プロレスは、リング上で主に観客へ見せることを目的とした攻防を展開する、格闘技を基本としたスポーツのことである。もしくは、その試合を複数展開することにより開催される興行のことである。正式名称はプロフェッショナルレスリング(professional wrestling)、興行レスリング、職業レスリングとも呼ばれる。古くは西洋相撲(角力)と呼ばれた。アメリカなどの国では単に「レスリング」と呼ばれることも多い。メキシコでは「ルチャリブレ」、ヨーロッパでは「キャッチ」と呼ばれる。試合は打撃、投げ技、関節技、時には凶器などを用いて行われて試合において闘う者をプロレスラーもしくはレスラーと呼ぶ。アメリカ、メキシコ、日本などにおいて歴史があり複数のプロレス団体を有しており全国各地で興行が連日行われている。プロレス興行がない国においてもテレビとインターネットを通じて世界中の人にも楽しまれている。興行会社が試合、その他で構成される興行を開催することで観戦料などの収入を得るビジネスモデル。プロレス業界において興行会社は「団体」と呼ばれる。アメリカのWWEを代表とする台本の存在を公にしているエンターテインメント系団体と日本の主流である競技性を前面に押し出している団体が存在する。また女性のプロレスラーの行うプロレスは特に女子プロレスとされ区別される。それ単独での興行は存在しないものの低身長症のプロレスラーが行うプロレスを「ミゼットプロレス」と呼ぶこともある。事業収入を得ないアマチュア組織も存在する。その中でも学生の愛好家達によるものは学生プロレスと呼称される。メキシコを除いてはライセンス制度も無いため厳密にアマチュアとプロを分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多い。「アマチュアプロレス」という表現が矛盾していることもありプロではないがプロと同じ形式という意味で「プロスタイルレスリング」、「ノンプロ」との合成語として「ノンプロレス」と表現することもある。1つの地域に重点を置く地域密着型と都市圏を中心に全国を回る巡業型がある。勝敗を競う形式を取るがアメリカのWWEはあらかじめ作られた台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにしている。理由としては、筋肉増強剤などの昨今のプロスポーツと薬物の問題が根底にあるが、その他にも、スポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が保険料が低く済みコストダウンに繋がることや株式上場の際に経営透明化という観点から業務内容を公開する必要があったためである。歴史的に活動が盛んな地域としてはアメリカ、カナダ、日本、プエルトリコ、メキシコが挙げられる。アメリカではプロレスでもアマチュアレスリングでも「レスリング」と呼ぶがプロレスのみを指す場合はショービジネスのそれとして「ラスリン」と南部訛りで呼ぶことがある。エンターテインメント産業とほぼ同じ事業形態である。球場、体育館、イベントホール、屋外などを会場とし、そこへリングや周辺器材(フェンス、椅子等)を設置し、有料で試合を観戦させる「興行」が主な事業である。会場の規模と観客数は団体や興行規模により様々であり、数万人を動員することもあれば、数十人程度の観客を相手に興行こともある。1つの興行には5〜10試合を行うことが多い。これらの興行はシリーズの中に組み込まれることが多く、団体は選手と従業員、器材を移動させつつそれを行わせる。これを「巡業」と呼ぶ。(巡業については後述)また、経済的また乃至他理由事情から巡業を行わない団体も存在する。それらは、団体が所有し、リング等を設置している「常設会場」を使用するか、限られた地域にて営業している会場を使用している。事業収入の柱となるものは以下の様なものである。日本のプロレス団体における特徴のひとつとして現役レスラーまたは引退したレスラーが社長業を兼務する、というものがある。日本のプロレス団体運営システムの始祖である力道山から始まった形式。日本プロレスから派生した新日本プロレス(2014年現在は後述する「背広組」の経営)、全日本プロレス(一時は「背広組」だったが、2014年に戻した)もこの形式を踏襲したほか2015年現在もプロレスリングZERO1(ただし代表権は持たない)、DRAGON GATE(ただし選手としては第一線を引いている)、WRESTLE-1、DDTプロレスリングなど、この形式を取る団体は少なくない。女子でもLLPW-X、センダイガールズプロレスリング、OZアカデミー女子プロレスが該当する。引退したレスラーが社長を務める団体としては過去には国際プロレスなど2015年現在はプロレスリング・ノア、プロレスリングWAVEなどがある(ノア、WAVEについては現役から継続)。主演スターが座長も兼ねる劇団に近い形態といえる。興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(レスラー)との乖離を避けることが出来たりスポンサーとの営業活動などに利点がある。しかし、個人商店化してワンマン体制や血縁、同族企業になりがちな点、プロレスの試合におけるセンスと経営の能力は別物であるため、経営を手助けする優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。また(特に主力選手が社長を務めるケースにおいて)選手専任であればトレーニング、休息、リハビリなどに充てられる時間を経営に割かなければならないため、選手としてのコンディションの維持が困難になり、三沢光晴の死亡事故を機に問題視する声も出ている。これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる」)が社長や経営幹部を務める場合、経営と現場を分離できるものの、両者の間に軋轢が生まれて分裂、活動を停止するケースも存在する一方、社長レスラーによるワンマン経営に反発して選手が離脱するケース、絶対的な影響力を持つ社長レスラーの退陣によって(レスラー、背広組問わず)後任者が選手やフロントをまとめきれず瓦解するケースも少なくない。JWP女子プロレスのように背広組社長は会社経営に専念し、現場にかかる業務のほとんどを選手に委ねる団体も存在する。一方で「背広組の社長がレスラーになる」ケースもある。WWEでは会長であるビンス・マクマホンが(時期によるが)自ら試合に出る。彼は元々「背広組」であったが、演出の必要上レスラーとしての訓練を積んだ例である。またかつてのFMW社長・荒井昌一はレスラーとしての訓練は積んでいなかったが演出としてリングでレスラーとの乱闘を演じたことがある。I.W.A.JAPAN社長の浅野起州も元はプロモーター出身の背広組だが、2000年の「レスラーデビュー」以後時折試合に出ていた。ハッスルMAN'Sワールドの草間政一CEOの場合、アマチュアレスリング経験者ということもあり2010年に「プロレスラーデビュー」して勝利を収めた。日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、相撲の地方興行やサーカスと同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100試合前後と格闘技と比べて圧倒的に多く、スタッフはリングや周辺機材を積んだトラックで別移動するが、レスラーは集団でバスなどを用いて移動して同一のホテルなどに宿泊する。競技性を売りとするUWF系の団体では、コンディション調整に時間を割くため、興行数は年間数試合から数十試合程度となっている他、対戦するレスラー同士が会わないよう、別のホテルに宿泊させて競技性の保持に務めた。集客数は、試合の会場とする場所にもよるが、スタジアムなどの大会場では数万人規模、地方の体育館やイベントホール、屋外グラウンドなどの会場では数千人から少なくとも千人程度までの集客を見込んで興行を打つことが一般的である。海外では、レスラーの現地集合、解散の方式を取ることが大半で個別行動が基本。新人や若手レスラーは、移動経費の節約のため、自動車や先輩選手の自家用飛行機に相乗りで移動することもある。日本でもJWPの時代のデビル雅美やフロンティア・マーシャルアーツ・レスリングの大仁田厚は自家用車に後輩を乗せて移動していた。近年では何らかの形で常設会場を設けて地方巡業を行わない団体も増えてきている。主にローカルインディや草の根インディ或いはどインディというスラングで呼ばれる極めて小規模な団体がこの形態を取ることが多い。こうした団体は、メジャー団体や中規模インディ団体のように集客数の採算分岐点の大きな大会場を用意する経営体力がないため、仮に巡業を行う場合であっても小規模な公民館や体育館の一室、或いは駐車場の一角で平均百人前後、多くても数百人程度の集客で興行を成立させる運営を行っていることが多い。リングさえ用意してしまえば何処でも興行会場になるとも言えるため、極端な場合では団体事務所の敷地内にリングを置いたり、リングが常設されている団体の道場に客を集める形態(いわゆる道場マッチ)を取る場合もあり、数十人から数人程度の観客動員でも興行を成立させたと見なしてしまう零細団体も存在する。海外ではレスラー自身が各地のインディ団体を転戦するケースも多く、この形式はインディー・サーキットと呼ばれる。プロレスの興行は、1日で5から10程度の試合が行われ、間に1度休憩が挟まれる。トータルの興行時間は平均して3時間前後が基本。試合の構成は以下の通り。WWEなどのように選手名を告知してから入場してリング上では告知を行わない団体もある。選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり入場シーンそのものをカットしているものもある。また、タッグマッチ(詳細は後述)の入場、退場時に用いられる曲は「格上」のレスラーのものであることが基本である(大物同士のタッグでは同格であることを強調するため両者のテーマ曲を混合した曲を用いることもある)。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものやタッグマッチ時に1人ずつテーマ曲に合わせて入場するといった演出が施される。試合を行うレスラーの他、試合を行うために必要なスタッフとして、次のようなものがある。基本的なルールはほぼ以下の通りである。勝敗は、以下の状況に至ったとレフェリーが認め、その旨を宣告した時点で成立する。その他に次に掲げる代表的なルールがある。プロレスの試合は多くは何分何本勝負、という形で行われる(ヨーロッパおよび力道山時代の日本ではボクシング同様のラウンド制の試合も行われていた)。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でもタイトルマッチなどで行われた3本勝負(2本先取で勝利)は過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別であるが、タイトルマッチは60分1本勝負<過去には61分3本勝負などのルールもあった>が主流である。アメリカのテレビ放送用の試合では「放送時間内1本勝負」(つまりテレビの放送時間終了までに勝負がつかなければ引き分け)という例もあった。対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで形状はボクシングなどとほぼ同じ(ただしボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる)。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープの反動を積極的に用いたり(ロープワークと呼ばれる)、コーナーに上っての技などがあるためリングおよびロープは他競技用のものに比べて頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。デスマッチと呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある。(ロープを有刺鉄線に交換するなど)詳細はデスマッチを参照。リング内に敷かれたマットの硬度は大差はないものの団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、柔らかさに一定の限度は存在している。歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技の着地時におけるケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際にはスプリングを止めて「固く」していた。各団体が専用のリングを所有するが小規模団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。日本では闘龍門の闘龍門2000プロジェクトで6角形のリングが使われたことがあり、アメリカではTNA、メキシコではAAAなどの団体で、6角形のリングが使われている。埼玉プロレスや黎明期のアイスリボンのようにリングを使用せずマットのみの場合もある。リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷く団体がある。また観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。多くの団体では、レスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ミッドヘビー級)に区分される。クルーザー級は主にアメリカの団体で用いられ、日本でもWRESTLE-1やDDTプロレスリングなどでクルーザー級と呼んでいる。ほとんどの団体の基準は概ね100kg未満であるがヤード・ポンド法が用いられ、全日本プロレスでは232lbs(105kg)までがジュニアヘビー級として扱われる。基本的数値の基準としては海外や新日本プロレスの220lbs(99.8kg≒100kg未満)が用いられている。ボクシングと違い公式な計量は存在しないことが殆ど(メキシコを除けば必要に応じて行われるのみ)。階級を超えたマッチメイクもしばしば行われて軽量級に在籍しながらヘビー級戦線で活躍するレスラーも少なくない近年ではシャープな肉体の選手が増えた為、105kg以下のヘビー級戦士も多く全日本のようにヘビー級の体重制限を事実上廃止した団体も存在する。また、WRESTLE-1のクルーザー級は200lbs(90.719kg)までとしている。旧ZERO-ONEは巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130kg以上のスーパーヘビー級を置いたことがある。力道山時代の日本プロレスではジュニアヘビー級の下に190lbs(86.28kg)未満のライトヘビー級を置いていた。NWAはその下にさらにミドル級、ウェルター級を設置してより詳細な階級区分を行っている。ルチャ系の団体では全体的に体重の軽い選手が多いためミドル級、ウェルター級などで分類されることもある。DRAGON GATEの軽量級に当たるオープン・ザ・ブレイブゲート王座は180lbs(82kg)以下を対象としており、ウェルター級に該当する。インディー団体では体格に優れたレスラーが少ない傾向にあるため階級区分が行われていない団体が多い。なお女子プロレスにおけるジュニアとは軽量級カテゴリーではなく経験の浅い若手選手を指すカテゴリーである。全日本女子プロレスでは軽量級はスーパーライト級と呼ばれ、132lbs(60kg)以下を対象としていた。GAEA JAPANにおけるクルーザー級もほぼ一致する。アイスリボンのICE×60王座も存在していたが体重制限が撤廃されて現存するタイトルは無差別級となる。試合時の服装は団体によって規定、禁止されているものを除けば特に規定はなく、様々な種類のコスチュームが存在する。男子の場合、一般的には上半身半裸で以下の種類が使用されている。アンドレ・ザ・ジャイアント、ビル・ロビンソンが体重の増加でショートタイツからショルダータイツに変えたように経歴において複数のタイプを使った例も多い。入場時に限り、専用の服装をする選手もいる。多くは公式グッズのTシャツか、ガウンを着たりしている。ガウンに関しては様々な形があり、古くは着物タイプのものが主流であったが近年では選手のギミックに応じて色も形状も大きく異なっている。その他、真壁刀義やスタン・ハンセンのようにロープやチェーンなどの凶器を持ち込む者こともある。マスクを被ったりするものいる。代表例として桜庭和志、紫雷イオが挙げられる。珍しいものとして、スーツ着用の内藤哲也が挙げられる。その起源はイギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。アマチュアレスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。19世紀の初め頃にボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技、投げ技、絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地、各試合毎に行われていた。現在のプロレスに直接つながっているのは19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは"athletic show"あるいは短く"at show"と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる"all comers")をしたりレスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか1人で旅芸人として巡業する必要があった。大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して、「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論して大仁田とは対照的な正統派ルー・テーズも、自伝においてカーニバル・レスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べている。カーニバル・レスリングをプロレスの起源とする考えはアメリカでは一般的であり、kayfabe(ケーフェイ)、mark(マーク)、boy(プロレスラー)、bump(受け身)といったプロレスの隠語も、カーニバル・レスリングで用いられた言葉とされる。一方、日本のプロレス研究家、あるいは、マーク向けライターはカーニバル・レスリングをプロレスの起源とすることに否定的である。例えば日本において出版されたルー・テーズの自伝では前述のプロレスの起源に関する記述はない。これは"at show"の内容が非常に娯楽色が強くプロレスを真剣勝負として紹介している人たちのビジネスに都合が悪いためと思われる。1880年代に人気レスラーであり警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。マルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力して後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。1890年代にはカーニバル・レスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイス、トム・ジェンキンスらとの試合で人気を集めた。その後バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのレスラーを育てレスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカン・レスリングの父」と呼ばれる。20世紀に入ると、ジョージ・ハッケンシュミット、スタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの強豪レスラーがアメリカを訪れ、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチ、アドルフ・エルンスト(後のアド・サンテル)らアメリカのプロレスラーと対戦して、レスリング・ショーを盛り上げた。1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く"at show"は下火となった。代わりに、劇場などで行われるレスリング・ショーが増えてレスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことはレスラー間のつながりを強めて事前に試合内容を調整することを容易にした。1920年代になるとエド・ルイス、トーツ・モント、ビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が数百名のレスラーを配下にして、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め事前に様々な調整することにより、複数の試合からなる興行を行った。これらによりプロレスの人気は高まったが一方で報道、賭博など社会的な場においてプロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減。1920年代にはプロレス・ショーの仕組みは完成してメキシコ、日本、カナダなどにも伝わる。なおメキシコのプロレスはルチャリブレと呼ばれる。2005年3月にアメリカで(RPW)なる格闘技団体が発足した。これは全米大学体育協会(NCAA)レスリング大会などのアマチュアレスリングで活躍した選手が全米各地区のチームに所属して純粋な競技スポーツとしてプロレスリングの活動を行うというものである。ルールや試合場はアマチュアレスリングのフリースタイルに近く、ポイント制であり、打撃や極技などは禁止である。アマチュアとの違いとしては、リングの外に相手を押し出すと得点となることや、攻勢を維持していた選手にボーナスと呼ぶ得点機会を与えることなどがある。 戦前 最初の日本人レスラーはソラキチ・マツダとされている。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級レスラーとして活躍したことが、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に週刊ゴングで漫画化されている)。その他に数名の日本人、日系人が主にアメリカでレスラーとして活動していたことが確認されている。マツダとともにレスラーとして活躍した三国山は帰国後の1887年に東京の銀座で「西洋大角力」を開催しており、これが日本初のプロレス興行とされている。しかし観客は集まらず失敗に終わっている。1921年にアメリカのレスラーのアド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日して講道館柔道に対戦を要求。講道館は対戦を拒否したが、系列の弘誠館が受けてたち、永田礼次郎、庄司彦雄、増田宗太郎、清水一の4名の柔道家が対戦。今で言う異種格闘技戦であり、試合は東京の九段の靖国神社相撲場で3月5日と6日の両日に行われている。なお、この試合に関しては「プロレス対柔道」のタイトルで週刊少年ジャンプにて漫画化されている。日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後に力道山が1953年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPによる武道の禁止指令により柔道が禁止されていたため柔道家の牛島辰熊が1950年2月に国際柔道協会(プロ柔道)を設立して木村政彦、山口利夫、坂部保幸らが参加したプロ柔道として力道山より早くプロ柔道興行を始めていたが4か月10回の興行後は木村政彦、山口利夫、坂部保幸が日本プロレスに移籍して最終的には力道山の手によって統一される。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴みプロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得。その後は日本国内においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレスと国際プロレス(いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げして、さらに力道山死去後の日本のプロレスを支えていたアントニオ猪木が新日本プロレスを、そしてジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げして両エースを失った日本プロレスは崩壊する。それ以降しばらくの間は上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続くことになる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカ、モハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得。国際プロレスもヨーロッパ路線とデスマッチ路線を展開して独自のファン層を開拓。1980年代に入ると馬場の弟子であるジャンボ鶴田、天龍源一郎、猪木の弟子である藤波辰巳、長州力らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また新日本では佐山聡がタイガーマスクとしてデビューして、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとして、その礎を築いた他、子供層の取り込みに成功して、人気を更に増した。1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイルのプロレスを確立して、後の総合格闘技の台頭への布石となった。1988年には大仁田厚がFMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収めてインディー団体というカテゴリーを確立。この団体は同時に「ハードコア・レスリング」の世界的なパイオニアという側面を持ってもいた。1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされて団体乱立の時代を迎えた。この頃から馬場、猪木が第一線を退きプロレス人気に翳りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動してジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため外国人レスラーの招聘が困難になり日本のプロレスは日本人レスラー同士の闘いに重点を置くようになった。新日本では闘魂三銃士(蝶野正洋、武藤敬司、橋本真也)、全日本ではプロレス四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)が台頭して後にまで業界を牽引してゆく。一方、第2次UWFはUWFインターナショナル、プロフェッショナルレスリング藤原組、リングスに分裂(藤原組はその後さらにパンクラス、格闘探偵団バトラーツに分裂)して細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1、PRIDEなど総合格闘技が台頭し、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが結果を残したレスラーは少なく人気低迷に拍車をかけた。1997年にJWP女子プロレスのプラム麻里子が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めてのリング禍であった。2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変する。全日本では馬場の死後は社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立して、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団して、プロレスリング・ノアを旗揚げする。新日本でも橋本真也が団体を解雇されて新たにプロレスリングZERO-ONEを旗揚げして新たな4団体時代を迎える。一方、所属選手の殆どを失った全日本は団体存続をかけて新日本との交流に踏み切る。2002年に武藤敬司が新日本を退団して全日本に移籍、同年10月に同団体の社長に就任する。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが2000年代以降はメジャー団体同士の交流が盛んに行われている。この頃からWWEが日本でも人気を博して、その流れを受けてファンタジーファイトWRESTLE-1、ハッスル、DDTプロレスリングなどエンターテインメント志向のプロレス興行が行われるようになる。2006年には国内初のプロレス統一機構の確立を目指しグローバル・レスリング連盟が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半は、いわゆる第三世代が台頭するが人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。しかし2005年に橋本真也、2009年に三沢光晴が急逝、他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり各団体の勢力図が変革されていく。2011年には東日本大震災復興支援を目的として新日本、全日本、ノアによる合同興行ALL TOGETHERが開催され、翌2012年には新日本・全日本が旗揚げ40周年記念興行を合同で開催するなど団体同士の連携を強めている。2000年代に低迷してゲーム会社のユークスの傘下となっていた新日本プロレスは2012年にエンターテイメント企業「ブシロード」の子会社となり同社のコンテンツビジネスとの連携を深め、観客数と売り上げを大きく増やし、2016年には団体史上最高額の事業利益を達成している。ノアは三沢亡き後の団体をまとめきれず主力選手の離脱が相次いでいる。ノアを離脱した秋山準らはベンチャー企業のスピードパートナーズ(後の八丁堀投資)の傘下となっていた古巣の全日本に復帰する。しかし全日本のオーナーとなったスピードパートナーズ社長(当時)の白石伸生の運営に反発した武藤らが全日本を退団して、新たにWRESTLE-1を旗揚げ。一方、全日本は親会社の経営破綻により秋山を社長とした新体制で再出発。さらに各団体で主力選手の退団が発生した他、インディー団体出身のレスラーによる団体旗上げが相次ぐなど、ますます混迷を極めている。 マスコミにおける取り扱い かつて各新聞社やテレビ局においてスポーツとして扱うかエンターテインメントとして扱うか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントとしての扱いという形で決着した。ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと(なお照明、音響、撮影係等のスタッフ用の興行進行台本はこれとは別の物)。この台本を考案、作成する人間を「ブッカー」または「マッチメイカー」と呼ぶ(ただしbookerのbookは「出演契約を取る」という意味のbookであり「脚本家」という意味ではない)。ブッカーはリング外での筋書き(アングル)及び試合展開や決着方法についての台本を考えてレスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われて口頭での打ち合わせによる。基本的に試合展開や決着方法に関するブックは当事者以外には知らされないとされているが進行や演出の都合上の音響、撮影スタッフに伝達されることがある(後述)。WWEの内幕を描いたドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・マット』では、ザ・ロックとミック・フォーリーが場外乱闘時の観客席の移動ルートやパイプ椅子での殴打回数などを打合せするシーンが見られる。またWWEは経営上の理由(スポーツよりショービジネスとして登録する方が税金、保険料が低くなり税制上有利、また株式上場にあたり台本の存在を非公表のまま上場することがコンプライアンス上問題がある)から台本の存在を公言した。また所属レスラーが死亡した際に物語上で対立していたレスラーが「対立はあくまでもエンターテインメントでありリング外では家族の様な関係であった」と自身のWebサイトで弔意コメントを出した。リック・フレアーは自身のDVDの中で当時のNWA王者決定方法について述べている。日本の場合は団体自らが台本の存在を公言したことは無い。芸能人やタレントも試合を行うハッスルのように「エンターテインメント」をキャッチコピーとして用いる団体は存在する。日本のプロレスで台本の存在が公になったのは法廷である。大仁田厚と渡辺幸正の試合終了後の乱闘で渡辺が負傷したことについての裁判では、東京地方裁判所が「通常のプロレス興行で、事前の打ち合わせ無しに相手に攻撃を仕掛けることは許容されておらず、観客に見せるプロレス興行としては異質の暴行」との裁判例を示した。また女子プロレス(アルシオン)でもアジャ・コングとロッシー小川(小川宏)社長間の名誉毀損や肖像権をめぐる裁判で台本の存在を認定した上で判決が行われた。裁判以外でも個人が日本の団体における台本の存在を明かすことはある。マット・モーガンが海外でのインタビューで「新日本プロレスで永田裕志と試合を行った時、フィニッシュ・ホールド(決着を付ける技)だけは前もって説明が必要であったが、それ以外は話すことなく試合をさせてくれるので自由で良い団体だ」と語った。近年多く出版されるプロレス内情暴露本では新日本のOBレスラーが昔は台本はあってもそれ以外の部分は必死に闘っていたのに、今のレスラーは必死さが足りないと嘆く形で存在が明示された。台本の存在や取り決め方は新日本プロレスのレフェリーであった、ミスター高橋が自著で詳しく述べている。またプロレスの台本の存在をトリックに組み込んだミステリー小説『マッチメイク』が江戸川乱歩賞を受賞。新日本で行われた異種格闘技戦も台本が存在したとミスター高橋は著書で述べている。代表的なものとして柔道メダリストのウィレム・ルスカとアントニオ猪木が試合をした場合もルスカはプロレス技を数多く受ける台本を打ち合わせの時点で了承していたと述べた。全日本の場合には元週刊プロレス編集長であったターザン山本が、近年自著の中で台本の存在を明らかにした。全日本からのSWSによる選手の引き抜きに伴い、ジャイアント馬場が山本に裏金を渡した上で誌上でのSWSバッシングを行う様依頼したことが契機となり、山本と癒着に近い関係が生まれ、馬場はその後週刊プロレス誌上で全日本プロレスを優遇する見返りに、ビッグマッチにおける台本を山本および一部記者に決定させる権限を与えていたと山本は述べている。代表的なものとして、後の四天王プロレスの原点とも言われ、三沢光晴が大きく飛躍する契機となったジャンボ鶴田対三沢光晴戦の決着を、ピンフォールではなくフェイスロックでのギブアップとする結末を山本達が決定したことなどが挙げられる(ただし実際には三沢が鶴田からギブアップ勝ちをしたのは三沢が飛躍する契機となったシングルマッチではなく鶴田のライバルとしての地位を確立した後のタッグタイトルマッチである。三沢の対鶴田シングル初勝利はピンフォール勝ち)。また台本の存在が公表されているアメリカで出版された外人レスラーの伝記に「この時の日本遠征では世界王座が移動する予定はなかった」などの記述が登場することがある。ハーリー・レイス、リック・フレアーの自伝など。金子達仁による高田延彦を扱った書籍「泣き虫」において高田が台本の存在を明示している記述がある。長野県を中心に活動している信州プロレスや芸人たちによるギャグプロレス団体の西口プロレスではキャッチコピーに「台本重視、安全第一」などと掲げている。ラジオ番組オールナイトニッポンでゲスト出演した構成作家が某女子プロレス団体でも仕事を行っていると発言。当時全日本プロレスを中継していた日本テレビ系列のよみうりテレビが製作したアニメ「シティーハンター2」の第12話「場外乱闘流血必至!!恋のコブラツイスト☆」(1988年6月24日放送)では「プロレスはショー」という台詞が取り入れられている。ただし個人が台本の存在を明示することはあっても全ての団体、全ての試合に台本があるという証明がされているわけではないので、その点においては理解が必要である。台本通りの試合展開にならなくなることをそれを引きちぎる様から「ブック破り」と呼ばれる。ブック破りは一方の選手が意図的に行うことが多いが何らかのアクシデントのためやむを得ずブック破りになってしまう試合もある。試合以外にも、リング外での選手、グループ、団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であり、いかに観客の注目を集めて継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開、消化して最終戦において(大会場で開催されてテレビ放送ではペイ・パー・ビューとなる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり連続ドラマと類似している。特に20世紀中期以降のアメリカ合衆国のプロレスなどの場合、選手には一定のキャラクターギミックが要求された。それにはレスラーが考えたものもあれば団体から提示されるものもあった。特定の人物が悪役(ヒール)として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北して客は溜飲を下げるが場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利、反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても次回の試合への客の関心を集める役を果たした。これに対して正義漢、善玉の役割を演じるのをベビーフェイスという。やられ役が負けることをジョブという。特にアメリカのプロレスではその面が顕著で日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった。悪役は往々にしてステレオタイプな嫌われ者を体現して特に外国出身を名乗る選手では人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。場合によっては近くの国の出身者がその国の出身者に仕立てられることもあり悲喜劇的な例としてソビエトの支配による社会主義体制を嫌ってユーゴスラビアからアメリカに亡命したニコライ・ボルコフが試合前にソ連の国歌を歌うなどのギミックを背負った悪役にされた例がある。またギミックには世相が反映されることが多い。特にアメリカではその傾向が強く第二次世界大戦後には真珠湾攻撃を連想させる不意打ちを連発する「卑劣なジャップ」風のレスラーや「ナチスの残党」を名乗るレスラーが多数存在して、米ソ冷戦時代はロシア出身を名乗るレスラーが多数いたり湾岸戦争時にはアラブ人のギミックでサッダーム・フセインの側近を名乗ることで観客のヒート(興奮)を買う、といったことが繰り返された。前述の「ブック」とは別物である。ブックはレスラー間の試合内容の打ち合わせを意味するが、これは裏方スタッフのイベント進行用の台本であり各種機材の使用のタイミング・順序等を示したものである。かつてインターネットオークションでZERO-ONEの興行「ZERO-ONE USA」のテレビ放送進行用台本が出品されることがあった。また日本ではFEGと全日本プロレスが中心になって開催されたイベント「WRESTLE-1」において小島聡の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が電光掲示板に表示され、レスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを示した。もっとも、小島の「いっちゃうぞバカヤロー」は殆どの試合で見られる小島の得意の(1)対角線エルボー(2)「いっちゃうぞバカヤロー」(3)ダイビングエルボーの流れの中で出されるものであり、段取り決め等を行っていない観客も一緒に叫ぶことが通例となっている。また、日本の週刊誌(アサヒ芸能)が「ハッスル2」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。プロレスは真剣勝負やスポーツではないが例えば蹴り技ではK1などの格闘技のように相手選手の急所を狙う(膝へのローキックなど)のではなく、鍛えた筋肉で守られ怪我をする恐れが少ない部分をめがけ、力を込めて蹴っている場合もあるのであり同様の技を常人が受けた場合は危険が生じる(それに対してパンチの場合は、拳骨部を当てると顔が腫れ上がったり、骨折などの怪我を誘発する恐れがあり危険であるため寸止めが普通である)。プロレスラーが受けてもタイミングの狂いなどから危険が生じることは時々ある。スタン・ハンセンはブルーノ・サンマルチノの首をボディスラムのかけ損ないで骨折させたことがあり、またハンセン、ミスター珍、マリオ・ミラノなど試合中に失神してしまった例も多い。三沢光晴は業界一の受身の達人といわれていたがバックドロップの受け損ないで死亡している。ただし佐山聡によれば、多くのプロレス技は「暗黙の了解」がなければかかるようなものではなく、かつ格闘技には使えないものであると断じている。また本質は真剣勝負ではないとしても試合中に本気になってしまう場合など、それに近い試合が行われてしまうことはある。以下に例を挙げる。試合中の細かい点までは決めない団体も多く、気性の荒い者たちによる試合中のトラブルは時々見られる。演劇的、ショー的な要素はあるものの、プロレスにはそれにとどまらない部分もあると指摘されることもある。町山智浩はその一著において、試合が「演技」であるプロレスは世間から最も軽蔑されているスポーツであるとしたうえで「演技」であるからこそプロレスは偉大なのだと論ずる。すなわち格闘技やボクシングにおいては、相手の攻撃に対する防御それ自体が「強さ」であるがプロレスにおいては、相手の攻撃をどれだけ受けられるかが「強さ」なのであるという。そうしたことから町山は、敵の攻撃の全てを受け抜いて「伝説」になったという点でイエス・キリストこそが世界最初のプロレスラーであったとしている。日本のプロレスにおいては企業経営で用いられる言葉を他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が相撲取り出身だったため隠語は相撲と共通するものが多い。
出典:wikipedia
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