株式会社西洋環境開発(せいようかんきょうかいはつ)は、日本にかつて存在した不動産デベロッパー。本社はサンシャイン60ビルに所在した。1970年に堤義明を中心とした国土計画・西武鉄道グループから堤清二の西武百貨店・西友などの西武流通グループ(セゾングループ)が分離する際に、義明の要請から肥料製造などを手掛けていた西武化学工業が流通グループ入りしたことが発端となっている。清二自身、製造業に多少ばかりとも興味があったばかりか、これまで西武百貨店や西友が銀行融資を受ける際に担保不足分は西武鉄道が債務保証をしていたのを、不動産を多く所有していた西武化学をグループ入りさせることで担保力の増大を図る目的もあり(鉄道への依存を薄める目的もあって)、西武化学の発行する株式の全額を西武百貨店で引き受けた上で、倍額増資するという方法でグループ傘下となった。その後1972年1月に不動産・開発部門は西武都市開発、製造部門は新しい西武化学工業(後の朝日工業)へと会社分割を行い、さらに同5月には西武百貨店の開発部門を独立させたディベロッパー西武を吸収合併した。この頃には田中角栄が唱えた列島改造による土地ブームにのって、清二と義弟で都市開発社長だった森田重郎の二人三脚で仙台から九州までの土地を取得した。しかしその後のオイルショックによる狂乱物価等によって、土地は塩漬けとなり借入金700億円が残った上に1976年には倒産の噂まで出た。このため森田が責任を取ってグループ内の職を辞するとともに清二自ら国土計画本社を訪れ義明に対し支援要請し、不動産の専門家を派遣して貰って都市開発さらには西武流通グループに対する信用不安は生ぜず事なきを得た。その後、1983年に東京テアトル、1985年に東海観光(現:アゴーラ・ホスピタリティー・グループ)へ資本参加して傘下に収めた上に、1986年に横浜の不動産会社である太洋不動産興業とシティ・クリエイトを吸収合併し社名を西洋環境開発(西環)と変更した。同年には日本郵船とも業務提携し、加えてホテルエドモンド(現:ホテルメトロポリタンエドモント)の運営参画、地中海クラブとの提携、シェル石油の関連会社であったシェル興産との提携による六本木WAVEビルの建設やシェルガーデンへの資本参加など一挙に業容を拡大した。1980年から販売が開始された汐見台ニュータウン、85年販売開始の桂坂ニュータウンは個性的な住宅地として世評が高かったほか、80年代から特別清算申請後までには「ヴィルヌーブ」ブランドで分譲マンションの開発・販売も行っていた(西洋ハウジングが受託販売)。また1963年、西武百貨店不動産部が開発に着手しそれを引き継いだ八ヶ岳高原海ノ口自然郷では音楽堂を建設。従来の別荘分譲とは異なる新しいモデルを確立した。このほか生活を楽しむ「生活遊園地」をキーワードに約12年の歳月かけ完成させた「つかしん」は、関西地区や全国におけるセゾンGや西環の知名度向上に貢献した。アーティスティックな活動で注目された清二は小売業の域から脱することを目論んで「生活総合産業」を謳い、不動産開発に傾倒するようになる。これは西武グループの中核部分を父康次郎から引き継いだ異母弟義明への対抗心からではないかとも指摘された。西環はバブル景気による過剰投資が祟り、94年度末までに関連会社まで含めて7,527億円もの負債を抱え込むに至り、日本興業銀行から清二に対して西環の経営が重大な局面に達していると通告された。それを受けセゾンGは、第1次西環支援を実施し、手掛ける事業は、住宅、ビル、八ヶ岳事業に絞り込まれた。金融不況に突入した97年以降西環の処理は、第一勧業銀行(DKB)・IBJら取引8行の懸案事項となった。またその渦中には、メインバンクであったDKBにおいて総会屋事件が発覚。行内の混乱によってそれまでの経過や合意事項の引継ぎがほぼすべて反故となった。さらに西武百貨店トップに就任し改革を断行していた和田繁明と清二および、百貨店首脳とグループ首脳との間に深刻な軋轢が生じ、西環の帰趨に重大な影響をもたらした。00年7月、臨時株主総会で解散を決議。東京地裁に特別清算を申し立てた。負債総額は約5,538億円にのぼり、事実上倒産した。西環の経営破綻はセゾンG解体の大きな要因となった。
出典:wikipedia
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