株式会社三省堂(さんせいどう)は、日本の出版社である。辞典・事典・六法・教科書などの出版で知られる。本社はJR水道橋駅と神田川に挟まれたエリアにある。この場所は、かつて自社印刷工場の倉庫として使われていた場所であった。1881年(明治14年)、旧旗本の一族である亀井忠一により古書店三省堂書店として創業され、出版事業には1884年(明治17年)に進出。当初より、辞書、事典、教科書、地図(現在は事実上撤退)などの出版や、教材の販売など、教育、学術分野を事業の中心とした。当時、辞書出版の分野でライバルとも言えた冨山房は大型で専門家向けの辞書が多かったが、三省堂はどちらかと言えば小型でも実用的な辞書に力を入れ、そのために1889年(明治22年)には自社印刷工場を開設し、後に専用活字も制作した。1915年(大正4年)に、個人経営だった三省堂書店の出版・製造部門が「株式会社三省堂」として独立、法人化する。その後、1974年(昭和49年)の辞書定価シール貼り事件から、出版業界最大の負債50億円を抱え倒産、これを機会に、創業者一族が三省堂の経営から離れ、直接の資本関係もなくなった。三省堂書店は現在でも、創業者一族の経営である。製造部門は1981年(昭和56年)、三省堂印刷として独立、法人化された。三省堂印刷は、八王子市の本社工場で組版・印刷・製本の一貫製造をおこなっている。これは、分業体制の確立した印刷・製本業界で、特に上製本のラインではめずらしい。また、三省堂は戦前から社外の印刷物を受注しているが、戦後になってから受注するようになった日本聖書協会(プロテスタント・カトリック系)の聖書は、大半を三省堂印刷で印刷、製本するまでになった。近年は、辞典・事典・六法・教科書・参考書・一般書などを出版。特に、『廣辭林』や、明解・コンサイス・クラウンなどを冠する辞書では、一時代を築いたと言えるほど代表的な辞書となっている。国語・英語の検定教科書でも知られるが、現在はかつてのような高い採択率ではなくなっている。国語辞典として国内最大の販売数量を誇る『新明解国語辞典』は、語釈や用例がユニークかつストレートなことで有名で根強いファンがいる。これは編集主幹の山田忠雄がほとんど独力で編纂しており、彼の思想が色濃く表れている。ただし、前身の『明解国語辞典』は見坊豪紀が編者であり、この段階では山田は協力者であった。その後、見坊は『三省堂国語辞典』の編者に、山田が「新明解国語辞典」の主幹にそれぞれなった。どちらも『明解国語辞典』を元にしているが、改訂が進むにつれて性格の違いがはっきり判るようになった。『新明解国語辞典』は、重要な語であれば古くとも残し、必要であれば語釈を長くするのも躊躇しない。それに対して、『三省堂国語辞典』はいわばアグレッシブであり、積極的に新語を入れ、語釈は本質を突いた簡潔な表現とする。一冊ものとしては大型の国語辞典(中型国語辞典)として、『広辞苑』と市場を争う『大辞林』は、徹底した現代語中心主義で支持を得ている。現代語・カタカナ語が豊富なこと(「ローリング-ストーンズ」という項目もある)はもちろん、語釈の記述も原則的に現代語を先に、古語を後に記述している。 しかし、古典・方言などは『広辞苑』が優勢である。現在ではすっかり影が薄くなってしまった中型国語辞典に金沢庄三郎(現在の編者は三省堂編修所)の『広辞林』がある。しかし、戦前に発行された『廣辭林』は、全国のほとんどの中学生が使っていたというほどヒットした国語辞典で、現在でも古書店で簡単に入手できるほどである。金沢は日本語と朝鮮語の比較研究をおこない、『日韓両国語同系論』などを発表したため、朝鮮半島併合の推進者に度々利用されることとなった。(当時の国名は「大韓帝国」であった。)作家の三島由紀夫は少年時代からずっと『廣辭林』を愛用し、ボロボロになるまで使っていた。新しい『広辞苑』には愛着がなく、『廣辭林』が一番使いよいと述べていた。明治・大正・昭和と長期に渡って小型英和辞典の代表として親しまれた『コンサイス英和辞典』は、店頭ではあまり見かけなくなった。これは、机上で常用する辞典としては『グランドコンサイス』のような中辞典クラスが、逆に携帯用であれば小型の『デイリーコンサイス』が好まれるようになり、『コンサイス』が中途半端となったためと思われる。つまり、多くの中高生・大学生が複数の辞書を持ち、それを使い分けることが容易な価格になったのである。実際、物価上昇を考えると、辞書は明らかに安価となった。余談だが、敗戦直後、巻きタバコの巻紙の代用品として民間で多用された。比較的大型の英和辞典としては、以前は『カレッジクラウン英和辞典』や『新明解英和中辞典』があった。どちらも評判は悪くなかったが、長らく改訂されず、そのまま在庫切れとなった。その間、研究社の『リーダーズ英和辞典』がヒットするなど、読者の大型志向が明らかになり、再度、大型の英和辞典が投入された。『グランドコンサイス英和辞典』(編者は三省堂編修所)である。最近では『ウィズダム英和辞典』が三省堂独自のコーパスを構築したうえで編纂され2003年(平成15年)に発売されたが、2006年(平成18年)秋に改訂、ウェブと同時に使うことのできるデュアル・ディクショナリーとして発表され、同じブランド名をもつ『ウィズダム和英辞典』も刊行された。2007年(平成19年)4月から、デュアル・ディクショナリーからウィズダム英和・和英の用例をコーパスとする「用例コーパス」が無料公開されている。現在では、百科事典の版元として平凡社や学習研究社が著名だが、日本独自の百科辞典は大隈重信が編纂し、三省堂から刊行された『日本百科大辞典』(全10巻、1908年~1919年)が最初だった。(当時、「事典」という言葉はまだなかった) 優れた百科辞典の刊行は、その国の文化のバロメーターと言われるほど重要なことであったため、それを祝う発刊披露園遊会が開かれた。この園遊会には、渋沢栄一など、政財界からも多くの出席があった。なお、出版費用があまりに多額であったため、資金不足から三省堂は倒産してしまうが、支援者に恵まれて再建、全10巻の刊行を果たした。 また、1937年(昭和12年)に刊行された『婦人家庭百科辞典』も、戦前の代表的百科のひとつだ。現在、筑摩書房より文庫として復刻されている。三省堂は三省堂書店の出版・印刷部門が1915年(大正4年)に独立したもの。現在は直接の資本関係はない。だが、以前は共同で設立した三省堂企画があり、主に贈答品、記念品といった用途に三省堂の辞典に名入れしたものや、オリジナルの辞典・事典を制作していた。(現在は解散し、事業は三省堂が引き取った)また、三省堂書店の出版子会社である創英社が三省堂印刷に印刷・製本を発注することがあるほか、健保の三省堂健康保険組合を共同で運用していた。
出典:wikipedia
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