


斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。現在は読売ジャイアンツの二軍監督を務める。サイドスローの投球フォームで1989年から1990年代中盤まで巨人投手陣を支え、2年連続20勝、11連続完投勝利を記録し、沢村賞を3回受賞した「平成の大エース」。選手時代の愛称は同音姓の芸能人・斉藤清六にちなんでセイロク。東京都足立区で生まれ、埼玉県川口市で育った。野球を始めたきっかけは小学校5年生の時に母親が地元のリトルリーグの選手募集に無断で応募したことで、実際に当人の意思は「僕はやりたくなかった」と入団テストを嫌々受けたが、「やるときは一生懸命やる」と手抜きできない性格で、遠投で地肩の強さを発揮し、走力テストもまずまずの成績を残して合格し、本格的に野球に打ち込むことになったという。埼玉県の川口市立北中学校、市立川口高校入学後に頭角を表し、内山清監督の指導のもと全国高等学校野球選手権埼玉大会では決勝戦に進出するも熊谷高校に敗れ全国選手権出場は果たせなかった。1982年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受け、契約金4000万円、年俸260万円(金額は推定)で合意して入団。打撃、守備センスの良さから、野手転向を勧める声もあったが、当時の藤田元司監督のアドバイス(投球時の腰回転がサイドスロー向きだったという)もあり、サイドスローへ転向。1985年にはローテーションに定着して12勝を挙げ、最終戦まで最優秀防御率のタイトルを争う活躍を見せる(最終戦で8回1/3を自責点0に抑えれば1位に躍り出るという状況であったが、シーズン本塁打日本記録のかかっていたランディ・バースに全打席出塁を許すなど5回1/3を4自責点に終わった)。それ以降は不遇な時期もあった。王貞治監督時代は一軍と二軍を往復し、敗戦処理が役割だった時期もある。その間、1984年8月28日の横浜大洋ホエールズ戦で救援登板し、遠藤一彦から自らサヨナラ適時打を打った。1989年、巨人の監督に復帰した藤田から再び指導を受ける。ノミの心臓で気が弱いという評価などから、王は「斎藤は先発には向かない。」などとしていたが、藤田は斎藤に対し「お前は気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」、「(斎藤が「マウンドに上がるのが怖いです」と言った際)投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」などと諭し先発で起用し続けた事などにより才能が開花。横手からの140km/h超の威力あるストレート、鋭いカーブ(スライダーという評論家もいるが本人はカーブと言っている)とシンカーを武器に、3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録を達成(#11試合連続完投勝利参照)。8月12日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)では9回1死まで被安打0の快投。あと2人でノーヒットノーラン達成という状況にまで迫ったが、音重鎮にチーム初安打を許したのを機に崩れ、最後は落合博満に逆転サヨナラ3点本塁打を許した。だが、それでも最終的にはシーズン20勝をマークし、西本聖(中日)と最多勝のタイトルを分け合った。1990年も8試合連続完投勝利を挙げるなど、20勝を挙げ、巨人だけでなく「平成の大エース」「球界のエース」「ミスター完投」と呼ばれるまでに成長した。この年の斎藤を最後に2年連続20勝投手は現れていない。もっとも、シーズン最後の3試合は2勝1敗で2年連続20勝を果たすも、19イニングで自責点16と打ち込まれ、2年連続防御率1点台は逃す。その不調は日本シリーズでも露呈し、チームのシリーズ敗退の一因となった。翌1991年は前年終盤からの不調が続き、勝ち星が半減し、勝率も5割に落とした。1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。1993年は故障がちで成績を落としたが、1994年から1996年は3年連続して開幕戦完封勝利を収める偉業を達成。桑田真澄、槙原寛己とともに先発「三本柱」と呼ばれ、その中でも抜きん出た成績を残し沢村賞3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回など数々のタイトルを獲得した。そのうち、1994年には、10.8決戦に登板し、勝利投手となった。この試合は連続完投勝利記録の1試合目であり、後年出版された『日本野球25人 私のベストゲーム』で斎藤自身が「最も記憶に残る試合」として選んだものである(この節の出典は、特記がない限り同書にもとづく)。斎藤は、1989年5月7日の広島戦で先発登板して1回裏に被安打3、与四死球2、3失点で、2回表に回った打順で代打を送られて降板した。翌8日付朝日新聞は、「汗もかかずに降板」と書き立てた。この直後、横浜スタジアムでの5月10日の大洋戦の先発を言い渡された。いわゆる「瀬戸際」で、前年に斎藤の出身校・市立川口のマネージャーだった女性と結婚したばかりで、奮起すべき材料はいくつもあったということである。この試合で、巨人は8回表まで5対1とリードしていたが、8回裏に1点差に迫られ、さらに同点・逆転のピンチを迎えた。斎藤は交代を願う気持ちもあった状態でベンチを見たが、藤田監督は交代の動きを示さなかった。結局、斎藤は代打加藤博一を打ち取り、ピンチを脱した。この後、斎藤は、9回裏を無失点に抑えて、シーズン3勝目を挙げた。試合後、藤田監督は、「9回に走者が出たら、リリーフを出そうと思っていた」とコメントした。斎藤は、「最後まで投げさせてくれるんだな、とうれしかった」とコメントしていた。この試合の、藤田監督の8回の判断については、5月11日付読売新聞は、「『粘れ斎藤!』藤田監督辛抱の続投 大成期待8回ピンチにも動かず」と比較的大きく取り上げたが、同日付の毎日新聞(上記)の扱いは小さく、朝日新聞、日本経済新聞では触れられず、当時の注目度は大きいとは言えなかった。なお、この試合の敗戦投手は、大洋の先発斉藤明夫であったため、朝日新聞、毎日新聞は、「斎藤対決は巨人に軍配」と報じた。
出典:wikipedia
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