マクドネル・ダグラス DC-10 () は、アメリカの航空機メーカーマクドネル・ダグラス社がアメリカン航空の要望を受けて開発したワイドボディの3発式ジェット旅客機である。主に中距離路線を想定した300席クラスの機体であり、3基のジェットエンジンは左右の主翼下に各1発、垂直尾翼基部に1発搭載している。ダグラス社がマクドネル社と合併する前の1966年に開発を開始したため、名前は「DC」のままである。1970年に初飛行、1971年8月に運航を開始し、1988年まで生産された。DC-10と同時期の開発、完成となった、代表的な3発式ジェット旅客機である米ロッキード社のロッキード L-1011 トライスターでは、S字ダクトのエアインテークを採用することで第2エンジンを胴体後端の低い位置に配置していた。それに対しDC-10ではダクトと一直線の配置で、垂直尾翼内(胴体上)に位置している。このエンジン配置のため、垂直尾翼の構造材は単純な箱型ではなく、吸気ダクトとジェットエンジンを収める円筒形の空間に沿って、縦通材が左右に分かれて通されることになった。鋭い形状の垂直尾翼は、エンジンによって方向舵面積が小さくなったため、効果を増すために2重ヒンジ式となっている。主翼は35度の後退角を有し、高揚力装置としてほぼ全翼幅にわたり前縁スラットがある。主翼だけでなく後部にもエンジンを持つ3発機であり、重心を適正化するため主翼は機体の中程よりやや後寄りにある。ダグラスでは1964年、アメリカ空軍に導入される輸送機であるC-5Aギャラクシーの開発及び生産に関しては、ボーイング、ロッキードとの受注合戦の末、受注することができなかった。当時、ダグラスではC-5Aの構想立案と並行して、当時生産していたDC-8を大幅に上回る大きさの大型旅客機を市場に送り込むべく研究を進めていた。これは、機体全長にわたって客室を2階建て構造とするというものであった。社内では当時並行して計画が進んでいた短距離向け中型ジェット機のDC-9に次いで開発計画が進められたことから、「DC-10」と呼ばれていた。一方、1966年にアメリカン航空がゼネラル・エレクトリック の工場を視察した際に、C-5A向けに開発されていたTF39型エンジンを見て、このエンジンが旅客機向けに改良されれば、250席クラスでアメリカ大陸の横断も可能な大型旅客機が製造できると考えた。アメリカン航空は同年3月25日に新しい双発の大型旅客機を開発するよう要求していた。これは、アドバンスド・ジャンボ・ツイン中距離旅客機と呼ばれるもので、以下のような仕様となっていた。さらに、後に全幅155フィート(47メートル)以内、全長は180フィート(55メートル)以内と改められた。こうした要望に対して、ダグラスでは「本当に発注するのであれば、要求された仕様の旅客機を1966年には開発に着手する」と公言した。このアメリカン航空からの要求は、ダグラスが構想していた大型旅客機の方向性と一致していた。当初、航空会社側では経済性という観点から、新しく開発される旅客機はエンジンを2基搭載する双発機であることを望んでいたものの、TF39型エンジン自体がまだ開発中であり、それを民間型に変更したCF6型エンジンの性能は、たとえ開発が順調だったとしても、性能や信頼性に不安があった。そこで、ダグラスではアメリカン航空に対して、どうしても新開発の旅客機はエンジンを3基搭載する3発機でなければならないという結論となったことを伝え、その優位性を説明した。アメリカン航空とユナイテッド航空がこれを認めたことから、大型ジェット旅客機の開発の目途がついた。これを受けて、マクドネル・ダグラス社(本節では、以下「ダグラス」とする)では1967年春に、アメリカ国内線向けの3発機と、国際線向けの4発機を開発することを発表した。ダグラスではもともと4発大型旅客機の構想があったことから、同じ機体を基本として航続距離の短い3発機と航続距離の長い4発機を開発することを考えており、コックピットはボーイング747と同様に2階部分にあり、胴体と主翼とエンジンは共通であった。しかし、この4発機構想に対しては、既にボーイング747が登場していたこともあり、どの航空会社の反応も芳しくなかった。このため、最終的に4発機構想はなくなったが、ダグラス社では同じ胴体で中距離型と長距離型を並行して開発することにこだわり続けた。1960年代の米航空会社と米航空機産業界の認識は、今後は超音速機 (SST) による大陸間と大陸横断路線が実現するのはほぼ間違いないというものであったため、すぐにも登場するSSTを補完する中距離路線用の機体が求められた。当初は双発機も考慮されたが、アメリカ国内内には高地も存在しており、1発停止時の安全性を考えた3発機となった。また、当時混雑していたラガーディア空港の狭いゲートに乗り入れられるように翼幅が制限された。このような事情から、航空各社の要求に合わせて開発されたDC-10とトライスターが似た機体となったのは当然の成り行きであった。ロッキードが1967年9月にライバル機であるL-1011トライスターの開発体制が整ったと発表したことで、ダグラス側の基本設計の遅れが明らかになった。ロッキードに少しでも追いつくべく、無理を重ねて同年11月にDC-10の開発計画を発表したが、この時点ではまだ基本設計が完了しておらず、詳細仕様を明らかにすることは出来なかった。その後、1968年2月19日にアメリカン航空からオプションを含めて50機を受注したが、これはトライスターよりも早かった。しかし、すぐ後にトライスターの受注も進み、同年4月3日にはトライスターのローンチ(生産プログラム開始)が発表された。この時点においても、DC-10の詳細設計はまだまとまっていなかったが、これ以上ローンチを遅らせるわけにいかないと考え、同年4月25日にユナイテッド航空からオプションを含めて60機受注したのを機に、ローンチを発表することになった。なおマクドネル・ダグラスは、DC-10の販売を阻害しないために、DC-8の生産を1972年を持って中止すると発表した。DC-10の基本設計は、できるだけ新技術の導入を避け、既存の工法と制御システムだけでまとめられている。このため、ローンチこそ遅れたものの、その後カリフォルニア州ロングビーチの工場で行われた製造は順調で、1970年7月にはロールアウト、同年8月29日に初飛行を行なった。飛行テストも順調に進み、1971年7月29日には、ローンチカスタマーであるアメリカン航空とユナイテッド航空へ、最初のDC-10の引渡しが行なわれ、その年のうちに就役した。本機と1972年に運航を開始したトライスターは、共にアメリカ国内の中距離路線向けに開発された機体であったため、ダンピングを含む販売競争が繰り広げられ、贈収賄事件まで起きた(ロッキード事件)。結局、この勝負は1981年にロッキードが旅客機部門から撤退し、トライスターの生産が中止されたことによって、DC-10が勝利を収めたが、DC-10の売上は軍用機(KC-10、60機)を入れて446機でありトライスターは250機生産されているので圧勝というわけでは無かった。そのためロッキードだけでなくマクドネル・ダグラスの経営も悪化し、後に同社がライバルのボーイングに吸収される遠因となった。また、熾烈な販売競争のため、後述するように貨物ドアの設計時の欠陥を放置したまま販売を優先させたため、繰り返し大事故を起し、多くの犠牲者を出した。長距離路線を担うと期待されていたSSTは1971年に開発計画が中止され、1976年には欧州製のコンコルドが就航していたが、この頃には超音速旅客機への期待は薄れており、B-747が国際線での長距離大量輸送を担う機体シリーズとして再認識され、米国内線で成功しつつあったDC-10も長距離型が開発されることになった。1973年からの石油危機で航空燃料の価格が上昇し世界的な不況も始まると、航空機業界は低燃費の機体を求めるようになった。1970年代末から1980年代にかけてヨーロッパのエアバス社は、双発・ワイドボディで経済性の高いA300に続き、操縦士2名乗務用のシステムなどの新技術を採用したA310を投入するなど、急成長し始めた。さらにボーイングも、DC-10に比べれば座席数は少ないものの、大西洋横断が可能な航続距離を持つ上、双発と2人乗務で経済性の高いボーイング767を導入した。技術的に旧式化した上に経済性でも劣ることとなったDC-10は、後継機のMD-11との食い合いを避けるために1989年に生産終了となった。DC-10の総生産機数は446機となった。アメリカン航空やユナイテッド航空、ヴァリグ・ブラジル航空やブリティッシュ・カレドニアン航空などの世界中の大手航空会社に導入され、日本では、日本航空が-40型を、日本エアシステムとミネベア航空が-30型を導入した。DC-10の胴体は丸くずんぐりとしており、ストレートダクト故の鋭い垂直尾翼と合わせてシャチのようにも見える。従来工法による組み立てとなったため、胴体外板や動翼にホット・ボンディング(熱間接着)は一切使用されず、リベット締結となっている。胴体自体は旅客機では一般的なセミモノコック構造であるが、キャビン(客室)の空間を広げるためにフレームの厚さを11.2センチメートルにまで薄くした。なお、重量増加への対応を目的として、胴体下中央部にも主脚が設置されている。客室窓の寸法は高さ41センチx幅28センチで、51センチ間隔で並んでいる。客室扉は電動で上方に格納されるものが採用された。。主翼の幅はロッキード・トライスターとほぼ同じで、後退角も同じ35度となっているが、翼面積は11パーセントほどDC-10の方が大きい。主翼の高揚力装置は前縁にスラットを、後縁にダブルスロッテッドフラップを装備する。水平尾翼(スタビライザー)は昇降舵が後端に装備される旅客機では一般的な方式である。同じ3発機であるライバル機のトライスターと比較して最も目立つ相違点は、後部に装着された第2エンジンの配置である。これは、高バイパス比ターボファンエンジンへの吸気を直線的に導くためのもので、それ自体はごく常識的な発想である。しかし、そのために吸気ダクト部分とエンジンを垂直尾翼で串刺しにしたような配置は、当時の旅客機における常識を打ち破るものであった。反面、垂直尾翼に設置される方向舵の面積が不足し、二重ヒンジ構造とすることでこれを補うことになった。また、胴体より高い位置にエンジンが配置されることになり、整備には専用の足場を用意する必要が生じるなど、保守性の悪化を招いた。なお、エンジン自体は垂直尾翼後方から伸びるパイロンから吊り下げる方式となっており、主翼に設置された第1・第3エンジンと同じ装架方式となっているため、3基のエンジンは全て互換性を有している。このエンジンレイアウトが、当機の改良版であるMD-11に次ぐ事故発生機となる元凶となったが、第2エンジンが第1・第3エンジンより上にある仕様故に、エンジンが全基無事なら第2エンジンの推力で第1・第3エンジンが引き起こす機首上げ状態を抑制しているお陰で、この特性を利用して3つのエンジンの推力を上手くコントロールさえできれば、ユナイテッド航空232便不時着事故が示すように上下左右への機体コントロールが可能である。但し、理論上可能というだけであって、エンジンのみの飛行は当機でも難しいことに変わりはない。既存の技術を最大限に活用するという開発方針の結果、操縦システムには特に目新しいものはない。これはコックピットの装備品にも及び、DC-8やDC-9と同じ大振りな部品が使用されることもあった。これらの一部は、後継機のMD-11にも一部継承されることとなった。その中で、フラップの下げ角度は段階的にではなく、1度刻みに設定できる「Dial a Flap」システムが採用されていた。これは、離陸時には10度から25度まで、着陸時には35度から50度までをフレキシブルに設定できる仕組みで、当時としては先進的であった。計器着陸装置 (ILS) はカテゴリーII (CAT II) に対応している。なお、DC-10のコックピットは、開発中に座席を増加させるべく設計変更が行なわれ、開発当初と比較すると前後方向の余裕がなくなった。この影響で、操縦席位置の前後方向の調節量に制約が生じたほか、航空機関士用の操作パネルが操縦席の窓(ウインドシールド)のうち1枚を塞ぐ状態になっている。客室(キャビン)は幅5.72メートル、高さ2.41メートル、長さ41.45メートルとなっている。登場当時の標準的な座席配置は2列-5列-2列の配置で、荷物棚(オーバーヘッド・ストウェッジ)は窓側座席の上にしかない。中央列上にもストウェッジを設けた航空会社もある。ギャレーはキャビン設置と床下設置が選択可能であるが、床下ギャレーは単に床下に移動しただけで、ドアと窓もない。このため、食材の積み下ろしにはキャビンを通す必要がある。基本となった-10型から航続距離を延長し、センターメインギアを追加した-30型や-40型、操縦システムを後継のMD-11と同じものに近代化改修したMD-10が作られた。また、旅客型・貨物型の他に、軍用機として空中給油機KC-10がある。DC-10は、初期には設計ミスによる事故や、後期には整備や運航の不備による事故が発生した。またエンジン1基が尾部に位置していることから、エンジントラブル等でタービンブレードが飛散した場合、尾部に集中している油圧配管の破断に結びつくという設計上の問題もありユナイテッド航空232便不時着事故の原因となった。1974年のトルコ航空DC-10パリ墜落事故では、貨物室のドアが完全に閉まらない状態で離陸したために、上昇に伴い与圧された機内の空気がそのドアを吹き飛ばし、操縦不能に陥り高速で地上に激突した。原因は設計上の不備から貨物室のドアが半ドアになりやすく、しかもそのような状態でも電気回路が完全に閉まっていると誤表示される欠陥があった。この欠陥は開発段階でダグラス社内の与圧試験で発覚していたにもかかわらず、重要視されずにいた。実際、この事故の2年前1972年6月12日にはデトロイト国際空港を離陸して上昇中だったアメリカン航空のDC-10の貨物室のドアが突然吹き飛んだために、客室の床が陥没し、床に施設されていた油圧系統が損傷し、操縦困難になったというインシデント(アメリカン航空96便貨物ドア破損事故)があった。この時は機長の操縦技術で何とか緊急着陸に成功していたが、そのインシデントの後もダグラスは小手先の改善に終始し、根本的な欠陥はそのまま無視していた。しかも、事故機は書類上は改善済としていたにもかかわらず、実際には未改修であったことが判明、その係争中に前述の与圧試験結果も発覚し、ダグラスは安全性よりも営業上の利益優先の体質だとして強く批判された。1979年5月25日にはアメリカン航空のロサンゼルス行き191便がシカゴのオヘア空港を離陸した直後に墜落する事故を起こした。墜落した機体は、マクドネル・ダグラス社の予想もしない仕方で整備が行なわれていた。正しいオーバーホール手順では、エンジンを外してからパイロンを取り外さなければならない。だがアメリカン航空の整備士たちは、効率向上を狙ってフォークリフトを使ってパイロンにエンジンが付いたまま外したのでパイロンに亀裂が入った。この損傷のため、飛行中に左翼の第1エンジンがパイロンもろとも脱落し、エンジンから供給されていた油圧が抜けてしまった。そのため、翼前縁の高揚力装置が左側だけ格納されてしまい左主翼だけが失速、高度600フィートから左に急速に沈下し、回復不能の姿勢に陥り、離陸から31秒後に墜落し、死者273人を出す大惨事となった(アメリカン航空191便墜落事故)。事故直後には原因が整備不良とはわからず、機体欠陥ではないかと推測されたため(前述した貨物室ドアの欠陥という「前科」があったことも影響している)、アメリカ連邦航空局はDC-10の耐空証明(自動車の車検に相当)の効力を一時停止したため、他の国の航空当局も追随し全世界のDC-10が運航禁止になる影響が生じた。7月11日に解除されたが、この事故はDC-10が商業的に行き詰まる契機となり、DC-10のストレッチタイプであるDC-10-50の開発も中止された。日本航空は1976年から-40型を導入し、南回りヨーロッパ線やアンカレジ経由ニューヨーク線、東南アジア路線の他、センターギアを装備せず国内幹線に使用した。また、そのサイズと航続距離から皇族、政府関係者の外遊の際の特別機と続行機(同行するマスコミや随行員機材兼トラブル発生時の時の代行機として2機体制をとっていた)としてもよく利用された。日本航空の国内線からDC-10が退いた後も一部残ったDC-10-40Dは、その後センターギアや第3のINSを装備するなどして、国際線に投入された。日本航空の子会社のJALウェイズや日本アジア航空でも一時期使用されたが、2005年10月31日をもって全機退役した。当初退役は2006年3月31日の予定だったが、日中航空交渉が不調に終わったことによって余剰機材が発生した為、早められた。この退役により日本の航空会社の保有機から3発エンジン旅客機が完全に姿を消した。なお、日本航空のDC-10の一部はアエロフロート・ロシア航空へ売却され、貨物機として日本へ飛来していたこともあった。現在、アエロフロートカーゴの機体はカザフスタンのデタ・エアカーゴに売却され、活躍している。日本エアシステムも国際線進出の際の主力機として1988年より-30型を2機導入し、シンガポールやホノルル、ソウル線に投入され、ホノルル線撤収後はA300からのシップチェンジで香港線の一部などに使用した他、一時期は国内幹線(東京 - 福岡、東京 - 札幌)でも運航し、子会社のハーレクィンエアが国際線チャーターに使用したが、長距離国際線への就航が行われなかったこともあり2000年3月をもって全機退役した。日本エアシステムは当時、アメリカ西海岸やヨーロッパ線などの長距離国際線を開設しその専用機として投入する予定があったため、タイ国際航空とフィンランド航空仕様機と同じく床下にサブ燃料タンクを備え推力強化型エンジンを搭載した超長距離型の-30ERを導入。また、JA8550とJA8551はDC-10旅客型仕様の最終生産機となった。なお2号機のJA8551は、導入後も路線就航のめどが立たなかったことから1年弱の間大韓航空にリースされた。日本エアシステムのDC10-30は、2機ともアメリカ合衆国のノースウエスト航空に売却された。日本の電器部品メーカーミネベアの子会社のミネベア航空も、それまで使用していたボーイング707に変わる主力貨物・従業員輸送機材として元サベナ・ベルギー航空(機体記号 : OO-SLB、製造番号 : 47907/157)の貨客混載型の-30CF型(機体記号 : N10MB)を、1995年から成田国際空港を拠点として運航していたが、2002年の同社の清算に伴い運航を終了した。日本で最後まで残ると思われていたが、結局、先に引退を表明した日本航空の機材が最後に残った(現 : アヴィエント航空 機体記号 : Z-ARL)。なおミネベア航空はアメリカ籍の企業であった。大韓航空、タイ国際航空、エア・サイアム、ガルーダ・インドネシア航空、シンガポール航空、フィリピン航空、ビーマン・バングラデシュ航空、アリタリア航空、UTAフランス航空、AOMフランス航空、KLMオランダ航空、サベナ・ベルギー航空、ルフトハンザドイツ航空、スイス航空、スカンジナビア航空、フィンランド航空、ノースウエスト航空、アメリカン航空、コンチネンタル・ミクロネシア航空、カナダ太平洋航空、ヴァリグ・ブラジル航空、ニュージーランド航空など多数の外国航空会社が日本乗り入れ機材として使用した。また、ATA航空やハワイアン航空、ユナイテッド航空やコンチネンタル航空など複数のアメリカの航空会社がアメリカ軍チャーターなどで使用した。2008年6月現在ではDC-10を使用して定期便を唯一運航していたノースウエスト航空のDC-10もA330-200、747-400に置き換えられ、旅客便ではオムニエアインターナショナルのチャーター機のみとなった。貨物便でもフェデックスとアエロフロートの一部の便で使用されるのみとなった。
出典:wikipedia
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