本の雑誌社(ほんのざっししゃ)は、目黒考二、椎名誠、沢野ひとし、木村晋介によって設立された出版社。事務所は東京都渋谷区笹塚にあったが、2012年6月に東京都千代田区神田神保町に移転。書評を中心に本と活字にまつわる様々な話題を扱った月刊誌「本の雑誌」(書籍扱い。当初は季刊。隔月刊をへて月刊化した)を1976年4月より発行している。また、「本の雑誌」の連載内容の書籍化や、連載陣の書き下ろし本、独自に企画した「本に関する本」などを刊行している。『本の雑誌』の創刊は、椎名、目黒の他に、当時『漫画アクション』編集者の本多健治(のち、双葉社取締役)もかかわっていた。また、最初に社員を採用した際は、社員は群ようこ一人だった。また、初期は「本の雑誌」は、関係者による契約書店への自力での持ち込みであった。そのため、「助っ人」と呼ばれる大学生の有志による配本部隊によって助けられていた。のちのマガジンハウス編集者で、女優本上まなみの夫である沢田康彦も助っ人出身。また、お笑い演芸専門誌『カジノフォーリー』の編集長を勤めた、竹本幹男も助っ人出身。助っ人出身者は他に、白夜書房営業部藤脇邦夫、写真家の上原ゼンジ、翻訳家の那波かおり、岩本正恵、絵本作家の本下いづみ、ジャズ評論家の富澤えいち、書評家の吉田伸子、イラストレーターの福井若恵、小学館の編集者の徳山雅記(ステレオグラム本を多数刊行。現「ドラえもんルーム」担当)、編集者・ライターの南陀楼綾繁、落語家の柳家喬之助などがいる。上原と吉田はのち、本の雑誌社の社員になった。ちなみに当時の助っ人へはバイト代は出ず、見返りは、好きなときにカツ丼やギョウザ・ラーメンなどを腹いっぱい食べられることであった(「助っ人」たちの話は、目黒考二の『本の雑誌風雲録』に詳しい)。すべての出版物において、特例を除き書店からの返品を受けない、完全買切制をとっている。小部数の「書評とブックガイド」のミニコミ雑誌としてスタート。椎名のコラムの独特の文体や、従来の書評誌になかったエンタテインメント中心の書評、ユニークな特集、独特の連載陣の発掘などで、人気を博す。1984年から「活字のコラムマガジン」に方針転換し、メジャーな雑誌へと変貌を遂げる。なお当初は「季刊」と称しながら、不定期刊に近かったが、隔月刊をへて、1988年5月号から月刊化。「特小号」など、無意味な号を作ったこともある。また「別冊」「増刊号」なども刊行している。同誌の「編集長」は一貫して椎名誠だったが(ただし創刊号のみ目黒が編集長)、椎名がメジャーな文化人として多忙となったため、「発行人」を2001年までつとめた目黒考二が、長らく実質の編集長役をつとめてきた。目黒が降板後の「実質編集長」は、二代目発行人の浜本茂。なお、2011年1月号をもって椎名は編集人から退き、浜本が名実ともに編集長となった。また「本の雑誌社・顧問」だった目黒も、その職から退いた。巻頭のコラム「真空飛びひざ蹴り」も、長らく椎名が執筆していて、出版業界への辛口な発言で評判を博した。また、読書投稿欄「三角窓口」も、全国の読書好きが参加して盛り上がり、鈴木輝一郎などプロの作家の「常連投稿者」もいた(初期は、投稿一件ごとに椎名が独特の返答をしていて、それが名物であった)。また、中場利一や植上由雄は「三角窓口」の常連投稿者から作家やエッセイストになった例である。毎年、「『本の雑誌』のベスト10」を発表しているが、普通の雑誌が、他から作家や評論家を呼んでベストを決めるのに対し、「本の雑誌」のベストは、椎名誠、目黒考二以下、編集部員、営業部員などの「本の雑誌社の社員全員」で座談会方式で決定するユニークなものである。第一位は、椎名のゴリ押しで、椎名が推した本になることが多い(「この本を一位にしてくれたらいい。あとは任せる。」が椎名の決まり文句)。2008年12月発売の「本の雑誌」2009年1月号で、椎名誠のコラム『今月のお話』及び浜本茂の編集後記において、本の雑誌社が経営危機にあることが発表されている。2015年5月、創刊40周年を記念して、『完全復刻版「本の雑誌」創刊号〜10号BOXセット』が刊行された。2015年、第63回菊池寛賞を受賞。本の雑誌に掲載された文章をまとめたものや、独自の企画など。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。