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巻波 (駆逐艦)

巻波(まきなみ)は、日本海軍の駆逐艦 。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の5番艦である。艦名は砕波の一種に由来し、海上自衛隊の護衛艦2隻(初代まきなみ、2代まきなみ)に引き継がれた。1939年度(マル4計画)仮称第120号艦として舞鶴海軍工廠で建造。1941年(昭和16年)10月25日、三菱重工長崎造船所で建造の秋月型駆逐艦に「照月」、舞鶴海軍工廠の夕雲型駆逐艦に「巻波」の艦名が与えられる。同日附で2隻は秋月型・夕雲型に類別された。12月5日、舞鶴海軍工廠で夕雲型1番艦「夕雲」が竣工、翌日舞鶴を離れた。12月27日、「巻波」は進水。同日附で舞鶴鎮守府籍となる。1942年(昭和17年)6月11日、舞鶴海軍工廠で秋月型駆逐艦1番艦「秋月」が竣工。同年6月から8月にかけての舞鶴工廠は、「秋月」以外にも秋月型4番艦「初月《125号艦》」(4月3日進水)、夕雲型駆逐艦複数隻(巻波、第340号艦《早波》、第341号艦《浜波》、第342号艦《沖波》)、島風型駆逐艦「島風」(7月18日進水)の建造・艤装工事を実施。また入渠艦・損傷艦(那珂、大潮、薄雲《7月31日完成》、霞《8月13日到着》、天龍《6月15日完成》、龍田《6月15日完成》、名取《7月10日完成》、利根《ミッドウエー作戦前後整備》、筑摩《ミッドウェー作戦前後整備》)等の修理と整備を行っていた。6月30日、日本海軍は睦月型駆逐艦6番艦「水無月」水雷長、軽巡「大井」水雷長、白露型駆逐艦4番艦「村雨」艦長、吹雪型8番艦「白雲」艦長等を歴任した人見豊治中佐(海軍兵学校50期)を巻波艤装員長に任命する(後任の白雲艦長は佐藤重吉少佐)。同日附で艤装員事務所を設置。7月15日、「巻波」は予行運転中に機関故障を起こし、竣工予定を延期した。8月18日、竣工。艤装員事務所を撤去。同日附で人見艤装員長は巻波駆逐艦長(初代)となる。「巻波」は警備駆逐艦に指定された。8月20日、舞鶴を出撃。呉に立ち寄り、魚雷を搭載。横須賀に回航される。だが第二航空戦隊(飛鷹、隼鷹)の指揮を受けるように連合艦隊から下令があり、8月31日に呉到着。同日、横須賀では姉妹艦「高波」が竣工した。1942年(昭和17年)8月31日、日本海軍は夕雲型駆逐艦2隻(長波、巻波)により第31駆逐隊を編制。初代駆逐隊司令には第21駆逐隊司令清水利夫大佐(海軍兵学校46期)を任命(後任の第21駆逐隊司令は第1掃海隊司令天野重隆大佐)。司令駆逐艦は「巻波」。第31駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将、旗艦《当初神通、9月26日より五十鈴》)に編入された。さらに金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)と第31駆逐隊(巻波、長波)で前進部隊待機部隊を編制、内海西部で訓練を実施した。9月6日、第三戦隊司令官栗田健男中将(海軍兵学校38期)指揮のもと4隻(第三戦隊《金剛、榛名》、31駆《巻波、長波》)は豊後水道を出撃。9月10日にトラック諸島に到着した。連合艦隊司令部(旗艦「大和」)で打ち合わせを行い、並行して補給を受ける。翌9月11日にトラックを出撃。13日、第二艦隊(司令長官近藤信竹中将、旗艦「愛宕」)の主力に合流した。ソロモン諸島東方海域で行動。9月23日にトラックに帰投。9月29日、妙高型重巡洋艦4番艦「羽黒」(第五戦隊)が修理のため内地に戻ることになり、「巻波」は同艦をトラック泊地近海まで護衛した。10月1日、第31駆逐隊に夕雲型6番艦「高波」が編入され、同隊は3隻編制(長波、巻波、高波)となる。清水司令は司令駆逐艦を本艦から「高波」に変更した。10月11日、前進部隊(第二艦隊)はトラックを出撃。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(海軍兵学校41期)が指揮する第二水雷戦隊(軽巡五十鈴《二水戦旗艦》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)は、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対し艦砲射撃を実施予定の第三戦隊(金剛型戦艦2隻《金剛、榛名》〔司令官栗田健男中将・海兵38期〕)を護衛する。応援の第19駆逐隊と共に三戦隊の10月14日飛行場砲撃(ヘンダーソン基地艦砲射撃)を援護した後、三戦隊・二水戦は前進部隊(第二艦隊)に合流。第15駆逐隊以外の二水戦各艦は第五戦隊(妙高、摩耶)を護衛して再びガダルカナル島へ突入。二度目のヘンダーソン基地砲撃作戦に参加した。発射弾数は妙高476発、摩耶450発、第31駆逐隊253発と記録されている。10月26日の南太平洋海戦における第二水雷戦隊は、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦「愛宕」)に所属し、第四戦隊(愛宕、高雄)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、摩耶)、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母隼鷹)と共にアメリカ軍機動部隊と交戦した。10月30日にトラックに帰投した。1942年(昭和17年)11月上旬、第二水雷戦隊はショートランド泊地へ進出し、5日附で田中頼三第二水雷戦隊司令官は橋本信太郎第三水雷戦隊司令官(旗艦「川内」)より増援部隊指揮官の職務を引き継ぐ。第二水雷戦隊は再びガダルカナル島への強行輸送作戦に従事することになった。11月6日深夜、甲増援隊(第15駆逐隊《親潮、早潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《巻波、高波、長波》、第10駆逐隊《夕雲、風雲》)はショートランドを出撃。途中でアメリカ軍機の空襲を受け、駆逐艦2隻(高波、長波)が若干の損傷を受けた。輸送隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した。11月10日朝、第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐が指揮する駆逐艦5隻(第10駆逐隊《夕雲、巻雲、風雲》、第31駆逐隊《巻波》、第24駆逐隊《涼風》)は第十一戦隊弾着観測員と陸軍兵・物資を載せてショートランド泊地を出撃。魚雷艇を撃退し、輸送任務も成功。11日午前中に帰投した。この頃、ガダルカナル島の戦いは一つの山を迎えつつあり、第三十八師団の一部が乗った輸送船団をガダルカナル島へ送ることとなった。11月13日以降、増援部隊(早潮《田中司令官座乗》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月)は輸送船11隻を護衛し、ガダルカナル島に向かった(第三次ソロモン海戦)。だがアメリカ軍機の波状攻撃を受け輸送船6隻が沈没、1隻が大破して駆逐艦2隻(天霧、望月)護衛下で退避する。田中司令官は残存輸送船4隻と駆逐艦9隻を指揮してガ島への進撃を続行。11月15日未明に輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)はガダルカナル島タサファンログ泊地に座礁揚陸を強行するが、アメリカ軍機と米艦艇の攻撃で全滅した。増援部隊各艦は15日22時になりショートランド泊地へ戻った。ショートランドに帰投後、息つく暇も無くドラム缶輸送(鼠輸送《東京急行》)に参加。11月22日(途中引返し)と24日午前3時、駆逐艦2隻(巻波、羽風)と輸送船3隻(千早丸、神威丸、寶運丸)はショートランド泊地を出撃。同日19時ムンダ(ニュージョージア島)着。25日午前2時30分出発、夕刻ショートランド泊地に帰投した。米潜水艦襲撃時には、「羽風」と共に応戦している。11月30日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦長波)の指揮下、駆逐艦8隻(警戒隊《長波、高波》、輸送隊《黒潮、親潮、陽炎、巻波、江風、涼風》)という戦力はドラム缶輸送任務のためショートランド泊地を出撃。ガダルカナル島へ向かう。これをカールトン・H・ライト少将率いるが迎撃、アイアンボトム・サウンドにおいて夜間水上戦闘となった(ルンガ沖夜戦)。「巻波」は魚雷を発射しなかった。日本側は駆逐艦1隻(高波)が沈没し、アメリカ側は重巡ノーザンプトン ("USS Northampton, CA-26")を喪失、重巡3隻(ミネアポリス、ペンサコラ、ニューオーリンズ)も大破という損害だった。一方でドラム缶輸送作戦自体は失敗し、外南洋部隊は第二次ドラム缶輸送作戦を行うよう指導する。本戦闘で第31駆逐隊司令駆逐艦「高波」が沈没。清水司令が戦死(翌年、少将進級)。第31駆逐隊は2隻編制(長波、巻波)となった。12月3日、田中二水戦司令官(長波)指揮下、第二次輸送作戦(第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第31駆逐隊《巻波、長波》、第24駆逐隊《江風、涼風》、第4駆逐隊《嵐、野分》、第27駆逐隊《夕暮》)が実施されるが、「巻波」は空襲により損傷した。戦死者7名。投下ドラム罐1500個のうち回収されたのは310個だった。「巻波」は修理のためラバウルに回航されている。12月16日、第一次第一回ムンダ輸送のため、駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)はムンダ(ニュージョージア島)輸送を実施。揚陸作業中に夜間空襲を受け「陽炎」が小破した。12月21-22日、第17駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(谷風、浦風、巻波、陽炎)はムンダ輸送を実施。つづいて駆逐艦4隻(江風、涼風、巻波、陽炎)をもって第二号哨戒艇(旧駆逐艦《灘風》)を護衛、同艦をガ島に擱座させようという12月27日のラバウル出撃は、ガ島に向け航行中に中止となる。各艦はショートランドを経てラバウルに戻った。12月29日附で第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将から小柳冨次少将(海軍兵学校42期)に交代。30日、小柳の着任にともない田中は退隊。翌年2月5日附で舞鶴警備隊司令および海兵団長、10月1日附でラングーンの第十三根拠地隊司令官となった。新任の第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は、旗艦を「長波」に指定した。増援部隊各艦はラバウルからショートランド泊地へ進出。1943年(昭和18年)1月2日午前11時、駆逐艦10隻(警戒隊《長波、江風、涼風、荒潮》、輸送隊《親潮、黒潮、陽炎、磯波、電》)で出撃、途中の空襲で「涼風」が損傷、「電」に護衛されて避退した。他に被害は出ず、輸送作戦は成功した。1月4日から7日にかけて、駆逐艦4隻(長波、巻波、江風、荒潮)はショートランド泊地とラバウルを往復、ラバウルでドラム罐を積み込むとショートランド泊地に戻った。また駆逐艦「大潮」(第8駆逐隊司令山代勝守大佐座乗)もドラム罐を搭載してショートランドに到着、増援部隊に編入される。1月10-11日、外南洋部隊増援部隊指揮官小柳冨次第二水雷戦隊司令官(旗艦「黒潮」)が指揮する駆逐艦8隻(警戒隊《黒潮、江風、初風、時津風》、輸送隊《嵐、巻波、大潮、荒潮》)はガ島への第六次輸送作戦を実施するが、米軍魚雷艇の攻撃で第16駆逐隊の駆逐艦「初風」が大破する。有賀幸作第4駆逐隊司令(嵐座乗)の指揮下、駆逐艦3隻(嵐、江風、時津風)はガダルカナル島からショートランド泊地まで「初風」を護衛。小柳少将は有賀司令と各艦を賞賛した。本作戦をもって小柳二水戦司令官は増援部隊指揮官の職務を第十戦隊司令官木村進少将(旗艦「秋月」)に引き継ぎ、「長波」に乗艦してトラック泊地に戻った。駆逐艦4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は艦の疲弊が激しく、最前線で行動するのは難しかったからである。1月11日、第六次ガダルカナル島輸送作戦を終えた駆逐艦4隻(江風、巻波、大潮、荒潮)はニューギニア方面護衛部隊に編入され、ショートランド泊地を出発してラバウルへ向かった。1月中旬、外南洋部隊各艦はソロモン諸島の防備強化に協力、輸送船護衛や駆逐艦輸送に従事する。1月16日、それまで第二水雷戦隊旗艦だった長良型軽巡2番艦「五十鈴」は第十六戦隊へ転出、第二次ソロモン海戦での損傷修理を終えた川内型軽巡2番艦「神通」が第二水雷戦隊に復帰する(1月23日トラック泊地着)。1月12日から24日まで、ニューギニア島ウェワク輸送作戦に参加する。1月20日、第31駆逐隊に夕雲型7番艦「大波」が編入され、同隊は3隻(長波、巻波、大波)となった(大波は25日トラック泊地着)。大波駆逐艦長吉川潔中佐は、人見(巻波艦長)とは海軍兵学校第50期の同期である。1月21日、輸送船団救援中の第十戦隊旗艦「秋月」が米潜水艦に雷撃されて損傷。その際に木村少将(第十戦隊司令官)が負傷したため、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は21日附で第十戦隊司令官に任命された。後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将(海軍兵学校42期)。小柳少将は1月23日に退隊してラバウルへ移動。伊崎司令官は1月30日に着任し、「神通」に将旗を掲げた。日本海軍はガダルカナル島撤退作戦のため、外南洋部隊の駆逐艦を強化(長月、文月、皐月、第10駆逐隊、雪風等)、また第三水雷戦隊(三水戦司令部、川内、白雪)を南東方面部隊に編入した。1月25日、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将(海軍兵学校41期)は「白雪」に乗艦してラバウルからショートランド泊地に移動(川内はカビエン回航)、27日ショートランドに到着すると「巻波」に将旗を掲げた。第31駆逐隊(長波、巻波、大波)は分散配置されていた。1月29日のレンネル島沖海戦やガ島航空撃滅戦を経て、日本軍はガ島撤収作戦を発動。第一次撤収部隊(駆逐艦20隻)の兵力部署は、三水戦司令官指揮下のエスペランス隊(警戒隊〔三水戦旗艦《巻波》、一番隊《第4駆逐隊司令有賀幸作大佐、舞風、江風、黒潮》、二番隊《白雪、文月》〕、輸送隊〔第十戦隊司令官、第10駆逐隊《風雲、巻雲、夕雲、秋雲》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》〕)、第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐指揮下のカミンボ隊(第16駆逐隊《時津風、雪風》、第8駆逐隊《大潮、荒潮》、三番隊《皐月、長月》)、カビエン(ニューアイルランド島)待機の支援隊(川内)となる。31日、ショートランド泊地を出撃するが南東方面部隊の命令により一時中止。2月1日午前9時30分、第一次撤収部隊は再度出撃、「巻波」は第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将の旗艦としてガダルカナル島に向かった。同日夕刻、零戦18の援護下で米軍機(戦闘機16、艦爆12)と交戦中、艦右舷に爆弾1発が命中して機関部損傷、航行不能となる。36名が戦死。戦傷者多数。十戦隊司令官小柳冨次少将は「我今ヨリ指揮ヲ執ル」を打電、駆逐艦3隻(巻波、文月、白雪)を残して進撃した。橋本少将は旗艦を「巻波」から「白雪」に変更。睦月型7番艦「文月」に「巻波」曳航を命じた。橋本司令官は夕雲型2隻(夕雲、巻雲)を輸送隊から警戒隊に編入したが、「巻雲」は機雷により大破、自沈処分された。その他に被害はなく、第一次撤収作戦は成功。山本五十六連合艦隊司令長官は小柳少将に「巻波がやられ、『我今より指揮を執る』の電報に接したときは、この先どうなるかと心配した」と語ったという。「文月」に曳航された「巻波」は2月2日10時30分、ショートランドに到着した。同地で応急修理工事を実施。2月12日、「高波」沈没時に戦死した清水第31駆逐隊司令の後任として、香川清登大佐(海軍兵学校46期)が補職。香川司令は、31駆司令駆逐艦を「大波」に指定する。2月25日、夕雲型8番艦「清波」(駆逐艦長有馬時吉中佐)が第31駆逐隊に編入され、同駆逐隊は夕雲型定数4隻(第1小隊《大波、清波》、第2小隊《巻波、長波》)を揃えた。巻波艦長の人見中佐、大波艦長の吉川中佐、清波艦長の有馬中佐、長波艦長の隈部伝中佐(11月25日免職)は、4人とも海軍兵学校50期の同期生である。2月27日、本艦は輸送船を護衛してラバウルを出発。3月2日以降はトラックで応急修理を行った。「長波」は先に舞鶴に戻った。3月29日、本艦の舞鶴修理が決定。4月15日、「巻波」は給糧艦「間宮」と輸送船「総洋丸」を護衛してトラック泊地を出発。2隻(間宮、総洋丸)と分離後、本艦は4月24日舞鶴に到着した。同日から9月14日まで、本艦は舞鶴海軍工廠で本格的な復旧工事を実施した(後述)。1943年(昭和18年)4月24日、本艦は舞鶴に到着。損傷各艦(霞、不知火、初春、太刀風《5月15日到着》、阿武隈《4月17日着、5月17日完成》、多摩《5月4日着、20日発》、名取《6月1日着》)等と共に修理に従事する。機関部の損傷は深刻で、人見(巻波艦長)は舞鶴海軍工廠で修理中の「不知火」用機関を流用するよう提案している。各方面は対応に苦慮することになった。4月・5月・6月当時の舞鶴工廠は、島風型「島風」が竣工(5月10日)。夕雲型駆逐艦複数隻(早波《7月30日竣工》、浜波《4月18日進水》、沖波《7月18日進水》、早霜《第345号艦》、冬月《第361号艦、5月8日起工》)の建造が進んでいた。5月20日、満潮型「霞」(第四予備駆逐艦)の修理がおおむね完了(燃料加熱装置搭載と試験のため6月30日完成、7月18日出撃)、同日附で巻波駆逐艦長人見豊治中佐は、巻波艦長(本職)に加えて不知火・初春艦長の兼務を命じられ、山名寛雄少佐(霞駆逐艦長)は(霞、不知火、初春)艦長兼務を解かれた。機関部修理と並行して電波探信儀(レーダー)搭載の工事を実施。本艦修理中の7月12日、コロンバンガラ島沖海戦に参加した川内型軽巡2番艦「神通」(第二水雷戦隊旗艦)が沈没。第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将以下、二水戦司令部は全滅した。日本海軍は7月20日附で第四水雷戦隊を解隊し、第四水雷戦隊司令官高間完少将(海軍兵学校41期)を第二水雷戦隊司令官に任命。同隊司令部および戦力(軽巡長良、駆逐艦時雨、夕暮、有明、五月雨等)を第二水雷戦隊残存兵力(第31駆逐隊《清波、大波、長波、巻波》、第24駆逐隊《涼風、海風、江風》、白露型《五月雨》、島風型《島風》)と統合することにした。統合直後の7月20日、夜戦部隊に所属してニュージョージア島の戦いに従事していた駆逐艦2隻(清波《第31駆逐隊》、夕暮《第27駆逐隊》)は夜間空襲を受けて沈没。第31駆逐隊は3隻(長波、巻波、大波)となった。8月になると、長良型軽巡洋艦2隻(長良、名取)や「長波」(キスカ島撤退作戦を終え8月7日到着)「大波」(8月12日到着)等も、舞鶴海軍工廠で本艦と共に修理に従事する。9月10日、人見(巻波艦長)は不知火・初春艦長兼務を解かれ、巻波艦長のみとなる。後任の初春艦長は海軍水雷学校教官飛田清少佐(後日、飛田は「長波」艦長。長波沈没より生還)。「巻波」の修理は9月15日に完了。第31駆逐隊の夕雲型3隻(長波、巻波、大波)は順次舞鶴を離れた。1943年(昭和18年)9月15日の修理完成後、「巻波」は舞鶴から上海に回航(途中、清澄丸を護衛、19日着)。第十七師団輸送の第一次丁二号輸送に参加する。丁二号輸送船団は9月24日に上海を出発。10月2日にトラック着。10月5日ラバウルに進出し、輸送任務を終えた。10月9日にトラックに帰投後して任務を終了。翌日、第二水雷戦隊(能代《二水戦旗艦》、第31駆逐隊《大波、長波、巻波》、第24駆逐隊《海風、涼風》、《島風、白露》)は戦技訓練を行う。翌日、二水戦の駆逐艦2隻(長波、涼風)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してトラックを出発、ラバウルに向かった。トラック泊地に残った巻波・島風以下二水戦各艦は、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)と行動をともにしてエニウェトク環礁に進出。11月1日、連合軍はラバウルに対する攻勢を強化するため、ブーゲンビル島に飛行場を建設するため上陸作戦を敢行した(ブーゲンビル島の戦い)。この脅威に対処するため、連合艦隊はトラック泊地に待機している第二艦隊や第三艦隊(機動部隊)の艦艇をラバウル方面に派遣することになった。11月3日、輸送任務のためトラック泊地を出撃、5日カビエン着後はラバウルに回航された。到着後は第十戦隊(司令官大杉守一少将)の指揮下に入って、ブーゲンビル島タロキナ輸送に、支援隊(第一支援隊《阿賀野、若月、風雲、浦風》、第二支援隊《能代、早波、長波》)、挺身輸送隊(警戒隊《大波、巻波》、輸送隊《天霧、文月、卯月、夕凪》)として参加した。11月7日にラバウルへ帰投、ブカ島輸送を終えた駆逐艦「時雨」も同港に到着した。11月11日、ラバウルは大規模空襲を受け、第二水雷戦隊は夕雲型駆逐艦10番艦「涼波」(第32駆逐隊)が沈没。姉妹艦「長波」が大破・航行不能という損害を出した。航行不能となった「長波」を「大波」が曳航しようとしたが、ワイヤーが大波スクリューに絡まったため、「長波」の曳航は「巻波」が担当する。他の第二水雷戦隊各艦に被害はなかったが、阿賀野型軽巡洋艦1番艦「阿賀野」(第十戦隊旗艦)が艦尾に被雷。他に駆逐艦2隻(浦風、若月)が軽微の被害を受けた。同日夕刻、第二水雷戦隊・第十戦隊各艦(軽巡《能代》、駆逐艦《早波、藤波、五月雨、風雲、若月》)は大型艦2隻(摩耶、長鯨)を護衛してラバウルを出発、トラックへ向かった。この後、能代隊(能代、藤波、早波)は米潜水艦スキャンプから雷撃されて航行不能となった「阿賀野」(護衛艦「浦風」)の救援に向かった。二水戦・第27駆逐隊(時雨、白露)も既にトラック泊地へ帰投しており、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波《航行不能状態》)となった。他の第二水雷戦隊各艦(能代、島風、第24駆逐隊《海風、涼風、満潮》、第32駆逐隊《早波、玉波、藤波》、第27駆逐隊《時雨、白露、五月雨、春雨》)は、各方面に分散して行動していた。11月15日より、第31駆逐隊(大波、巻波、長波)は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治少将、旗艦「夕張」)の指揮下に入る。当時の第三水雷戦隊は、第31駆逐隊(大波、巻波、長波)の他に駆逐艦(天霧、夕霧、文月、水無月、皐月、卯月、夕月、夕凪、秋風)等が所属していたが、護衛任務や修理のためラバウル不在の艦もあった。11月19日、夕張艦長(舟木守衛大佐)の指揮下、2隻(夕張、巻波)はガロベ(ニューブリテン島)輸送作戦を実施。日本軍はアメリカ軍の次の目標をブーゲンビル島北西のブカ島とにらみ、戦力強化のため第十七師団の一部をラバウルより輸送することとなった。1943年(昭和18年)11月21日、第31駆逐隊司令を指揮官とする第一回輸送部隊(警戒隊《大波、巻波》、輸送隊《天霧、夕霧、卯月》)はラバウルを出撃。22日到着。第一次輸送は、妨害を受けることなく成功した。11月24日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将の指揮下、第31駆逐隊司令香川清登大佐ひきいる日本軍駆逐艦部隊5隻は、輸送隊(指揮官第11駆逐隊司令山代勝守大佐:天霧、夕霧、卯月)、警戒隊(指揮官第31駆逐隊司令香川大佐:大波《司令駆逐艦》、巻波)という編制でブカ島への輸送作戦を実施する。警戒隊・輸送部隊は第二次輸送のためラバウルを出撃。魚雷艇9隻と交戦して撃退(米軍側に被害なし)。輸送隊はブカ島に兵員、物資を陸揚げし、代わりにラバウルに引き上げる海軍の航空要員600名を乗せて、22時45分にブカ島を離れた。ラバウルに向けて航行中の11月25日午前0時、ニューアイルランド島セント・ジョージ岬東方海上でアーレイ・バーク大佐率いる(フレッチャー級駆逐艦5隻)にレーダー(SG一型水上レーダー)で捕捉され、輸送隊に先行していた第31駆逐隊(二二号水上見張洋レーダー装備)は先制魚雷攻撃を受けた(セント・ジョージ岬沖海戦)。駆逐艦オズボーン士官は「駆逐艦士官の夢が実現したような理想的な奇襲作戦だった」と記録している。日本側は巡洋艦戦隊・駆逐艦戦隊・魚雷艇に襲撃されたと判断している。「大波」は轟沈。「大波」沈没と共に香川清登大佐(第31駆逐隊指令)と大波駆逐艦長吉川潔中佐は戦死した(2人とも少将に進級)。「巻波」は魚雷の命中により左側に20度傾斜。やがて接近してきたアメリカ軍の駆逐艦 ("USS Converse, DD-509") および ("USS Spence, DD-512") からの砲雷撃を受けた。「巻波」が何とか発射した反撃の魚雷1本はコンバースに命中したが、爆発しなかった。コンバースからの魚雷5本を含めて乱打された「巻波」は未明1時ごろに沈没していった。駆逐艦長人見豊治中佐以下221名が戦死。巻波の生存者29名(戦史叢書では28名)はカッターに乗り移り、ラバウル南西45浬地点に漂着、帰還する事ができた。他に、米軍駆逐隊に追撃・捕捉された「夕霧」も沈没。輸送隊2隻(天霧、卯月)のみ生還した。本海戦は、太平洋戦争における日米の技術格差と敗因を象徴する戦いとなった。12月3日、ラバウルに取り残されていた姉妹艦「長波」は駆逐艦「水無月」に曳航され、軽巡「夕張」と駆逐艦「文月」の護衛下でトラック泊地へ向かった。1944年(昭和19年)1月25日、「長波」は軽巡洋艦「長良」に曳航され、駆逐艦2隻(卯月、夕凪)に警戒されて呉に到着。長波修理中の2月10日、夕雲型駆逐艦2隻(巻波、大波)は帝国駆逐艦籍、夕雲型駆逐艦のそれぞれから除籍された。また長波1隻のみとなっていた第31駆逐隊には、夕雲型駆逐艦3隻(沖波、岸波、朝霜)が編入され、同隊は定数4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)を回復した。

出典:wikipedia

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