大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、日本の小説家、活動家。身長172センチ。愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトルの実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎、開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。その後、豊富な外国文学の読書経験などにより独特の文体を練り上げていき、核や国家主義などの人類的な問題と、故郷である四国の森や、知的障害者である長男(作曲家の大江光)との交流といった自身の「個人的な体験」、更に豊富な読書から得たさまざまな経験や思想を換骨奪胎して織り込み、それらを多重的に輻輳させた世界観を作り上げた。作品の根幹にまで関わる先人たちのテクストの援用、限定的な舞台において広く人類的な問題群を思考するなどの手法も大きな特徴として挙げられる。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。主な長編作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』など。1995年に『燃えあがる緑の木』三部作完結、これをもって最後の小説執筆としていたが、武満徹への弔辞で発言を撤回し執筆を再開。以降の『宙返り』から、『取り替え子(チェンジリング)』に始まる『おかしな二人組(スウード・カップル)』三部作などの作品は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置づけている。また戦後民主主義の支持者として社会参加の意識が強く、国内外における問題や事件への発言を積極的に行っているが、その独特の視座における発言が議論を呼ぶこともある。1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちの大江の文学世界の形成に大きく関わることになる。1941年、大瀬小学校入学、この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1947年、大瀬中学校入学。この年新憲法が施行され、「戦後民主主義」に立脚した自身の思想を形成するうえで多大な影響を受けた。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを原因に翌年愛媛県立松山東高等学校へ編入。このときのいじめの体験はのちに『芽むしり仔撃ち』で題材とされている。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを愛読。東高では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。東高在学中、同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。1953年に上京、予備校に通ったのち翌1954年東京大学教養学部文科二類(現在の文科Ⅲ類)に入学。学生演劇の脚本として「天の嘆き」「夏の休暇」を執筆、教養学部学友会機関紙に「火山」を掲載し銀杏並木賞受賞。このころパスカル、カミュ、フォークナー、ノーマン・メイラー、安部公房などを愛読、とりわけサルトルに関心を抱く。1955年、「文藝」全国学生小説コンクールに「優しい人たち」で佳作(この時の佳作第一席は岡松和夫)。1956年、文学部フランス文学科に進み、かねてから愛読していた渡辺一夫に師事、この頃よりサルトルを原書で読み始める。学生演劇の脚本「死人に口なし」を執筆、また戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに当選。同年10月、立川基地拡張反対のデモに参加した。1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載され、『毎日新聞』で平野謙の激賞を受ける。これを契機として同年『文學界』に「死者の奢り」を発表し、学生作家としてデビュー。「他人の足」「石膏のマスク」「偽証の時」を次々に発表。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となり、川端康成や井上靖、舟橋聖一の推薦を受けるが、この回は開高健の『裸の王様』が受賞した。デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも安岡章太郎や川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している。デビューの翌1958年、自身初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を発表。同年、「飼育」で第39回芥川賞を23歳で受賞。1956年の石原慎太郎に続いて当時最年少タイでの受賞となった。選考委員の川端康成は、「芥川龍之介と大江健三郎では時代も、才質も作風も違うが、23、4の学生が、異常な題材を小説に仕上げた点を芥川と似通ったものと解釈し、芥川龍之介の名前を冠した賞に加えたいと思った」とした。一方、舟橋聖一は前回の芥川賞の選考に異議を唱える立場から、「飼育」よりも「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行っている。また、同1958年に、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。1959年、東大卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。同年書き下ろし長編『われらの時代』刊行。この作品から青年であることへの鬱屈と虚無感、グロテスクに閉塞したセクシュアリティを主題の一環として前面に押し出すようになり、痛烈な批判を受けたものの、この作品によって第一の作風転換を遂げる。同年に武満徹と知り合う。1960年、伊丹ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。1961年、「政治と性」を主題とした作品「セヴンティーン」を『文學界』1月号に、続編「政治少年死す―セヴンティーン第二部」を翌月号に発表。浅沼稲次郎暗殺事件に触発され、犯人の山口二矢をモデル人物として、「性に耽溺し、政治に陶酔する右翼少年」(文庫本裏の梗概より)を描くが、「風流夢譚事件」と同様にこの作品をめぐって文藝春秋等に右翼団体から脅迫が行われた。このため「政治少年死す」はその後の単行本に収められていない。ただし『大江健三郎全作品1』所収の自筆年譜によれば、本作が「現在までの短編集に採録されていないのは、作家自身の意志によるものではない」としている。1963年、長男の光が頭蓋骨異常のため知的障害を持って誕生。重い「障害を持つ子」の誕生は、戦後社会に希望を持てない青年と、その社会に対する絶望的な反抗や呪詛を独自に描いてきた作家にとって、精神的な転機をもたらした。1964年、光の誕生をうけての擬似私小説的作品『個人的な体験』で第11回新潮社文学賞受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親「鳥(バード)」が、様々な精神遍歴の末、想像力によって現実に向き直るに至るまでを描いた作品であり、もともとサルトルによってその意識を深められた「想像力」の概念は、これ以降の大江にとって非常に大きな主題・手法のひとつとなった。ただしこの作品のプロットについては、ジョン・アップダイク『走れウサギ』(1960年)との類似、ないし本歌取りの可能性を指摘する声もある。同年、広島に何度も訪れた体験や世界原水爆禁止大会に参加した体験を元にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始。これ以降の大江は、障害を持つ子供を中心とした「個人的な体験」と、広島・長崎の被爆や戦争という「人類固有の悲劇」とを対応させ、自身の主題として深めていく。1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表、最年少(2015年現在破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞。万延元年(1860年)に四国の村で起こった一揆と、100年後の安保闘争とを重ね合わせ、閉鎖的情況における革命的反抗を描き大きな反響を呼んだ。この頃前後から70年代の作品で顕著になる大江独特の文体は、格や注釈、修飾・被修飾の対応関係などが混濁するためしばしば難解で悪文であるとも言われるが、近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる(散文)詩的な言語として、ノーベル文学賞に選出された際の受賞理由として挙げられている(ただしその後大江は作品にあわせて文体を適宜調整する書き方も行っている)。今日では大江の代表作・最高傑作などと名高い作品ではあるが、かつて大江を評価していた江藤淳は厳しく批判し、以後は長い対立関係が形成された。日本社会と地続きの異常な小世界群を描き出した短篇集(『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年))を経て、1971年に発表された中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」では、前年の三島事件を受けて現行の天皇観を批判的に問い直すことを主題とし(巻頭の短文に三島への揶揄的な記述も見られる)、その後のカタストロフ的なヴィジョンを援用した『洪水はわが魂に及び』(1973年、野間文芸賞受賞)、『ピンチランナー調書』(1976年)では天皇制や核の問題を考えつつ、リアリズムを超越した世界観を描き始める。ここで大江の後期のテーマである「魂の問題」「祈り・赦し」といった宗教的な問題に深く接近していき、更なる転換を遂げる。40代から山口昌男らの文化人類学の影響を受け、1979年に発表された『同時代ゲーム』において「村=国家=宇宙」の歴史を書く主人公の物語を描いたが、文芸評論家からは名声を確立したあとの「奢り」のようなものとして批判を受けた。ただし大江自身は、宇宙の創建者である「壊す人」や魂の問題を取り上げたものとして、自身の作品の中でも重要なものと位置づけている。1982年、連作集『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』を発表、翌年に第34回読売文学賞受賞。なお、武満徹はこの連作集の第一作「頭のいい「雨の木」」に触発された「雨の樹」(レイン・ツリー)を作曲した。連作第二作「「雨の木」を聴く女たち」は、この曲の初演を受けて執筆されており、小説中にコンサートの場面が出てくる。1983年の『新しい人よ眼ざめよ』では、ブレイクの詩を引用し、ブレイクのテクストやそれにまつわる研究を繰り返し読むことで導かれた思考を大江自身の子供の言葉と重ね合わせつつ、静謐な筆致で私小説的に私生活を描き、第10回大佛次郎賞受賞。1985年には連合赤軍事件を思想的に総括した『河馬に噛まれる』、1986年には『同時代ゲーム』の世界観を現実世界と照応させるこころみとして『M/Tと森のフシギの物語』、1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにして自身の半生・思想の遍歴・主題の変遷などを叙事的に描いた『懐かしい年への手紙』を発表、自身の作風の総括的な仕事を連続しておこなった。1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公とし、子供を失った女性の悲劇と再起までを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞した。1989-1990年に発表された連作『治療塔』および続編の『治療塔惑星』では、広義のSFの枠組みとイェイツの詩(既存の詩歌の引用に大きな手法上の役割を持たせるのも後期作品の特徴の一つ)を借りながら核と人類救済の主題を描いている。1993年9月より、『新潮』において自身最長の三部作『燃えあがる緑の木』の連載を開始。連載中の1994年10月13日に「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。その世界では生命と神話が凝縮されて、現代の人間の窮状を描く摩訶不思議な情景が形作られている (who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today )」という理由でノーベル文学賞を受賞、川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者となる。12月7日にストックホルムで行われた晩餐会での基調講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端のいう美しいという概念はvague(あいまい、ぼんやりした)で実体が定かではない神秘主義に過ぎないとし、自分としては日本をambiguous(あいまい、両義的)な国としてとらえると述べ、前近代−日本と近代−西洋に引き裂かれた国、としての日本を語った。11月より『燃えあがる緑の木』刊行開始。四国の村を舞台とした「救い主」による伝承の復活・教会の「救い主」一派への攻撃・村民と教会の激しい対立といった筋立ての中に、アウグスティヌスやイェイツを引いての考察で「魂の救済」の主題を突きつめつつ、それまでの全自作の集大成を行った。1995年1月、1994年度朝日賞受賞。1995年に当初自身の「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結したが、1996年に武満徹の告別式の弔辞において新作を捧げる発言をし、1999年の『宙返り』で執筆活動を再開した。テロを防ぐために「棄教」した教祖「師匠(パトロン)」による波乱と殺人の中での教団の再建を描いており、三人称の語りを導入するなど様々な意味での転換作となった。以降の創作活動は大江自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と形容している。伊丹十三の死をうけて書かれた『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)、『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)は、すべてに「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。三部作最後の『さようなら、私の本よ!』では、三島由紀夫と戦後の問題を自身の人生と重ね合わせ、デビュー作の『奇妙な仕事』に回帰するという複雑な構成を取った。三部作をはさんで2002年には、自身の唯一のファンタジーとして児童向けに『二百年の子供』を発表している。その後2007年には、お蔵入りとなった映画を再度作り上げようと奮起する「おかしな老人」たちの老いらくの冒険譚『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(らふたし〜)が新潮社、2009年には、身辺の凶事の中で父の水死を描こうとする作家の巻きこまれた騒ぎをヴァラエティに富んだ語り口で描く『水死』が講談社よりそれぞれ発売された。『燃え上がる緑の木』の後日談的総括ともいえる『宙返り』以外の「後期の仕事」は、すべてが自身を重ねあわせた小説家・長江古義人をめぐる虚実入り乱れた物語であり、自身をめぐる物語に虚構の騒動を交えて自身の思考を語りなおす、という手法が踏襲されている(この形式には大江自身も自覚的であり、『水死』の作中にも「老作家のあいも変わらぬ自己模倣」などといった韜晦のような表現がある)。また、全編にわたって先行する文学・芸術などからの放縦な引用に加えて、過去の自作の引用・再話・換骨奪胎・再構築が行われている。創作以外の活動としては、2006年に大江健三郎賞が設立されるにあたり、次代の若き作家を称揚する動きをみせている。戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、「護憲」の立場から核兵器や憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。また芸術院会員となったり文化勲章を受けたりする文学者の姿勢には批判的であり、ノーベル文学賞は“スウェーデン国民から贈られたと言えるもの”として賞を受けたが、その直後に天皇からの親授式を伴う文化勲章と文化功労者のセット授与が決定した際には、「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」として受章を拒否した。2003年の自衛隊イラク派遣の際は「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した。2004年には、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。東アジア外交については、2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺紀念館などに訪れた。北京大学付属中学校で行われた講演では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に触れて「日本と日本の若い世代の将来を最大限に損ねるものだ」と述べた。2012年9月28日には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の本島等、元「世界」編集長の岡本厚ら進歩派の知識人、文化人ら1300人と共同で発表。尖閣諸島も竹島も過去に日本が侵略したものだという立場を示した。尖閣諸島に「領土問題は存在しない」とする日本政府の立場を批判する一方で、台湾の馬英九総統の対話提案を高く評価している。2005年8月に梅澤裕と赤松嘉次の遺族が、名誉毀損で賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。大江が1970年の著書『沖縄ノート』にて、赤松嘉次陸軍大尉について「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定した上、多くの誹謗中傷を書いたと訴えられたものである。しかし大江は、『沖縄ノート』には2者の名前はないこと(これは原告も認めている)、「罪の巨塊」という表現で沖縄戦での日本政府・軍の責任を批判したものであり、名誉毀損ではないと反論している。また執筆のソースとなったのは沖縄タイムス社の『鉄の暴風』であり、執筆当時として信頼に当たるものだし、本人も体験者の話を聞いた上で書いたと述べている。2008年3月、大阪地裁は大江の記述は真実と信じる十分な理由があり、名誉毀損は成立しないとして原告の請求を棄却。2008年10月、大阪高裁は控訴を棄却。2011年4月、最高裁は上告を棄却。遺族らの敗訴が確定した。1968年5月28日紀伊国屋ホールで「核時代への想像力」と題して講演し、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べた。しかし、2011年の東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に際して、米誌「ニューヨーカー」に「歴史は繰り返す」を寄稿し、「原発建設は人命軽視の姿勢を示すもので、広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」と意見を述べている。小林よしのりは、日本軍の描き方などを究極の差別ブンガクと批判している。著作は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、スペイン語などに翻訳されているものも少なくない。なお現在新潮文庫から出版されている初期の短篇集は、文庫オリジナルの再編集が施されている。
出典:wikipedia
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