スポレート()は、イタリア共和国ウンブリア州ペルージャ県にある、人口約3万9000人の基礎自治体(コムーネ)。古代に起源を持つ都市で、中世には中部イタリア一帯を支配したスポレート公国(570年 - 1198年)の都であった。イタリア語以外では以下の名称を持つ。ペルージャ県南部、アペニン山脈の丘陵地帯に位置する。テルニから北北東へ約20km、フォリーニョから南へ約25km、リエーティから北北西へ約37km、県都・州都ペルージャから南南東へ約50km、ラクイラから北西へ約69kmの距離にある。隣接するコムーネは以下の通り。TRはテルニ県所属。スポレートはフラミニア街道(ローマ=リミニ間)の東の分線に位置する。ナルニで二つの道は分かれ、フォリーニョ近郊のフラミニ広場で再度合流する。古代の街道はノルチアへも通っていた。紀元前1世紀に建てられたサングイナリオ橋はいまもある。古代ローマ時代の広場は現在の市場の下に横たわっている。広大で幅の広い谷の出入り口に位置し、周囲を山に囲まれたスポレートは、長く戦略的・地理的な要所とされてきた。この地方に元々住んでいたの重要な町として、初めて現れた。ウンブリ族は、紀元前5世紀に自分たちの定住地の周囲に壁を築いた。これらの壁の一部は今も見ることができる。最初に歴史的にその名が現れたとき、スポレンティウム(Spolentium)という名で、紀元前241年に植民地の設置として知られた(Liv. Epit. xx; Vell. Pat. i.14)。キケロによればそれは ("Pro Balbo")、紀元前95年のラテン民族の植民地"colonia latina in primis firma et illustris"であった。トラシメヌス湖畔の戦いの後(紀元前217年)、スポレンティウムは、住民に反撃されたハンニバルによって攻撃された。第二次ポエニ戦争の間、市はローマの有力な同盟者であった。ガイウス・マリウスとルキウス・コルネリウス・スッラの内乱で多大な被害を受けた。スッラはクラッススに勝利すると、紀元前82年にスポレンティウム領土を没収した。この時以後、市はムニキピウムとなった。 ローマ帝国支配のもと、市は再び繁栄していたようだったが、歴史上に触れられていない。マルティアリスはスポレンティウム産のワインについて語っている。アエミリアヌスはモエシアで部下の軍人らによって皇帝の座に上がった。彼はローマからの途上、3、4ヶ月の治世後、スポレートで殺害された(253年)。コンスタンティヌス1世のと(326年)とユリアヌス帝の勅裁書(362年)は、スポレートから始まっている。4世紀から、キリスト教の司教座の基盤があった。スポレート最古の殉教者は伝説であるが、ローマ教皇リベリウスからの354年の司教カエキリアヌスへの手紙に、最初の殉教者の記載がみられる。スポレートはその高い標高のため、ヴァンダル族と東ゴート族との戦争の間、要所となっていた。市を囲む壁はトーティラによって撤去された(プロコピウス, "de Bello Gothico" iii. 12)。ロンゴバルド王国の元で、スポレートは自治権を持つ公国であるスポレート公国となった(570年)。スポレート公はイタリア中央部の相当な面積を治めていた。774年、公国は神聖ローマ帝国の一部となった。その他の封土とともに、強力なカノッサ女伯マティルデ・ディ・カノッサによって教皇グレゴリウス7世へスポレートは譲渡された。しかしこの時、自治を維持するための戦いが起きた。1155年、皇帝フリードリヒ1世によって市は破壊された。1158年、フリードリヒ1世はスポレート公国をエステ家のヴェルフ4世へ与えた。1123年、スポレートは教皇グレゴリウス9世によって最終的に占領された。皇帝オットー4世との領有をめぐる争いの後、1201年にオットー4世はスポレートを教皇へ与え教皇領となり、1213年より教皇庁の直接統治が始まった。教皇庁から派遣された知事(枢機卿)がスポレートを治めた。アヴィニョン捕囚の間、スポレートは1354年にアルボルノス枢機卿と教皇領を宗主国とする条約を結ぶまで、ゲルフとギベリンの抗争の犠牲となった。ナポレオンのイタリア征服後、1809年、スポレートは短命に終わったフランスのトラジメーヌ県の県都となった。5年たったナポレオン没落後教皇領へ戻された。1860年、勇ましい防衛の後、スポレートはリソルジメントのため戦う軍によって確保された。(2世界祭り) - スポレート音楽祭とも。1958年から始まった。スポレートは小さな町で、住宅とその他商品とサービスは当時相対的に高くなく、2つの屋内劇場があり、ローマ時代の劇場や多くの遺跡があったことから、芸術祭の開催地としてジャン=カルロ・メノッティによってスポレートは選ばれた。かなり首都ローマに近く、そして鉄道の連結が良好であった。これは重要な文化行事となり、毎年6月下旬から7月上旬に開催されている。フェスティヴァルはイタリア有数の文化発表の場に成長した。3週間の日程で音楽、演劇、ダンスが行われる。時には現代彫刻展示の場にもなり、アレクサンダー・カルダーとその他の芸術家らによって芸術作品がスポレートに残された。アメリカ合衆国で並行して開催されているのは、アメリカ・スポレート音楽祭といい、メノッティを巻き込んで1977年からサウスカロライナ州チャールストンで開かれている。スポレートとチャールストンは姉妹都市協定を結んで15年あまりであり、メノッティ家とアメリカ・スポレート音楽祭側の争いの後、1990年代初頭に分離が完了した。しかし、2007年2月のメノッティの死去に伴い、スポレートとチャールストンの両市が2つの祭りの再統合協議を始めた。スポレート市長マッシモ・ブルニーニは、2008年5月にチャールストンでの音楽祭開会式に出席した。短期間であるが、メルボルンでスポレート音楽祭が開催されたことがある。1992年、スポレート芸術シンポジウムが、世界中から才能ある人々をスポレートで学ばせる目的で始められた。現在15期目で、プログラムはオペラ、料理、ジャズ、執筆の学習、そして子供のキャンプがある。今までに3度、ジロ・デ・イタリアの会場となった。バレーボール・クラブチームのオリオ・ヴェントゥリ・スポレートは、1991/1992シーズンに優勝争いに加わっていた。スポレートには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。