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槙原寛己

槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。5月18日、史上15人目の完全試合を福岡ドームで達成した。現在最後の達成者でもある。斎藤雅樹、桑田真澄とともに1990年代の読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。愛称は「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」など。所属事務所はノースプロダクション。大府高校在学時から工藤公康、浜田一夫と共に愛知三羽ガラスと呼ばれ剛速球投手として有名だった。の第53回選抜高等学校野球大会に出場、ストレートが当時の甲子園最速記録となる147km/hをマークする。「子供の頃からファンだった巨人か地元球団の中日以外の指名なら社会人野球に進みます」と逆指名宣言をしていた事もあり、同年のドラフト会議にて読売ジャイアンツに1位指名され入団。入団1年目は二軍での体作りに専念したため登板機会が無かったが、翌に一軍初登板にして初完封を達成するなどの活躍を見せて12勝1セーブ(9敗)の成績を挙げ、新人王に選出された。同年代の若手選手として活躍した駒田徳広、吉村禎章らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。デビュー年と、ストレートの最高球速がボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年にマークした155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hをマークするのは槙原では」とさえ言われていた。後半から球種をスライダーをメインにし、頃からは走者がいなくてもセットポジションから投げる投球スタイルに変更。150km/hを超えるストレートはあまり見られなくなる反面、与四球率は大幅に改善され、フォークボール、まれにスローカーブも交えながら、引退まで三振の取れる本格派として活躍した。もっとも、送りバントを含めたバッティングおよびフィールディングは非常に苦手であり、同郷で仲の良かった元チームメイトの後藤孝志から「槙原さんはバントがうまかったら200勝していた」と言われている。4月17日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で佐野元国とバッテリーを組み、クリーンナップであるランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に3者連続でバックスクリーンへの本塁打(バックスクリーン3連発)を喫した。ただし、阪神戦は通算38勝10敗とかなり相性は良かった。またその2か月後の6月28日の対阪神戦では、巨人軍5000号本塁打を放った(自身プロ生活で唯一の本塁打)。は、開幕から先発ローテーションで活躍しながら、重要な場面では抑えで登場するなどフル回転し、オールスターゲーム前までに12勝3敗4S・防御率1.75という活躍ぶりだったが、オールスターゲーム明け直後の広島戦でバント処理をした際に左足半月板を損傷し、その後のシーズンを棒に振る。日本シリーズでもリリーフで1試合投げたのみだった。も、前年の怪我が尾を引いていた。4月に2勝したものの、その後は打ち込まれる試合が続き、5月末に不調による再調整と足に打球を受けた治療を理由に二軍落ちした。夏に復帰し、それから調子をあげたが、最終登板で敗戦投手となり9勝止まり。シーズン序盤の不調の影響で4年ぶりに規定投球回に到達できなかった。この年の巨人は投手5人が10勝以上だったが、後述の日本シリーズでは終盤の好調さを買われた槙原が第1戦に先発。しかし流れを西武に引き寄せる3ランを打たれ、負け投手に。流れに乗れなかったチームは日本シリーズ初の初戦からの4連敗を喫してしまう。のオールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発したため、第2戦では登板予定がなかった。しかし、第2戦(広島市民球場)が延長戦に突入し、他チームの選手を無理に引っ張ることのできなかった全セ監督・藤田元司は槙原を登板させたが(控えに巨人の投手は槙原しかいなかった)、槙原はビジターのゲームと勘違いしていたため、ホームのユニフォームを忘れてしまい、ユニフォームと同じデザインのTシャツで投げるはめになった。これを最後にNPBのオールスターは、延長戦なし・9回打ち切りとなっている。巨人では斎藤雅樹、桑田真澄とともに「三本柱」と呼ばれるほどの投手であったが、この2人が投手のタイトルを数多く受賞する中、槙原だけは投手タイトルに恵まれなかったこともあり、常に3番手と見られる向きも少なくなかった。また、なかなか打線の援護に恵まれず、シーズン13勝が最高であった。加えて、1986年の優勝争いの終盤、10月7日の対ヤクルトスワローズ戦でマーク・ブロハードに逆転の決勝2ランを浴びたり、1990年日本シリーズ第1戦1回表にオレステス・デストラーデに先制3ランを打たれたり、の優勝争いにおいても、9月20日の対広島東洋カープ戦で2点リードでリリーフして逆転負け、10月6日ヤクルト戦でリリーフして秦真司に勝ち越し3ラン、翌々日の10.8決戦では先発して1回0/3でノックアウトなど、「ここ一番に弱い」というイメージが定着していた。1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で完全試合を達成(槙原寛己の完全試合)。この時の槙原を最後に日本プロ野球では完全試合達成者は途絶えており、現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。尚、三本柱の斎藤・桑田は現役時代完全試合及びノーヒットノーランは達成していない。また、同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは2勝0敗・防御率0.50と、今までの勝負弱いイメージを払拭する活躍でシリーズMVPも獲得した。シーズン後半からストレート、フォーク、スライダーのキレを買われて、ストッパーに転向したが、満足な成績を残すことはできず、一部マスコミ等では「ダメ魔神」(さらに犬顔だったことから「犬魔神」とも)と呼ばれた。これは当時横浜ベイスターズのリリーフエースだった佐々木主浩の「ハマの大魔神」のあだ名をもじったものである。このフレーズは、自虐ネタの達人である槙原が自ら売り込んだほど。契約更改では「200勝は諦めます」と記者会見で発表した。に対阪神戦で光山英和(近鉄時代、槙原と投球タイプが似ていた野茂英雄は光山捕手を信頼していた)とバッテリーを組み、新庄剛志に敬遠球をサヨナラ安打にされたこともある。尚、この時が現役最後の敬遠の企画となる。も引き続きストッパーとして登板するも、シーズン半ばで登板中に足を負傷、車椅子でマウンドを後にした。その後日本シリーズ第1戦にリリーフするも、ダイエーのメルビン・ニエベスに決勝ホームランを打たれ負け投手に。故障後に日本シリーズに合わせ無理に体を作ったことで、それまで一度も怪我が無かった肩を負傷、直球が130km/h台に落ち込む。、肩の怪我からの再起を目指したが一向に回復せず、このシーズンの一軍での登板は引退試合の1試合の登板に留まり、現役引退。引退試合は9月30日の横浜戦で、この試合では槙原から同年引退が決まっていた斎藤雅樹にリレーされ、二人の球を受けたのはやはり同年引退が決まっていた村田真一だった。最後に投げたボールは自身の決め球のフォークボールだった。現在はTBSテレビ・TBSラジオの解説者、スポーツニッポンの評論家を務める。

出典:wikipedia

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