黒鍬(くろくわ)は戦国時代や江戸時代に土木作業を行う者達を指す。語源に当たる黒鍬は通常の鍬より刃が厚くて幅が広く、刃と柄の角度が60~80度に開いている。さらに、柄が太く短くできていることで力を加えやすく、打ち下ろした時に深く土に食い込むようにできている鍬の事である。もともとは尾張の大野鍛冶が作っていた柄を黒く塗った土木作業用の特殊な鍬だったが、開墾用の打ち鍬として広く普及した。別名「たち鍬」とも呼ばれ、田の土をすくい上げ、畔に塗りつける作業に向くことから畔鍬とも表記する。戦国大名に仕えた黒鍬は小荷駄隊に属して、陣地や橋などの築造や戦死者の収容・埋葬などを行った。後世の戦闘工兵の役割を担っていたと考えられている。江戸幕府の組織としての黒鍬(組)も三河松平氏時代からの譜代の黒鍬から構成されており、若年寄支配で小者・中間として江戸城内の修築作業や幕府から出される諸令伝達や草履取り等の雑務に従事した。食禄は1人当たり12俵1人扶持が原則で役職に付くと、役高が加算された。当初は苗字帯刀も許されず、例外的に護身用の脇差だけを持つ事が許されたが、三河譜代の黒鍬については、世襲が許され、後には御家人の最下層格の扱いを受けた。黒鍬の長である黒鍬頭(くろくわかしら)は、役高100俵の待遇を受けた。定員は天和年間の定制は200名であったが、享保年間には430名となり、幕末には470名にまで増員された。こうした人数の拡大に対応するために、幕末には3組に分割され、黒鍬頭に任命された組頭(役高30俵1人扶持)が置かれた。幕末期には新設された役職の補充として見廻組や撒兵へ移動となり、また彰義隊にも多くが参加した。諸大名や民間にも黒鍬が存在した。特に民間においては、(道具の)黒鍬の産地の1つで近くに木曽川・長良川下流の輪中地帯を抱えていた尾張知多郡大野町の土工集団の「黒鍬」組は著名であり、各地に出稼ぎをして土木・治水工事・新田開発のための土地整備に参加した。近くは東海道新幹線の建設にも参加している。
出典:wikipedia
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