ファエンツァ()は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約5万8000人の基礎自治体(コムーネ)。県内ではラヴェンナに次ぐコムーネ人口を有する。中世以来、陶器の生産地として知られる都市である。ルネサンス期にはマヨリカ焼きの技術を発展させるなど、ヨーロッパの陶芸において大きな役割を果たした。ファイアンス焼き(錫釉陶器、)はこの町の名に由来する。イタリア語以外では以下の名称を持つ。ラヴェンナ県南西部に位置するコムーネ。エミリア街道沿いのイーモラとフォルリの中間(フォルリから西北西へ15km、イーモラから東南東へ15km)に所在し、ロマーニャ地方の中央部にあたる。県都ラヴェンナからは西南西へ30km、州都ボローニャからは東南東へ48kmの距離にある。この場所に造られた最初の集落は Faoentia という名であった。伝承によれば、この名はエトルリア人とケルト人の言葉に起源を持ち、ラテン語で 、「神々の中で輝く」という意味を持っているという。ローマ人たちはこの地をファウェンティア()と呼び、都市を発展させた。紀元前82年には、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスがこの地で 率いる民衆派(ポプラレス)の軍勢を破っている。紀元1世紀後半以後、農業開発や産業発展(日常用の陶器や、レンガ、リンネル生産など)により、ファウェンティアはかなりの繁栄を見せた。542年、この地ではトーティラ率いる東ゴート族(東ゴート王国)が、東ローマ帝国の軍勢を破った(ファウェンティアの戦い)。中世初期、この都市は2世紀にわたって沈滞の時期を迎えたが、8世紀にはその繁栄を取り戻した。西暦1000年前後には、市政は司教からコムーネ(市民共同体)の手に移り、長い繁栄の時期を迎えた。1141年には選挙によって最初の執政官(コンスル)たちが選出され、1155年には司政官(ポデスタ)が市政府の頂点に立つこととなった。続いて生じた教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の抗争では、ファエンツァは当初皇帝派についていた。しかし1178年には立場を変え、教皇派のロンバルディア同盟に参加している。都市内部での権力抗争は、傭兵隊長(コンドッティエーレ)による権力掌握を導き、彼は数年の間ポデスタおよび「カピターノ・デル・ポポロ」 に就任した。14世紀初め、教皇派貴族のマンフレディ家は、以後2世紀にわたる都市統治をはじめた。15世紀後半のカルロ2世・マンフレディのもとで、都市の拡張は頂点を迎え、中心部の景観を一新した。カルロ2世の跡を継いだ弟のガレオットは1488年に妻によって暗殺され、幼い息子のアストッレ3世が跡を継いだが、1501年にチェーザレ・ボルジアがこの都市を占領、アストッレ3世は捕えられ、ローマで非業の死を遂げた。ルネサンス期の15世紀末から16世紀にかけて、この町ではマヨリカ焼きの生産によって急速に発展を遂げた。錫釉製陶はマヨルカ島からもたらされたが、この町の陶工たちは高温焼成による鮮やかな色彩の発色を可能とし、ルネサンス美術の影響を受けて鮮やかな色彩による絵付けが施されるようになった。町が政治的に衰退すると、陶工たちの多くがファエンツァを離れたが、その結果として技術が各地に伝えられることとなった。たとえば、フィレンツェ近郊にメディチ家が開いたカッファジョーロ窯やモンテルーポ、現在のマルケ州にあるカステルドゥランテ(ウルバーニア)やウルビーノなどの窯業地である。ファエンツァは、ヴェネツィア共和国による短い支配の時期を経て、1797年まで教皇領であった。ファエンツァの陶器産業はその後衰退した時期もあったが、20世紀初頭に伝統の復活が図られた。イタリア最大級の陶器コレクションを有する「国際陶器博物館」が設立されたのもこの時期である。ファエンツァには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。マジョリカ陶器で有名で、世界有数の陶芸美術館であるファエンツァ国際陶芸博物館がある。F1のチームスクーデリア・ミナルディ(現スクーデリア・トロ・ロッソ)の本拠地としても有名である。サッカークラブ・ファエンツァ・カルチョの本拠地でもあり、上記ミナルディチームの創設者のジャンカルロ・ミナルディがチェアマンを勤めていた(1997-2010)。おおむね北および西を優先し、通過点もしくはその近傍の地名を示す。〔 〕内は市外。ファエンツァには、以下の姉妹都市がある。
出典:wikipedia
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