LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

三橋美智也

三橋 美智也(みはし みちや)、本名・北沢 美智也、1930年11月10日 - 1996年1月8日)は北海道上磯郡上磯町峨朗(現・北斗市)生まれ、函館市育ちの演歌歌手。愛称「ミッチー」。明治大学文学部中退。父は三橋が4歳の誕生日前日に落盤事故で亡くなり、翌年に母が再婚。この夫婦の間には3人の弟と1人の妹が出来る。一方の三橋は5歳の頃から舞台を踏み、民謡歌手だった母に幼い頃から鍛えられ、小学校の入学と同時に叔父から追分を習い、9歳の時に全道民謡コンクールで優勝。この頃に海で右耳をウツボに突っつかれ難聴になる。その後は巡業に参加などしつつ家計を支え、12歳の時にコロムビアで民謡を吹き込む。小学校卒業後は国鉄・木古内保線区に日雇作業員として就職する傍ら、津軽三味線を習い初め、白川軍八郎一座とともに修行を続ける。16歳の時には三浦為七郎民謡一座、陸奥乃家演芸団に参加。19歳の時に「歌だけではなく違う世界も知りたい」と三味線一本を持って上京し、榎本健一・古川ロッパの家に弟子入り志願で出向いた事もあった。その後は横浜市の綱島温泉「東京園」で民謡教室のアルバイトをする傍ら、ボイラーマンの仕事もしていた。人一倍真面目に働き、その勤勉さを風呂屋の主人に見込まれ、明治大学付属中野高等学校定時制に通うことを許された。高校入学と同時に「東京園」で世話になった北沢家と養子縁組をしたほか、NHK「邦楽オーディション」に合格。高校では普通の生徒よりもずっと年上で、彼らから「おとっさん」と呼ばれ親しまれた。1953年、弟子の吹き込みに行った際、レッスンの声がディレクターの耳にとまり、キングレコードの専属歌手として契約。1954年に「酒の苦さよ」でデビュー。1955年に「おんな船頭唄」が大ヒットし、たちまち人気歌手の仲間入りを果たす。その後も昭和30年代には「あの娘が泣いてる波止場」「リンゴ村から」「哀愁列車」「母恋吹雪」「おさらば東京」「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」「星屑の町」などの歌謡曲、「北海盆唄」「花笠音頭」「ソーラン節」「津軽じょんから節」「炭鉱節」「黒田節」などの民謡がミリオンセラーとなり、「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの人気を得る。キングの全盛期を春日八郎・若原一郎と共に築き上げ、「キング三羽烏」「三人男」と呼ばれる。1974年からはカール(明治製菓)のコマーシャルソングを担当し、1993年まで20年間にわたって使われた。1976年5月には帝国劇場で藤本義一脚本の舞台「津軽三味線ながれぶし」に出演し、山田五十鈴と共演。連日超満員の記録を作った。同年8月には「日本各地に残る民謡こそ日本人の歌の故郷」という想いから、自ら家元になって「民謡三橋流」を創設。門下に千昌夫・細川たかし・石川さゆりらがいる。1978年には「電撃わいどウルトラ放送局」(ラジオ関東)のパーソナリティに抜擢され、自身初めてのDJに挑戦。「ミッチー」の愛称で若者にも人気を得て、周囲の度肝を抜いた。番組中には当時の流行語「フィーバー」を使い、1980年に出演したカップ麺「激めん」(東洋水産)のCMでは、流行語の元になった映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の主演であるジョン・トラボルタ風のスーツ姿で「激れ!激れ!」と連呼。1979年にはゴールデン・アロー賞特別賞も受賞。1982年11月には上越新幹線開通記念フェスティバルで新潟県民会館・新潟市体育館に両日出演し、その模様が新潟総合テレビ・新潟放送で生中継された。1983年には日本の歌手として史上初めてレコードのプレス枚数が1億枚を突破する記録を打ち立てた。生涯のレコード売上は1億600万枚であるが、オリコン発足前のため、売上枚数などの正確な記録は残っていない。そのため、オリコン記録では、CDの売り上げが日本一のアーティストは、総売り上げが約8148万枚のB'zである(2015年現在)。ブラジル(1979年)・香港(1981年)・韓国(1985年)でも公演を行っており、ブラジルでは最高勲章を受賞。1985年にはハワイ「NBCコンサートホール」で公演を行った後、ディズニーランド創立30周年記念公演も行った。1988年には親交が深かった春日・村田英雄と三人の会を結成し、演歌界の活性化を図った。一方、私生活では一子をもうけた糟糠の妻・喜久子と1966年に離婚(この出来事がきっかけで『NHK紅白歌合戦』に落選したと言われている)。その後に再婚し、二人の子宝にも恵まれるも、晩年は啓子夫人からの家庭内暴力(馬乗りで殴られる等)や財産乗っ取り(妻と娘と娘婿が共謀して、ゴルフ場の高級会員権を三橋に無断で売却したほか、三橋が加入していた保険を解約して給付金を全て使ってしまう等)に苦しみ、1994年からは東京都世田谷区南烏山の自宅を出て、大阪の二條弘子マネージャー宅で暮らしていた(妻との離婚については亡くなる2年前より民事裁判で争われ、裁判の結果、三橋が倒れる直前に離婚が成立し、翌年春にはマネージャーと再々婚の予定だったが、三橋が突然倒れ、死去したため再々婚は果たせなかった)。また、1992年に名義貸しをしていた熱海のホテル「サン三橋」が倒産し、数億円の負債を抱えたこともあるなど、輝かしい功績とは相反するものがあった。生前は熱狂的な読売ジャイアンツファンで、王貞治と親交があった。私生活での心労が重なったこともあって持病の糖尿病が悪化し、晩年は声の衰えを隠せず、また薬の副作用等により脱毛が酷く、それを隠すためにカツラも使っており、かつての恰幅のよさも無くなっていた。このことについて、三橋と親交が深かった立川談志は「もっと年齢相応に(キーを下げたり)しても良かったのでは」と著書に記している。1995年10月26日午後18時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町の「タラオカントリークラブ」での帰路、走行中のタクシー車内で心臓発作を起こし、西成区岸里の「山本第一病院」に入院。その後は阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院に転院したが、1996年1月8日午前11時30分、意識が戻ることなく多臓器不全のため亡くなった。享年65。2日後の1月10日に通夜が、翌1月11日に密葬・告別式が西成区玉出の「光福寺」で取り行われた。法名は妙聲院釋智誠大居士(みょうしょういんしゃくちじょうだいこじ)。その後、2月5日には青山葬儀所で音楽葬が行われ、約2000人が列席。献唱曲は自身の大ヒット曲である「古城」だった。現在は墓所が2つあり、小平霊園と東大阪市の石切霊園。NHK紅白歌合戦には1956年に初出場。以後、連続出場を重ねたが、1965年の第16回紅白をもって連続出場が途切れる。翌1966年紅白落選の理由は、当時の妻との離婚が影響したといわれている。その後、1974年の第25回紅白で紅白25回記念の「人気歌手枠」で春日八郎とともに再出場を果たす。以後、1977年まで4年連続で出場を果たした。通算14回。初出場から10回連続出場までの間では、美空ひばりや島倉千代子、江利チエミといった女性人気歌手と対戦し、トリも4度飾っている。11回目出場以後では、山口百恵や森昌子など、若手人気歌手と対戦している。! | 年度/放送回! | 回! | 曲目! | 出演順! | 対戦相手! | 備考1956年(昭和31年)/第7回初哀愁列車09/25江利チエミ(1)1957年(昭和32年)/第8回2リンゴ花咲く故郷へ25/25美空ひばり(1)トリ(1)1958年(昭和33年)/第9回3おさらば東京25/25美空ひばり(2)トリ(2)1959年(昭和34年)/第10回4古城13/25島倉千代子(1)1960年(昭和35年)/第11回5達者でナ27/27島倉千代子(2)大トリ(3)1961年(昭和36年)/第12回6石狩川悲歌13/25江利チエミ(2)1962年(昭和37年)/第13回7星屑の町25/25島倉千代子(3)大トリ(4)1963年(昭和38年)/第14回8流れ星だよ13/25島倉千代子(4)1964年(昭和39年)/第15回9また来るよ14/25江利チエミ(3)1965年(昭和40年)/第16回10二本松少年隊12/25島倉千代子(5)1974年(昭和49年)/第25回11哀愁列車(2回目)17/25小坂明子1975年(昭和50年)/第26回12津軽じょんから節14/24山口百恵1976年(昭和51年)/第27回13津軽甚句13/24森昌子1977年(昭和52年)/第28回14風の街10/24南沙織(注意点)以下の2曲は、三人の会の作品。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。