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徳川綱重

徳川 綱重(とくがわ つなしげ)は、甲斐甲府藩主。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男。母は側室の夏(順性院)、養母は天樹院(千姫)、乳母は松坂局。母・夏が綱重を懐妊した際、父の家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院(千姫)を養母とした。1651年(慶安4年)、甲斐甲府藩15万石に封じられ、城地として甲府城を与えられ独立した大名となる。所領は甲斐、武蔵、信濃、駿河、近江に散在した。ただし、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していた。その後参議に補任がなされ、その唐名から甲府宰相の異名で呼ばれる。1654年(承応3年)、甲府浜屋敷(後の浜離宮)が建築される。1678年(延宝6年)、兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳の若さで死去した。墓所は東京都港区増上寺。1959年に移転改築された際、6月から9月に遺体の調査が行われたが、四肢骨から推定した身長は160.1センチメートルであった。この調査については、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』、『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』を参照。弟の綱吉が後に第5代将軍となったが、子がなかったため、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して第6代将軍となった。政治は、関孝和を抱えるなど学問に理解があり、甲府に湯島聖堂と同様の聖堂を作ろうとした。綱重自身が甲斐へ赴いたことはないが、綱重期には在国の家臣団が主導し、釜無川の治水における徳島堰の開削などが行われた。『武家勧懲記』によれば「綱重卿ハ自然ト権威備リ、剛勇有テ物毎好悪ノ意地ナク、行跡悠然トシテ、聡明叡智ノ御器量タリ」と評されており、その人望はきわめて高かったとされる。死因は酒害というが、不明である。※日付は旧暦※参考資料=系図纂要、大日本史料総合データベース徳川綱重 贈征夷大将軍の辞令(宣旨) 章弘宿禰記(訓読文)

出典:wikipedia

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