中野会副会長射殺事件(なかのかいふくかいちょうしゃさつじけん)とは、平成14年(2002年)4月20日に、沖縄県那覇市で、指定暴力団・五代目山口組(組長は渡辺芳則)天野組(組長は天野洋志穂)組員が、指定暴力団・中野会(組長は中野太郎)副会長・弘田憲二を射殺した事件。平成8年(1996年)7月10日、中野会会長襲撃事件が勃発した。平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。平成11年(2000年)9月1日、中野会若頭射殺事件が発生した。平成14年(2002年)4月20日、指定暴力団・中野会(組長は中野太郎)副会長・弘田憲二は、那覇空港で、大阪府から沖縄県に到着した知人女性を迎えた。弘田憲二は、知人女性に、自分の自動車を運転してもらい、那覇市の市街地に向かった。同日午後2時20分ごろ、沖縄県那覇市山下町の国道331号で、指定暴力団・五代目山口組(組長は渡辺芳則)天野組(組長は天野洋志穂)組員が、オートバイに乗ったまま、弘田憲二の乗った車に向けて、ブラジル製38口径拳銃(全部で5発装填できた)で、1発発射した。弘田憲二は胸部を撃たれた。犯人は、北九州ナンバーの400ccのオートバイに乗っていた。弘田憲二の車を運転していた知人女性は、オートバイを振り切ろうと、車の間を縫って、他の車に接触しながら、ジグザグ走行した。犯人は、オートバイで、弘田憲二の車を追跡した。弘田憲二の車は、国道58号に入り、那覇市東町でタクシーと接触した。タクシー運転手が、タクシーを止めた。弘田憲二の知人女性は「道をあけて。どいて」と叫んだ。その後、弘田憲二の車は、那覇市繁華街の路地で追いつかれた。犯人は、弘田憲二の車に向けて、4発の銃弾を撃った。弘田憲二は、胸や腹などに2発の銃弾を受けた。弘田憲二の知人女性は無傷だった。犯人は、ブラジル製の拳銃を捨てて、逃走した。弘田憲二は病院に搬送された。同日午後3時25分、弘田憲二は、内臓損傷による失血死で、死亡した。銃弾1発が弘田憲二の身体を貫通していて、残り2発は弘田憲二の体内から摘出された。同日夜、沖縄県警は、150人の特別捜査本部を設置し、捜査を開始した。同年4月22日、弘田憲二の遺体が、故郷の高知市に戻った。同年4月23日、高知市で、弘田憲二の通夜が営まれた。中野太郎は、通夜に出席しなかった。同年4月24日、高知市で、弘田憲二の告別式が営まれた。約400人が参列した。犯人の乗っていたオートバイは、那覇市牧志の駐車場に捨てられてあった。オートバイの車体番号が削られていた。ナンバープレートは、平成14年(2003年)初めに福岡県で盗まれた物に付け替えられていた。同年7月29日、沖縄県警特別捜査本部は、殺人などの容疑で、犯人の逮捕状を取り、捜査員を、犯人である天野組組員の自宅のある長崎県長崎市に派遣した。同年7月30日午前7時9分、沖縄県警特別捜査本部は、長崎県長崎市の自宅で、犯人を、殺人と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕した。同日午後1時過ぎ、犯人は、那覇市に移送された。取り調べに対して、「分からない」と供述していた。同年7月31日、沖縄県警特別捜査本部は、犯人を送検した。その後、那覇地裁は犯人に懲役15年判決を言い渡した。
出典:wikipedia
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