サッチャー女男爵マーガレット・ヒルダ・サッチャー( LG, OM, PC, FRS、1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、一代貴族。イギリス保守党初の女性党首(在任: 1975年 - 1990年)、イギリス初の女性首相(在任: 1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女()」の異名を取ったことで知られる。リンカンシャー州グランサムで、食糧雑貨商の家に生まれる。父アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」とたびたび口にした。オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業する。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究したことがある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義(ネオ・リベラリズム/Neoliberalism)的な経済改革(いわゆるサッチャリズム)の源流になった。1950年、保守党から下院議員選挙に立候補するが、落選する。翌1951年に10歳年上のと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得する。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは、学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し「ミルク泥棒」(Margaret Thatcher, Milk Snatcher)と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念した。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナヤ・ズヴェズダ(「赤い星」:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した。この「鉄の女」の呼び名は彼女の強硬な反共主義を揶揄するためのものだったが、皮肉にもサッチャー自身が気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞(愛称)として定着した。1979年の選挙では、20世紀以後に継続されてきた、高福祉の社会保障政策、社会保障支出の拡大継続と、経済の規制緩和、水道、電気、ガス、通信、鉄道、航空の民営化によるイギリス経済の競争力強化を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し、実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった。選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施した。こうした経済に対する思想は新自由主義あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。エドワード・ヒース内閣での教育大臣だった時代、サッチャーは中道政策に反対しなかった。しかし1979年に首相になる頃には、タカ派のマネタリズム支持者になっていた。27%を記録したインフレ率は非効率な国営産業や混合経済の失敗が原因なのだと流言することに成功した。そのインフレ率は第四次中東戦争とその後のイラン革命などで原油価格が高騰したことと大きく関係していたにもかかわらずである。1982年に、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発する。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪を入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの、2ヶ月の戦闘の結果、6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。フォークランド紛争をきっかけに、保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。1984年10月12日、保守党党大会開催中のブライトンにて、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。1986年のコモンウェルスゲームズ大会では、サッチャー政権の南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議した32ヶ国が大会をボイコットした。イギリス連邦に属する国や地域がアパルトヘイト廃止のために経済制裁を支持していたが、サッチャー政権はイギリスの貿易と経済への影響を考え、経済制裁には反対していた。サッチャーは若年期にナチス・ドイツとの激しい戦争を経験しており、そのためドイツに対して強い警戒心を持ち続けていた。東西ドイツ再統一にあたってはフランスのミッテランと共に強い懸念を持っており、特にサッチャーは統一が実現すれば英雄となるコールが第2のヒトラーとなり、第二次大戦前までのドイツの領土すべてを要求してくるという考えに囚われていた。また、「コールはドイツが分割された理由を分かっていない」と憤り、ベルリンの壁崩壊の翌日、連邦議会で西ドイツの議員たちが自発的にドイツ国歌を歌ったという報告を聞いて戦慄したという。保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から、3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税 (community charge) の導入を提唱して国民の強い反発を受け、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したため、財界からもイギリスが欧州統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、1990年の党首選では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15%以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、結局11月22日に首相および保守党党首を辞任する意向を表明した。1992年からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。2008年に長女キャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の『』紙が詳報を掲載した。それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている。一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相時代の記憶ははっきりしていたと証言している。2012年12月21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院し手術を受けた。2013年4月8日、脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された。。サッチャーの死去が報道されると、イギリス国内からはキャメロン首相やブレア元首相から、また国外からアメリカのオバマ大統領、ドイツのメルケル首相、日本の安倍晋三首相といった現職の指導者らが相次いで深い追悼の意を表明した。とりわけ首相在任中に「鉄の女」の異名をとったことから、メルケル首相のほかオーストラリアのギラード首相、韓国の朴槿恵大統領など各国の女性指導者がサッチャーの業績を讃えるコメントを出している。ほかに彼女と同時代の指導者である旧ソ連のゴルバチョフ元大統領、日本の中曽根康弘元首相などからも深い追悼の意が寄せられた。また中国外務省も、定例記者会見で「香港返還に大きな役割を果たした」と哀悼の意を示した。しかしサッチャー政権期の1982年にフォークランド紛争をイギリスと戦い敗北したアルゼンチンのキルチネル大統領は、サッチャー死去に関して沈黙している。なおフォークランド諸島の住民はサッチャーの死去を深く悲しんでいる。イギリス政府はサッチャーの葬儀を4月17日にセントポール寺院で、エリザベス女王とエディンバラ公の参列を賜る準国葬にすると発表した。サッチャーの棺は霊柩車でウエストミンスター宮殿からトラファルガー広場のあるホワイトホール地域を通過しセント・クレメント・デインズ教会で大砲馬車に乗り換え、セントポール寺院に到る。首相経験者の葬儀に国王(エリザベス女王)が参列するのは、1965年に亡くなったウィンストン・チャーチル以来48年ぶりであった。その一方で、イギリス各地では首相在任中のいわゆる「サッチャリズム」政策によって圧迫された、労働者階級や元教員の間で「彼女の死を祝賀するパーティ」が見られた。さらにネット上には「(サッチャーによって)地獄が民営化されようとしています」「(サッチャーが)地獄に落ちてわずか20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった」などと、首相在任時期の小さな政府政策と絡めて批判するコラージュが登場した。また「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」(映画『オズの魔法使』の挿入歌)が、英国音楽ダウンロードチャートの1位となったまた死者にささげる言葉「RIP」を「鉄の女」の異名にかけて「安らかに朽ちよ(Rust In Peace)」として批判する者もいた。4月16日午後にサッチャーの棺はウェストミンスター宮殿に運ばれた。宮殿内の教会に棺は安置され、近親者による葬儀が執り行われた。翌4月17日にサッチャーの棺は宮殿からホワイトホールを経てクレメントディーン教会まで運ばれ、そこで大砲馬車に乗り換えられた。ユニオンジャックで包まれたサッチャーの棺の上には、2人の子からの花が置かれていた。棺の後には海軍軍楽隊が音楽を演奏しながら追従した。サッチャーの家族や歴代首相など要人らが待つセントポール寺院前で、儀仗兵に担がれて棺は内部に運ばれ安置されると、『女王陛下万歳』が流れる中、エリザベス女王とエディンバラ公を乗せた御料車が到着した。女王夫妻が司祭の先導で聖堂内に姿を現すと、出席者から拍手が起きた。そのあとロンドン大司教に司式による葬儀が行われた。多くのロンドン市民が沿道に詰めかけ、「鉄の女」の最後の別れを見送る一方で、サッチャーの葬儀のために我々の血税を使うなというデモもロンドンで起きた。夫のデニス・サッチャーとの間に娘キャロル、息子マークの双子の子供がいる。デニス・サッチャーは、1991年に準男爵(Baronet)になり、サーと呼ばれる。マーガレットの政治活動についても助言を行い、妻は夫の助言に素直に従っていたが、あくまで家庭内での夫婦関係に留め、これを公にせず、賢い妻に対して愚かな夫であるように演じていたと言われる。1982年、長男のマークはダカール・ラリーに出場中に一時行方不明となり、世界を巻き込んだ大騒動になる。その際、サッチャーは「息子が見つからなかったらレースを中止にさせる」と発言したと言われる。最終的にマークは無事に発見・保護され、ラリーは世界的に認知された。2004年8月には当時居住していた南アフリカ共和国で、「赤道ギニアのクーデターを企んでいた傭兵へ資金援助を行った」容疑で逮捕されたが、すぐに200万ランド(約4千万円)の保釈金により保釈され、イギリスへの帰国を認められた。2005年1月に南アフリカ政府と司法取引をし、「資金提供は認めるが、クーデターの意図は知らなかった」ということで、懲役4年(執行猶予付き)と300万ランド(約6千万円)の罰金を支払った。また娘のキャロルも、コンゴ系フランス人テニス選手のジョー=ウィルフリード・ツォンガに対して差別的発言を行い問題となった。サッチャーが欧州懐疑論の立場をとっていたことは通説であるが、サッチャーは1975年のEEC離脱を問う国民投票では残留を主張した。サッチャー政権下においても、1986年にEECを強くするための単一欧州議定書に署名した。ユーロ加盟の前段階となるERM加入には強く反対の立場であったことは事実である。「事がうまく運んだとしてもERM加入はプラスにはならない。事がうまく運ばなかった場合はERM加入は状況を悪化させるだろう」とサッチャーは考えていた。アラン・ウォルターズ(サッチャーの経済アドバイザー)も、ERM加入はスターリング・ポンドへの投機攻撃の圧力を強くするだろうと懸念していた。ERMは為替レートの安定どころか不安定化の要素だとし、ERMに加入すべきではないとウォルターズは考えていた。とはいえ、財務大臣ナイジェル・ローソンとその後任ジョン・メージャーらの働きかけに押され、英国をERMに加入させたことも事実である。ローソンは1987年頃から為替レートの安定化政策を主張し始めた。1988年にはサッチャーとローソンの関係は悪くなっていた。1980年代後半からの拡張型金融政策によって英国経済が成長していた状況下、インフレ抑制を好むサッチャーと安定な為替レートを好むローソンの対立が次第に顕在化し始めた。それでもEMUに対するサッチャーとローソンの見解は一致していた。両者ともにEMUには反対していた。その年の中頃にジェフリー・ハウが閣内不一致となるスピーチをするようになった。ハウはERMに関してローソンとほぼ同じ意見であった。1989年にはレオン・ブリタンがERM加入のメリットをサッチャーに力説した。英国がERMに加入することでERMの発展を英国主導で行えるとブリタンは主張した。その年の5月にはウォルターズが公式にサッチャーの助言役として復帰、これによってサッチャーとローソンとの間の確執は決定的になった。ローソンはドイツマルクとの為替レートを見ながらイングランド銀行の利上げを主張、一方のウォルターズは景気を悪化させるとして利上げには反対だった。サッチャーは内閣改造により、ハウを下院院内総務にし、ローソンを留任させた。だが結局ローソンは辞任し、ウォルターズも辞任することになる。サッチャーは後任人事としてジョン・メージャーが適任と考えた。いつかはメージャーがサッチャーの後任を務めるだろうとサッチャーは考えていた。メージャーに経験を積ませたいとサッチャーは考え、メージャーを財務大臣にした。だがメージャーはERM参加に熱心になり始めた。1990年には、ERM参加のメリットは為替レートの安定だけでなく金利を下げることでもあるとメージャーは主張した。さらには(ローソンらとの対立で顕在化した保守党内の内部抗争について)ERM参加によって保守党が団結でき、(それが経済にもよい影響を与え)次回の総選挙に勝てるのだともメージャーは主張した。最終的にサッチャーはメージャーらに譲歩し、変動幅formula_1(%)でのERM参加を検討した。その年に英国はERMに加入した。
出典:wikipedia
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