大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。2014年(平成26年)現在、8学部19学科・8研究科を設置している。漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年(昭和60年)に制定された。そして、2008年(平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。8学部19学科・8研究科(大学院)からなる文系総合大学である。文学部日本文学科と中国文学科、経済学部経済学科は創立当時からの歴史と伝統を持つ。書道教育には力を入れており、多くの書家や研究者を輩出している。1969年(昭和44年)4月に大東文化書道文化センター(後の書道研究所)を開設し、日本で唯一の書道専門機関となっている。創立以来日本文学や漢文学をはじめとする東洋文化研究を柱に据えており、アジア・東洋重視の伝統は受け継がれている。2006年(平成18年)には、国際関係学部の「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に採択。2005年(平成17年)より板橋キャンパス近くの高島平団地を活性化することを発端とした環境創造学部による地域貢献活動「高島平再生プロジェクト(後にみらいネット高島平)」を地域住民と行っている。平成19年(2007年)に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択。自己点検・評価は1994年(平成6年)の「大東文化大学自己点検及び評価規程」制定以来取り組まれており、現在では学長を委員長とする「自己点検・評価基本事項検討委員会」と、その下に実務機関としての「全学委員会」を組織して行われている。また、教育の質や授業内容を向上させることを目的とした授業評価アンケートや、ファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムも実施している。大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した木下成太郎を中心とするメンバーの尽力により、1921年(大正10年)3月18日、第44回帝国議会衆議院本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。再三に渡って行われた審議の結果、可決され1923年(大正12年)2月11日に大東文化協会が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」とされた趣旨に基づき、大東文化学院(旧制専門学校)は文部省から設置認可を受けたが、関東大震災で東京府東京市神田区錦町三丁目十番地の校舎予定地(旧東京工科学校の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、東京市麹町区富士見町六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、法政大学旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は平沼騏一郎、初代会頭は大木遠吉、初代副会頭は小川平吉、江木千之。大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、東京帝国大学、京都帝国大学、早稲田大学を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった。教授陣には、第二代総長となる井上哲次郎が哲学を担当したことをはじめ、法学の鵜澤總明、山岡萬之助、漢学の松平康國、牧野謙次郎、内田周平のほか、哲学者北昤吉も論理・心理学を講じている。また、平沼淑郎(平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった。大東文化学院は、本科3年課程と高等科3年課程からなり、全学生が国庫補助によって授業料が免除されることに加え、本科生には25〜35円、高等科生には50〜80円が支給され、教科書も支給されたことや、「大東文化学院学則第一章総則第一條」によれば、皇道及び国体に醇化した儒教、東洋文化について教育を行うことを第一の目的に謳っていることから、当時の私立専門学校の中ではやや特殊な性格を持った高等教育機関であった。九段校舎は、青桐という落葉高木によって囲まれていたのが特徴で、現在においても校章や同窓会組織名称(青桐会)に使われるなど、長らく大東文化のシンボルとなっている。初期の大東文化学院生らの功績は、膨大な語彙を収めた漢和辞典「大漢和辞典」(大修館書店)の編纂である。同書刊行以前には簡易的な辞書しか存在していなかったが、戯曲や小説を含む中国古典の原文の参照、出典・引用文の再調査など、それまでの辞書が踏襲していた誤記語釈を改め、正していった。高度な漢学知識を必要とした、その長きに渡る編纂過程の中で学院生は中心的存在として携わった。今なお世界最大の漢和辞典としての位置を占めている。学生数の増加や明治期に建造された木造校舎の老朽化により、1941年(昭和16年)に九段校舎から池袋校舎(東京都豊島区池袋三丁目1385番地)へ移転。剣道場や柔道場、弓道場などが整備された。1944年(昭和19年)3月26日に「大東文化学院専門学校」と改称。次第に太平洋戦争の学徒動員等で教育機能が失われていき、1945年(昭和20年)4月14日未明の空襲によって校舎が全焼し、数万冊の蔵書も焼失。その後は、当時の総長である酒井忠正の邸宅の一部を仮校舎として開放し、授業を継続した。終戦後、酒井邸は進駐軍により接収され、1946年(昭和21年)2月12日に青砥校舎(葛飾区青戸町四番地)へ移転、同18日には授業が再開した。この青砥校舎は元来、大日本機械の少年工訓練養成所と寄宿舎であり、学校が確保すべき立地環境が整えられているとはいえなかった。新制大学へ昇格するにあたり、「大東文化」が校名として相応しくないことや、校舎環境等の不備を理由として第一回審査では認可保留となった。さらに昇格に備えて、校舎隣接地に建設中であった図書館は襲来したカスリーン台風によって倒壊し、悪条件が重なった。制度上、大学への昇格が不可能であれば廃校にしなければならず、何としても昇格させなければならないとして学院内で協議を重ねた。そして、校名を「東京文政大学」とし、旧池袋校舎跡地で諸設備を整えることを条件に再審査を訴え、1949年(昭和24年)6月、新制大学への移行を認可された。1951年(昭和26年)、「文政大学」に改称。書道がいち早く重視され、1956年(昭和31年)には、教授・卒業生・在校生による「書道学会」の発足により、全国的な展覧会を実施。書道教育発展の基礎が創られた。その後、書道分野教授陣の充実が図られ、山﨑節堂、熊谷恒子、松井如流、青山杉雨、宇野雪村、上條信山らが名を連ねた。卒業生からの強い要望と働きかけにより、新制大学第一期生の卒業間際に大学名の変更許可が下り、1953年(昭和28年)に現在の「大東文化大学」として再出発した。しかし、施設不足等が問題となり、大学振興計画案がたてられた。計画案を前提として、1960年(昭和35年)10月に現在の場所(当時は東京都板橋区志村西台町)を購入し、同年11月から校舎新築工事に着手、第一期工事は1961年(昭和36年)8月に完成した。翌月には、池袋校舎を引き払い、現在地へと全面移転した。翌年の1962年(昭和37年)4月に、文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組し、大東文化大学第一高等学校が開校した。学生数の急増に対応するため、埼玉県東松山市の元国有林野にキャンパス建設を計画。1966年(昭和41年)7月から造成工事が昼夜問わず行われ、翌年3月末には新校舎が竣工。そして、すべての教養課程が東松山キャンパスに移行した。創立50周年記念事業で板橋キャンパスは記念館、研究室の整備が進められた。1969年(昭和44年)に「大東文化書道文化センター」開設。1988年(昭和63年)には「書道研究所」へ改組された。現在、日本で唯一の書道専門機関となっている。そして、2001年(平成13年)には日本初の書道学科が誕生した。1986年(昭和61年)には東松山キャンパスに図書館、記念講堂を含む施設が建設された。2003年(平成15年)、創設80周年を記念して新たなシンボルマークが制定、同年から2006年(平成18年)まで、板橋キャンパスが再開発され、環境に考慮した校舎や「交流の杜」と「思索の杜」という広場が整備された。2007年(平成19年)に東松山キャンパスは開設40周年を迎え、2008年(平成20年)に総合グラウンドの完成、2015年(平成27年)完工予定の3工期にわたる新たなキャンパス整備事業に着手した。学園年表学校設置法人(経営母体)と学校(高等教育機関)の変遷建造物所在地等年表大東文化学院・大東文化学院専門学校東京文政大学・文政大学・大東文化大学板橋で製造され「東」と「文」が刻印されている大東まんじゅうが生協(板橋・東松山)で販売中。シンボルマークが制定される前に用いられた字体を使用している。Google ストリートビューで、板橋・東松山キャンパスの風景を見ることができる。撮影時期は2011年(平成23年)10月で、2012年(平成24年)9月6日から提供開始。東松山キャンパスから約2.5kmの距離。旧東松山市立緑山小学校。地上4階、地下1階建て。平成18年(2006年)4月にリニューアル。1階にホール、3・4階に研修施設がある。敷地は約2,800坪で、ゼミ室やテニスコート、ラグビーコートなど多目的グラウンドがある。ゼミ合宿やクラブ活動で利用されている。8学部19学科●:博士課程前期・後期○:修士課程◎:専門職学位課程東松山キャンパスに隣接するこども動物自然公園内で運営している。大東文化大学図書館・英米文学科が所蔵するコレクションの中から、ピーター・ラビットシリーズで日本でも著名なビアトリクス・ポター関連のものを中心に、貴重な書籍、原画、直筆手紙などを一般公開している。2007年(平成19年)4月に開設した海外事務所。中国国内の協定大学との学術交流の促進を行う。日本人スタッフが駐在し、学生間の交流と情報交換の場にもなっている。それぞれの分野における学術研究や調査、高度な職業人育成のための講座などを展開している。1969年(昭和44年)設立の「大東文化書道文化センター」が前身。1988年(昭和63年)設立。日本で唯一書道の研究と芸術活動を行う研究機関で、書道・美術関連の貴重な資料や図書を収蔵している。書道テキストシリーズや1969年(昭和44年)創刊である月刊誌「大東書道」を刊行、2011年(平成23年)現在、大学で刊行される唯一の競書雑誌であり、500号刊行を記念する展覧会を開催した。「高校生のための書道講座」も開催している。1923年(大正12年)設立。大東文化大学の前身である大東文化協会の研究機関から度々の改組を経て、1961年(昭和36年)に大学附属の研究機関として発足。研究論文機関誌「東洋研究」を年4回発行している。当研究所は徳丸研究棟にある。歴代所長体育連合会に所属する部活動は2010年(平成22年)4月現在、23部存在している。後述の「スポーツ」の項目でも触れるが、数多くの部が大会などで実績を上げている。文化団体連合会に所属する部活動は2011年(平成23年)1月現在、22部存在している。サークル活動においては、2010年(平成22年)4月現在42存在している。学園祭は、「大東祭」とよばれ、毎年11月の上旬に3日間開催される。元々は板橋校舎で開催されていたが、板橋校舎の再開発によって平成14年(2002年)度より東松山校舎で行われていた。平成20年(2008年)度より再び板橋校舎で開催されるようになった。プロのミュージシャン1組のライブと、お笑い芸人のライブを観覧できる企画が人気。本校が主催で各種コンテストを開催している。1967年(昭和42年)4月に創部、1973年(昭和48年)の全日本大学駅伝対校選手権大会で優勝を飾る。関東学生陸上競技連盟所属。たすきの色はDAITOグリーン。「大東文化大学」の文字が黒糸で施されている。箱根駅伝には1968年(昭和43年)の第44回大会から43回連続出場し、計4回の総合優勝、全区間の区間賞を獲得(区間新記録は2区と7区以外で獲得)している。平成2年(1990年)には史上初の大学駅伝三冠達成(箱根駅伝、出雲駅伝、全日本大学駅伝優勝)をしている。特に5区と6区の山岳に強く、山の大東とも称されることもある。全日本大学駅伝では1973年(昭和48年)〜1976年(昭和51年)の4連覇と1984年(昭和59年)、1989年(平成元年)、1990年(平成2年)の7勝を挙げている。4連覇は早稲田大学と並ぶ大会連勝記録である。出雲駅伝は1990年(平成2年)の1勝である。参考までに全日本大学駅伝において3連覇をしながらも4連覇できなかったチームは日本体育大学(第1回-第3回,第18回-第20回)と駒澤大学(第38回-第40回)で、いかに4連覇が難しいかが伺える。2010年(平成22年)度創設の女子長距離部門は、全日本大学女子駅伝に第29回から出場し、第31回、第32回ともに準優勝を飾る。| style=" text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" || style=" text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" || style=" text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" || style=" text-align: left;vertical-align:top;float:left;font-size:small;" |大東文化大学同窓会他大学間協定卒業単位の一部を他の教育機関で取得することができる。2010年(平成22年)4月現在、全部で21ヶ国71大学と国際交流協定を結んでいる。詳しくは協定校を参照のこと。主な協定校付設校は、大学を頂点とする附属校ではなく、学校法人大東文化学園が設置する形態を取っている。
出典:wikipedia
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