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硫黄鳥島

硫黄鳥島(いおうとりしま)は、沖縄県における最北端の島で、同県に属する唯一の活火山島である。14世紀後半から明王朝へ進貢する硫黄の産地として知られ、琉球王国が滅亡する19世紀中頃まで、琉球と明・清朝の朝貢関係を繋ぐ重要な島であった。1903年の久米島移住後も硫黄採掘が行われたが、1959年の噴火により住民は島外へ移住、1967年にも採掘従事者も撤退し、それ以降は完全な無人島となった。沖縄県に属する島では、特異な歴史を有する島である。徳之島の西約65km、久米島の北東約200kmの東シナ海に位置する。沖縄諸島の最北端であるが、地理的には奄美群島に近い。面積は2.50km²、周囲7.3km、標高212mの火山島である。かつては単に「鳥島」と言われ、島外へ移住した人々からは「元鳥島」と呼ばれる。また他に「琉球鳥島」、火山名として「沖縄鳥島」と称されたこともある。「硫黄鳥島」という名称は、1935年の木下亀城が著した論文などに見受けられ、それ以降この名称が広まったとされる。久米島北東沖に位置する鳥島(この島は「久米鳥島」ともいわれる)、または移住先の久米島・鳥島集落と区別するためだと思われる。琉球王国時代は泊地頭(現在の那覇市泊などを管轄した役職)の支配下に置かれたが、1879年に沖縄県、1896年に同県島尻郡に移管、その後1904年に移住先の具志川間切、1908年に具志川村の字名となる。2002年に具志川村と隣接する仲里村と合併し、2015年1月現在は久米島町に属する。硫黄鳥島は北西 - 南東方向に伸びる細長い島で、長さは約3km、幅約1kmにおよぶ。北側の硫黄岳火山体には島内最高峰の「方位」(「ホーイノ山」、「トリノトコヤギーノ山」とも)と「硫黄岳」が、南端にはグスク火山体の「前岳」がそびえる。全島の岩石のほとんどは安山岩質で、侵食に弱い火山砕屑岩で構成され、島の周囲は波蝕により海食崖に覆われている。東部の海岸から観察すると、様々な砕屑物により縞模様に見え、また海岸の砂浜は火成岩由来の黒色に帯びている。グスク火山体の中央にある「グスク」と島北西端に位置する「フツヤ山」は地下から押し上げられた溶岩で形成された山である。またマグマが隙間に貫入してできた岩脈が島南部に見受けられ、中には周囲が削られ岩脈が三角形状に露出した岩が存在する。硫黄鳥島は、北西の硫黄岳火山体と南東のグスク火山体の2つの火山により構成されている。地質学で島全体は硫黄鳥島火山と呼ばれ、火山噴火予知連絡会により火山活動度ランクBの活火山と分類されている。硫黄鳥島は九州の阿蘇山・桜島からトカラ列島へ続く霧島火山帯の最南端に属し、約数万年前の更新世後期に火山活動を開始したと考えられる。硫黄岳火山は火山活動が活発で、南西に向いた高さ約100mの崖から常時硫黄を含む噴気を上げ、崖下には乳白色に呈した火口湖が見られる。一方、グスク火山は硫黄岳と比較して火山活動は穏やかであるが、山体は島の3分の2を占める。2つの外輪山と中央火口丘を有する三重式の火山で、外側の外輪山の直径は約1.5kmにおよぶ。以下の表に硫黄鳥島の噴火活動記録を示す。過去に幾度もなく噴火に伴う降灰、爆発鳴動や地震を引き起こしてきた。最近では、1903年に大鳴動と地震により硫黄採掘者を除く島民全員が久米島へ移住、1959年にも噴火によって全島民が島外に移住している。そして1967年も噴火により出稼ぎ採掘員が撤退し、それ以降は無人島と化している。硫黄鳥島のほとんどは火山砕屑物で構成されていることから、海底火山による噴出物の堆積により島が形成されたと考えられる。大陸との陸続きの歴史がなかったため、動植物の種類は非常に少ない。それらは風や鳥または流木などによって運ばれたか、人間の手によって持ち込まれたのが繁殖した可能性が高い。哺乳類に関しては人為的に持ち込まれ、野生化したネズミとヤギが確認された。爬虫類は、小型のトカゲが発見されたのみで、また島内にハブは生息していない。鳥類はセッカのみが繁殖し、他にクロサギとミサゴが飛来している。昆虫はシジミチョウ(大型のアゲハチョウは確認されず)、カタツムリ、アリ、クモの仲間が生息している。現在も噴気活動している硫黄岳火山には植物がほとんど生育していないが、グスク火山全体は緑に覆われている。沖縄県では島内のみに分布するマルバニッケイや、県内では生息域が限られているシャシャンボなどの低木が生育している。硫黄岳火口壁にはハチジョウススキが群生しているのみである。集落跡の平坦地には、ススキ・チガヤなどが混生する草原が広がる。また人間により植え付けられたリュウキュウマツとシークァーサーが、さらにかつての島民が栽培したと思われるタバコも見受けられる。硫黄鳥島は古くから硫黄の産地として知られ、明への貿易重要品目の一つであった。1534年の『使琉球録』には「硫黄山」、『海東諸国紀』には「鳥島」、徐葆光の『中山伝信録』に「土里臣馬」と記されている。また、アントワーヌ・ゴービルの著書に「硫黄山 ("Montagne de soufre")」、航海者バジル・ホールの探検記には「硫黄島 ("Sulphur Island" )」と表記され、白煙を噴く硫黄鳥島の挿絵が描かれている。島への定住時期は不明で、14世紀後半の察度王統以前と思われる。1634年(正保3年)の『正保国絵図』には「人居有り」と記載され、この頃は確実に島民は存在していた。1376年(洪武9年)に中山王・察度が硫黄4千斤を明へ進貢したのが始まりで、多いときには1年で4隻合計7万斤を朝貢した。硫黄鳥島から採掘された硫黄は現在の那覇市の泊(とまり)まで運搬され、崇元寺の西に位置していた硫黄蔵に保管された。原鉱硫黄を約2 - 3万斤を進貢していたが、船の積載量不足により嘉靖年間(16世紀中頃)に精錬硫黄に変更され、1万数千斤にまで軽減し進貢している。硫黄精錬は「硫黄蔵」と那覇港敷地内の「硫黄城」で行われ、琉球処分まで作業は続いた。1609年に琉球へ侵略した薩摩藩は、与論島以北の島々を領地としたが、中国との進貢貿易を存続させるため、硫黄鳥島を琉球王府の管轄のままにした。泊村を統括する泊地頭の管轄下に置かれ、島民から選出された役人数人と共に、島内の貢納管理と治安秩序の維持に務めた。毎年島民は硫黄1万6千斤(9.6トン)と摺貝800枚の上納義務を課せられたが、代わりに夫役免除と糧米支給がなされた。1666年には飯米の支給量が増量され、また1742年にノロの食糧も倍増支給された。こうした優遇政策に惹かれた島外民が移住し、人口は近世中後期の101人から1903年には676人までに増加した。しかし硫黄鳥島は火山島で樹木が無く、飲水は専ら天水に頼らざるを得なく、旱魃による渇水に苦労した。そこで1810年に島民らが井戸を掘り当て、首里王府から恩賞を授かった。硫黄鳥島は噴火による災害が度々発生している。実際に1631年に死者多数、1829年12月1日に島民が徳之島へ避難している。また廃藩置県後の1882年に飢饉が発生した際に、久米島への移住を推奨したが、島民はそれを拒否した。しかし、人口増加の一方で島内の農作物の生産は追いつかず、島民の生活は益々困窮した。1903年4月に硫黄採掘坑が爆発、日本政府・沖縄県・地震調査会が調査により、島民の集団移住を決断した。同年10月に島民らは移住に合意し、同月と翌年2月に硫黄採掘員93人を除く島民528人を移住させた。彼らは当時の久米島具志川間切大田の仲泊海岸付近に移住、「鳥島」という名の集落を新設した。久米島への移住後も、42世帯が硫黄鳥島に再び入植した。溶岩で形成されたグスク山から石臼の原料となる安山岩が採掘され、戦前で使用された沖縄県内の石臼はすべて硫黄鳥島産であった。戦前には国策会社による硫黄採掘が行われ、人口は600人にまで達し、小中学校・診療所・役場も設置された。しかし、1959年の噴火により全島民86人は那覇などに移住、1967年も噴火により出稼ぎで来島した採掘員が撤退し、それ以降は完全な無人島となった。硫黄鳥島の周囲は断崖で、かつての島民が設置した突堤が南部の東西両海岸に位置しているが、船舶が接岸できる港は無い。大木(2002年)によると、東側の突堤は老朽化し、途中小さな艀に乗り換えて上陸したという。集落跡がグスク火山の中央火口丘の南にあるが、草木が繁茂しているのみで、他に雨水タンク、家屋の壁、硫黄を運搬する際に使用したトロッコのレール束が残存しているという。移住前の久米島「鳥島」集落はソテツやアダンが生い茂る荒野であったが、近隣住民が開拓し家屋を建築した。当集落に渡った島民らは、当初漁業に従事する者が多く、大正末期までカツオ漁業を行っていた。その後、鳥島集落の港に多数の貨客船が発着すると、久米島島内における交通の要所として、商店や旅館が立地するようになった。1969年に同集落の東海岸に完成した埋め立て地に商業地域が形成された。集落西に位置する七嶽(ななたき)神社は、硫黄鳥島の7つの御嶽から採取した砂を壺に納め、それらを合祀し、毎年移住記念日の2月11日に例祭を行っている。鳥島集落の方言は久米島や沖縄本島中南部で話される方言と異なり、徳之島の方言との共通点が多い。

出典:wikipedia

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