大島 裕行(おおしま ひろゆき、1981年6月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)。埼玉栄高校時代から注目を集めていた長打力が持ち味。1998年第80回全国高等学校野球選手権大会に出場、1回戦沖縄水産高戦で新垣渚投手から逆転本塁打を放つ(2回戦敗退)。彼は2年生だったがこの活躍で一躍注目される存在となる。直後の第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表にも選出された。3年時は鳥谷敬のいる聖望学園に敗れて甲子園出場はならなかった。高校時代は通算本塁打86本(歴代3位)を記録(2007年に中田翔に破られるまでの歴代最多記録)。早くから注目を集め、埼玉の怪物と呼ばれたほどである。5球団が1位指名を狙っていると言われたが、本人が地元の西武ライオンズ入りを熱望したため西武が指名。地元の球団に入団したこともあり、入団時から期待の高い選手であった。いわゆる猿顔であり、愛称はサルゲッチュからとったゲッチュ。快活な性格でチーム内ではムードメーカーでありイジられキャラでもあった。プロ3年目の2002年、一軍初出場・初本塁打を記録した。2003年、左の強打者としてブレイクし、後半では5番も任されるほどになった。力で押すだけではなく意外な適応力も見せ、終盤まで打撃の好調を維持し、96試合に出場して打率.307、本塁打7本、二塁打18本を記録した。2004年、6番右翼手で自身初の開幕スタメンの座を手に入れた。開幕直後は好調だったがすぐに失速し、本塁打8本を記録したものの打率は大きく下がってしまった。2005年、二軍で打率.303を記録したが、一軍では50試合に出場してわずか1本塁打と散々な結果に終わってしまった。2006年は二軍でチームトップの打率.270を挙げたものの、一軍では9試合で打率.133に終わった。2007年、開幕一軍の座をつかみ、春先は左の代打の切り札として活躍。4月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦では小林雅英から9回表に代打で逆転2点適時打を打ち、代打5打席連続安打を記録した。代打での打率は.412、得点圏打率は.333とチャンスで活躍したが、スタメン起用された試合では18打数1安打で、打率は.216と伸び悩み、6月に二軍落ち。二軍では打率. 279、5本塁打を打ち主軸打者として活躍したが、一軍再昇格はならなかった。2008年、5月1日の対福岡ソフトバンクホークス戦ではD.J.ホールトンからサヨナラ打の呼び水となる同点適時打や、9月2日の対千葉ロッテマリーンズ戦ではプロ入り初の4番でスタメン起用され、渡辺俊介から3年ぶりの本塁打を放つなど、復調の兆しを見せた。2009年、本人の怪我や、他の左打者の台頭もあって1軍出場はなかった。2010年、6月に昇格すると以降コンスタントに出場。8月13日の対オリックス・バファローズ戦で3安打を放ち、5年ぶりの猛打賞をマークした。ちなみに、この年放った2本の本塁打は、両方とも同い年でプロ入り同期高山久とのアベック本塁打だった。2011年は26試合、2012年は5試合と、世代交代の波にのまれて不完全燃焼で、2年とも本塁打は0本。10月2日、同じチームメイトであるマイケル中村とともに引退を発表。10月30日に、同僚の平尾博嗣、阿部真宏と共に任意引退公示された。左投手相手の打撃、また守備力に難があり、2003年にブレイクした後は長く伸び悩んだ。二軍ではクリーンナップを任され、毎年のように好成績を残すのだが、一軍では再び結果を残すことができずにいた。また、チーム内では佐藤友亮、片岡易之とバント巧者が多くいたが、渡辺久信監督から大島のバント技術はチーム一と言われる等、現役生活後半は巧打者にモデルチェンジした。その後、球団から副寮長に就任することが発表された。着けていた背番号51は埼玉栄高校の後輩である木村文紀へと引き継がれた。副寮長として成果をあげ、2015年シーズンからはスカウト担当編成部。
出典:wikipedia
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