし運転席が水面の下に入ると目視での運転ができなくなり、計器頼りとなる。また中空構造の戦車が水中に入るとそれなりに浮力がかかり、その分無限軌道と水底との間の摩擦力が減ることから、走行は陸上よりも難しくなる。戦車だけでなく車両全般の渡河を行なうため、専用車両や舟艇が存在する。比較的狭い幅の川では、架橋戦車と呼ばれる戦車相当の車台上に折り畳んだ橋梁構造を固定運搬し川辺からす早く展開設置する機能を持った装甲車両が使用される。また、幅の広い河に対しては架橋戦車の数両分で橋脚を備え連結出来るものも存在する。ポンツーンやポンツーン橋と呼ばれる小型艇を数艇以上を川面に並べることで応急・簡易に戦車等が渡河可能とするものもあり、さらに広い河ではこれを橋ではなく艀として使用することもある。この専用運搬車両も存在する。現代の戦車は開発・製造に高度な専門技術と産業基盤が要求される工業製品である。強力なエンジンと走行装置、特殊な複合装甲とそれを支えるための強固な構造体、高い加工精度を要する戦車砲と砲弾、それを正確に操る精密な火器管制用の光学電子機器と情報処理装置、通信機器、そして乗員を護る空調換気装置。こうした数多くの要素の1つでも欠けていれば優秀な戦車は産み出せない。自国のみで近代的な戦車を開発し生産まで行なえるのは先進工業国に限られているが、21世紀に入ってからは、戦車は1両の陸上車両単体での戦闘能力だけでなく複数の同種・異種の車両や航空機、人工衛星とも連携した戦闘が求められるようになっており、先進工業国の中でもさらに限られた数ヶ国だけが開発と生産を行っているのが現状である。そのために戦車配備を欲しながらも工業力に乏しい国は他国から戦車を輸入せざるを得ず、戦車生産国はこういった国々へ輸出することによって経済的利益や量産効果による調達価格の低減と共に、軍事・政治的影響力の確保を図ろうとする。兵器メーカーが輸出専用の車輌開発を行う場合もある。現代型の最新戦車は、鋼鉄の塊であると同時に高度情報機器や精密機器の塊でもあるため高価であり、ある程度の数を購入するにはかなりの軍事予算を必要とする。東西冷戦期には、ヨーロッパで対峙していた東側と西側の陣営各国だけでなく世界中の多くの国々が陸上戦闘での主戦力となる戦車を100輌単位から1,000輌単位で保有していたが、冷戦終結後は脅威の減少に伴う軍事費の削減によって、徐々に旧式化する大量の保有戦車を次世代型の新たな戦車に置き換えるだけの予算は与えられなくなった。先進国の軍隊が限られた軍事予算を有効利用するには、それまで、アフリカ諸国のような軍事予算の限られた国の軍隊が、旧式化した先進国の中古の陸上兵器を小さな改修によって実用的な兵器として購入していたように、先進各国が保有している多くの戦車に対して、車体はそのままに追加の装甲や最新電子装置などの付加や交換による能力向上と寿命延長措置が計られることも行なわれている。こういった改修は「近代化改修」と呼ばれる。多くの国では近代化改修などにより旧型戦車の延命処置をおこなうなどして戦車を保有し続けているが、冷戦の終結により大規模戦争の可能性は小さくなっており、低脅威度地域紛争への派兵にともなう新たな戦闘車両への要求が大きくなっている。ソマリアの戦訓やイラク戦争の戦果は装甲車や歩兵戦闘車の有用性を示すものであった。戦闘車両の主敵は敵の戦闘車両ではなくなりつつあり、RPGや路肩爆弾などへの防護が求められるようになっている。また決戦兵器としてではなく歩兵支援兵器として輸送に適し小型軽量、高速走行できる軍用車両の必要性が高まり、従来とは異なった兵器体系の模索が開始された。それまでにも戦車以外の中軽量級の戦闘車両の開発では、モジュール化やコンポーネントの共用化によって開発、生産、運用といった面での経費節減と運用効率向上を図ることがあったが、これらの戦闘車両ファミリーに戦車類似、又は戦車相当の車両を含めて作れないか検討され開発が進められている。こういった戦車類似車両を含む新たな戦闘車両体系は、いずれも味方側との無線ネットワークを使って情報化された高度に有機的な運用方法を想定しているため、戦闘車両単体での購入では能力は発揮できず、導入時には戦闘ファミリー全体の保有が求められる。このような戦闘車両が海外へ輸出販売される場合には、兵器技術の拡散という負の側面もあるが、兵器メーカーでは広範な兵器システムの売り込みが図れ、輸出国では購入国への軍事的影響力がこれまでの単体兵器以上に大きくなると考えられる。戦車は敵の戦闘車両と戦うだけではなく、対戦車兵器を使う対戦車歩兵とも戦う必要がある。戦車は厚い装甲に守られているが視界は狭く、死角が多い。一方で歩兵は地形に潜んで、戦車に近接戦闘を挑むことが容易である。そこで戦車の側は単独で進撃するのではなく視界の広い歩兵を随伴させ、その火器で制圧させ、対戦車戦闘を困難にさせる。一方で対戦車攻撃を仕掛ける側は、随伴歩兵に砲撃や銃撃を加えて戦車から引き剥がそうとする。敵への警戒という面で一番の弱点は狭い視界である。装甲の防御力を高めるために良好な視界が得られる開口部は減らされる。戦車は視界とともに外部音も遮蔽され一層周囲警戒が困難になる。敵歩兵からは1 km 以上先から戦車の走行音が聞かれてしまう。「戦車だけの部隊」は歩兵や隠蔽された車両に対して脆弱となる。戦車は登場した当初から歩兵の手榴弾や地雷による肉薄攻撃によって容易に撃破されてきたが、個人携行が可能な対戦車ミサイルによって離れた位置から戦車への攻撃が可能になると、戦車兵や同行の歩兵は徒歩によって周囲警戒する必要に迫られている。最新の戦車はモニターやセンサー類を充実することで不利を補おうとしているが十分とは言えず、随伴歩兵を必要としつづけている。歩兵が戦車の装甲に直接同乗する戦法をタンクデサントと言うが、歩兵の視野の広さと戦車の機動力を得られる反面、むき出しの歩兵があまりにも危険で推奨される戦法とは言えない。詳細はタンクデサントの項目を参照。また戦車は大きく重いことから交通路には制限があり、防御側はこれを利用して対戦車壕や対戦車用バリケード、対戦車地雷等の障害物によって自由な移動を阻害する。戦車にとって、停止した状態は脆弱であり、走行不能な状態に陥った戦車はその場に放棄されることが少なくない。たとえ歩兵側に有効な対戦車兵器がない場合でも、爆薬を使用しての肉薄攻撃や即席爆発装置による待ち伏せなどで対抗することができる。市街戦は視界の狭さと通行の制限という二つの弱点から特に苦手としているが、歩兵の盾として戦車が必要されていることに違いは無く、非対称戦争対策として市街地向けの改修が行われている。空からの攻撃は戦車の大きな敵であり、第二次世界大戦の中期から枢軸・連合国双方に対地攻撃機がタンクキラーとして導入され活躍した。急降下爆撃による空襲は事実上回避不可能であり直撃されないよう祈るほか無いものであった。また大規模な戦車部隊に対しては編隊による高高度度水平爆撃が利用された。現代では精密誘導ミサイルなどにより空から敵戦闘車両を破壊したうえで地上部隊を展開させる戦術が取られることが多く制空権の確保は戦闘車両の大規模展開の前提である。第二次世界大戦中に成形炸薬によるモンロー効果を利用した物が登場すると吸着地雷から対戦車手榴弾・銃砲利用の対戦車擲弾と続き、やがて個人携行可能な対戦車ロケット弾、対戦車無反動砲、携帯式対戦車用擲弾発射器(パンツァーファウスト)が登場した。またロケットランチャーと組み合わせたものはバズーカとして知られる。これら小型軽量の対戦車兵器は比較的安価で使用法も単純である事から対戦車兵器の主流となった。また第二次世界大戦後になると誘導装置を備えた対戦車ミサイルが開発された。1970年代には、この対戦車ミサイルにより歩兵の対戦車戦闘力が大きく強化された。第四次中東戦争中の1973年10月8日に発生したエジプト軍第二歩兵師団とイスラエル軍第190機甲旅団の戦闘では、エジプト軍がRPG-7やAT-3「サガー」を大量に装備して迎え撃った。随伴歩兵を伴っていなかったイスラエル軍戦車は対戦車攻撃を満足に防げず、約120輌の戦車うち100輌近くが約4分間で撃破された。このような携帯式の対戦車兵器の発達が、ゲリラやテロリストなど重装備を持たない武装勢力に対戦車攻撃能力を与えたため、いわゆる低強度紛争(LIC=Low Intensity Conflict)を増長させる要因となった。例えばソ連製のRPG-7は簡単な作りで途上国でもコピー生産できるため、紛争地帯で多く使用されている。各国において、戦争に関する博物館が存在する。中でも、戦車を中心にした博物館がいくつか存在する。連合軍の博物館は自国の戦車はもとより、鹵獲した枢軸国の戦車の展示においても充実しており、戦車の変遷を理解する上においては重要な資料を提供している。
出典:wikipedia
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