二階 俊博(にかい としひろ、1939年2月17日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(11期)。自由民主党幹事長(第48代)、志帥会会長(第5代)、全国土地改良事業団体連合会会長。和歌山県議会議員(2期)、運輸政務次官(第2次海部内閣・細川内閣)、運輸大臣(第75・76代)、北海道開発庁長官(第69・70代)、保守党幹事長(第2代)、保守新党幹事長(初代)、自由民主党総務局長、経済産業大臣(第6・9・10代)、自由民主党国会対策委員長(第48代)、自由民主党総務会長(第46・53代)、自由民主党選挙対策局長(初代)、国土強靭化総合調査会会長などを歴任した。自民党現職議員の中でも多選上位であり、現在では数少ない有力な親中派である。1939年2月、和歌山県御坊市新町に生まれる。父親の俊太郎は和歌山県議会議員だった。父は仕事が忙しく、物心がついたころから父といっしょに遊んだ経験がなかった。母・菊枝は医師古久保良輔の娘で、当時まだ珍しかった女性医師だった。稲原小学校に入学し、終戦後、御坊小学校に転入した。御坊中学校に進学した二階はある時、外郭団体の主催する弁論大会のメンバーに選ばれ、島崎藤村の社会小説『破戒』を引用し、人権問題について演説した。和歌山県立日高高等学校を経て中央大学法学部政治学科に進学する。法学士号を取得して卒業後、静岡県選出の衆議院議員で建設大臣を務めた遠藤三郎の秘書となる。遠藤の死後、和歌山県に戻り、1975年に和歌山県議会議員選挙に立候補して当選し、連続2期務めた。1983年、旧和歌山2区から自由民主党公認(田中派)で第37回衆議院議員総選挙に立候補する。5万3611票を獲得し、2位で当選を果たした。以後、現在まで連続当選を続けている。田中角栄に対する配慮と、師・遠藤三郎がかつて藤山派に属していたために江崎真澄に近いことから竹下派結成には参加しなかったが、その後、奥田敬和ら中間派が竹下派に参加したことを契機に自身も参加した。1990年、第2次海部内閣で運輸政務次官に就任。1992年の竹下派分裂時は小沢一郎に同調し、羽田派に参加する。1993年、宮沢内閣不信任決議案に賛成して自由民主党を離党、小沢らと共に新生党結成に参加した。総選挙後に発足した細川内閣で再び運輸政務次官に就任する。細川内閣での政務次官時代は社会党の運輸大臣伊藤茂を差し置いて「影の運輸大臣」と呼ばれた。細川・羽田政権後、新進党にも参加し、「明日の内閣」建設・運輸・国土政策担当などを務める。小沢側近として小沢の党首選出にも尽力した。1996年、第41回衆議院議員総選挙で新設された和歌山3区から立候補し、自民党(清和研)の現職野田実を破り5連続当選を果たす(野田は比例復活したが、後に連座制を適用されて失職した)。1998年、新進党分党後も小沢側近として自由党結党に参加した。自由党国会対策委員長として自自連立政権樹立に動き、1999年の小渕内閣第2次改造内閣で運輸大臣兼北海道開発庁長官として初入閣した。2000年4月、自由党の政策が実現されないとして連立解消を主張する小沢ら連立離脱派と袂を分かち、野田毅や扇千景ら連立残留派とともに保守党を結成する。自公保連立政権に参加し、小渕内閣を引き継いだ第1次森内閣で運輸大臣兼北海道開発長官に留任した。同年7月、保守党国会対策委員長に就任。2001年、保守党党首の扇が野田に党首の座を譲ったことから、保守党幹事長に就任した。2002年、保守党の後継政党である保守新党でも幹事長に就任したが、2003年の第43回衆議院議員総選挙で保守新党は代表の熊谷弘が落選するなど惨敗し、自民党に吸収された。かくして二階は約10年ぶりに自民党へ復党することになる。自民党への復党後、旧保守新党の議員らで新しい波(二階グループ)を結成して会長に就任。2004年9月、自民党総務局長に任命される。以後、自民党が下野する2009年までほぼ一貫して政府や党の要職の座につけ、政界再編期の離党・出戻り組の中では異例な存在であった。2005年5月、内閣総理大臣小泉純一郎の意向により、自民党総務局長を兼任しながら衆議院郵政民営化法案を審議する特別委員会の委員長に就任する。郵政国会では郵政民営化法案の衆院通過に尽力した上、その後の郵政解散による第44回衆議院議員総選挙では選挙責任者の総務局長として候補者擁立などに奔走し、自民党圧勝の功労者となった。この大勝利をきっかけに総務局長の地位が見直され、地位向上が行われるようにもなった。またこれによって、比例当選議員が中心ではあるものの二階派の議員数が増加することになり、二階が一定の政治的影響力を持つことになった。総選挙での功績を買われ、2005年10月に発足した第3次小泉改造内閣に経済産業大臣として入閣する。2006年9月、小泉の自民党総裁任期満了に伴い安倍晋三が総裁に就任し、民主党代表小沢一郎への対策として自民党国会対策委員長に任命された。2007年8月、党三役の一角である自民党総務会長に就任。その直後、自らが代表を務める和歌山県第三選挙支部の政治資金収支報告書未記載問題が発覚する。2007年9月14日、自民党幹事長麻生太郎の総裁選挙立候補を受け、自民党役員会において、2007年自民党総裁選期間中の幹事長職務を一任された。9月24日、福田康夫が総裁に就任し、総務会長に留任することが決まった。2008年の福田内閣改造に伴い自民党総務会長を退任し、福田改造内閣に経済産業大臣として再任された。2008年9月24日に発足した麻生内閣でも経済産業大臣に再任されている。2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に出馬した際は、公明党の推薦も受けて9回目の当選を果たし、同年10月には自民党幹事長の下に新設された自民党選挙対策局長に就任。自身が会長を務めていた二階派は総選挙で二階本人を除く衆議院議員が全員落選し、参議院議員2名と合わせて総勢3名となったことから派閥の維持が困難となった。このため、11月5日に全員が志帥会(伊吹派)へ合流し、同日付で二階派は解消された。同年12月に西松建設事件で政策秘書が政治資金規正法違反で略式起訴となったことを受け、自民党選挙対策局長を辞任する。2012年12月、伊吹文明が衆議院議長への就任に伴い志帥会(伊吹派)会長を退任。後任として二階が同派会長に就任し、志帥会は伊吹派から二階派へと衣替えした。2013年、安倍政権は二階を衆議院予算委員長にして、事実上封じ込めたのだが、二階は逆に与野党の人脈を駆使し、史上最速で予算を衆院通過させ、官邸に実力を見せつけた。そこで、安倍首相は2014年9月、第2次安倍改造内閣発足と同時に行われた党役員人事において、二階を党総務会長に再び任せた。同時に慣例として二階派会長を退任し、同派会長は空席とされた(同派の指揮は会長代行の河村建夫が務める)。2016年8月3日の第3次安倍第2次改造内閣発足と同時に行われた党役員人事で、自転車で転倒して入院した谷垣禎一の後任として自民党幹事長に就任した。保守新党が存続していた時代には、地元・和歌山県田辺市の新庄総合公園に江沢民が自筆で書いた「登高望遠睦隣友好」の文字と、自身も参加した2000年の日中文化観光交流使節団に対して江が発表した重要講話を刻んだ日中国交正常化30周年記念碑の建立を計画し、新東京国際空港や全国各地にも同様の石碑を建立する心算であったが、地元市議らの抵抗などもあって頓挫した。尖閣諸島問題に関しては棚上げ論者である。2015年2月、1400人の訪問団を率いて韓国入りし、慰安婦問題解決を迫る大統領朴槿恵に「積極的な努力」を約束した。過去の数々の韓国に対する功績に対して、韓国から最高位の国家勲章「金塔産業勲章」(1等級)を授与されている。日韓議員連盟常任幹事も務める。産経新聞前ソウル支局長の拘留問題(産経新聞韓国大統領名誉毀損問題)では、「われわれから新聞社の判断や韓国の司法がどうだとか、言うべきことではない」と発言している。河野談話の見直しについては「軽々しく口にすべきではない」として否定的な立場を示しており、元衆議院議長河野洋平の国会招致についても反対している。故郷であり、自らの選挙区である和歌山県に金忠善の碑を建立している。金忠善は日本兵であったが、文禄・慶長の役の際に朝鮮側に寝返り、日本側と戦った人物である。2015年に渡韓した際、ソウルで開かれた「韓日友好交流行事」でもモデルとして金忠善の例を挙げ、日韓友好を訴えた。2003年2月11日、青瓦台で大統領秘書室長朴智元と会談し、在日外国人に対する参政権について「実現に向け、引き続き努力する」と述べた。2003年2月11日、青瓦台で大統領秘書室長朴智元と会談し、自身が韓国の国立墓地「顕忠院」に参拝したことを紹介した上で、靖国神社に代わる新たな追悼施設について「必要性をあらためて認識した。実現のために努力したい」と述べた。その一方で、4月22日には靖国神社に参拝している。一方で、「世界津波防災の日」の制定に反対する中国や韓国に対し、「日本が提案しているというだけで反対したがる特殊な国民性がある」と名指しで批判したこともある。自由党、保守党時代に国会対策委員長を務め、自由民主党でも国対委員長を務めた。1999年の通常国会では、自民党国対委員長の古賀誠、公明党国対委員長の草川昭三としばしば懇談し、3人は当時の流行歌『だんご3兄弟』をもじって「談合三兄弟」と呼ばれた。二階はこれを逆手に取り、自由党国対副委員長だった西川太一郎主催の形で、だんごを食べながら国政を語る「だんごの会」を企画した。「だんごの会」は会期末間近の8月8日に開催され、「3兄弟」揃って参加することで結束をアピールした。自自公連立政権成立に3人は大きな役割を果たしたとされ、その後も固いパイプを誇った。このため二階は党内ハト派の重鎮である一方、調整や根回しに優れる数少ない親分肌の党人派という顔も持っている。馳浩によると、「その人脈と調整力と勝負カンの鋭さと気配りは、衆目の一致するところ」であるという。同じく馳によると、2005年の郵政国会では、民主党の筆頭理事(=中井洽)の弱みを利用し、中井の顔を立てる形で採決に協力させた。2006年10月9日に北朝鮮が核実験を行ったが、二階はあらかじめ6日に「週末に北朝鮮が核実験をもしも行ったら、世界で唯一の被爆国である日本は、強い抗議声明を国民総意として世界に発信しなければならない。そのためには、与野党の国会対策責任者がその準備をしておかねばならない。土日祝日だからといって危機管理の対応が疎かになってはならん。いざという時には休日であっても集まって、本会議を開く準備をしておこう!!」と各党の国対委員長のもとに出向き頭を下げて要請していた。その結果、翌10月10日に核実験への非難決議を全会一致で採択させることができたという。松浪健四郎によれば、日本共産党の議員とも「人間的な信頼関係で結ばれている」という。2008年8月28日、民主党議員らが改革クラブ(現:新党改革)を旗揚げしたが、以前より二階が切り崩し工作を行ったことが功を奏したとする報道もある。グリーンピア南紀(和歌山県)の跡地開発をめぐり、所有する那智勝浦町に中華人民共和国のリゾート会社「香港BOAO」を紹介したのは、地元政界に強い影響力を持つ二階だと報じられている。跡地は賃貸後の2015年に無料で業者へ譲渡されるという異例の契約となっており、地元で批判が高まっている。グリーンピア跡地の大半が公募で請負先を決めている中では異例だった。その後、資金難を理由に開発計画を先延ばししようとしたペーパーカンパニーとも報じられた香港BOAOに対し、那智勝浦町議会は債務不履行を理由に契約解除を決めた。だが、違約金などで長引く可能性があり、そもそもこのような会社を紹介し、圧力をかけた二階に対する疑問の声は地元ですら多いという。香港BOAO側も那智勝浦町長も二階に紹介を受けたと証言しており、自分は関係ないとする二階の態度に疑問がもたれている。2008年9月22日晩から23日明け方にかけて東京都の妊婦の容体が急変し、受け入れ先が見つからなかった事件に関連して、「政治の立場で申し上げるなら、何よりも医者のモラルの問題だと思いますよ。忙しいだの、人が足りないだのというのは言い訳にすぎない」という見解を表明した。経済産業大臣在任中の2006年3月1日、第164回国会衆議院予算委員会第七分科会で吉井英勝(日本共産党)から福島第一原子力発電所など43基の原子力発電所における津波対策の不備を指摘され、冷却水喪失による炉心溶融の危険性を警告された。この時、二階は吉井に対策を約束したが、原子力安全・保安院によれば2010年時点で改善はされていなかった。部落差別の法規制を検討している。2015年11月16日、東京平河町のホテルで「人権課題解決に向けた和歌山県集会」と銘打った「人権フォーラム」が開かれた。約400人が参加した。実行委員長として挨拶に立った二階は、法規制について「結婚、就職問題で現に苦しんでおられる人が存在するのであればもう済んだ、終わったとか無責任な言葉で解決できる問題ではないと思っている」と話した。和歌山県御坊市
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