谷風 梶之助(たにかぜ かじのすけ、1750年9月8日(寛延3年8月8日) - 1795年2月27日(寛政7年1月9日))は、仙台藩・陸奥国宮城郡霞目村(現・宮城県仙台市若林区霞目)出身の元大相撲力士。本名は金子 与四郎(かねこ よしろう)。この項で扱う谷風は2代目であるが、後年の文献など通俗上初代と扱われる場合も少なくない。初代は元禄時代の大関であり讃岐の谷風と称されていたが、これに対して2代目は仙台の谷風と称されていた。第4代横綱だが、実質的な初代横綱。江戸時代の大横綱で、大相撲史上屈指の強豪。また、力量・人格の面で後の横綱の模範とされた。先祖が長期に渡って国分家の家臣として流鏑馬の矢取を務めており、苗字帯刀を許されていた豪農の一家に長男として生まれる。7歳の時、隣家の主人の東兵衛から「あの俵を運べたらあげるよ」言われて玄米の五斗俵を持って運び、幼いながらもその怪力に驚いた東兵衛はすぐ謝罪し、その場にあった饅頭と取り替えた。さらに入門前は白川にあった酒造家で奉公に出ていたが、通常は7人程度でやっと持ち上げられるほどの酒を搾る締め木の天秤石をたった1人で持ち上げた。1768年(明和5年)に力士となり、「秀の山」と四股名を名乗った。1769年(明和6年)4月場所には伊達関 森右エ門(だてがせき もりえもんと改名し、看板大関として初土俵を踏む。「伊達関」の四股名は仙台藩の伊達氏より下賜されたものだが、翌場所から伊達氏を憚り、達ヶ関と改名した(読みは「だてがせき」のまま)。1770年(明和7年)11月場所に前頭筆頭から再スタートを切ると徐々に地力を増し、1776年(安永5年)10月場所に2代目「谷風 梶之助」と改名。1781年(天明元年)3月場所後に大関へ昇進する。1784年(天明4年)には江戸相撲の浦風与八に見出され、江戸に来た雷電爲右エ門を預り弟子として鍛え上げた。さらにこの頃、小野川喜三郎や雷電爲右エ門とともに、最初の相撲黄金時代を築いた。後述の横綱制度や結びの一番終了後に執り行われる「弓取式」など、現在も残る相撲界の形式の多くがこの時代に作られた。1778年(安永7年)3月場所初日から1782年(天明2年)2月場所7日目まで、分・預・休を挟みながら江戸本場所で土付かずの63連勝(止めたのは小野川喜三郎)、さらにその後43連勝を記録した。この63連勝は、約150年後に双葉山定次が69連勝を達成するまで最多連勝記録保持者だった。しかし、この63連勝は江戸本場所だけの連勝記録で、京都本場所・大坂本場所の成績も含めた場合は、1782年2月場所8日目から1786年3日目まで98連勝を達成していることとなる。幕末までは江戸・京都・大坂のレベルはそれほど差が無く、さらに江戸 - 京都 - 大坂間の力士の往来と各場所の交流は自由だったものの、一般的に連勝記録とは「江戸本場所の63連勝」を指す。しかし、江戸・京都・大坂まで含めた98連勝は最多連勝記録で、現在でも未だに破られていない。この98連勝は間に「5分・5預・3無」を含んでいるため、双葉山定次・白鵬翔のように完全に白星だけを連ねた連勝では無い。もし、「分・預でも連勝は中断される」とする解釈であれば、谷風の連勝は23に留まる。ただし当時は現在のような取り直しの制度がなかったためでもあり、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば瓊ノ浦戦での物言い相撲や、玉錦との水入りによって69連勝が中断していたことになる。それでも、谷風は江戸・京都・大坂を通じて80連勝以上を2回記録しており、連勝においては他の追従を許さない圧倒的な記録を保持している。ちなみに、江戸本場所の連勝記録を63で止められた小野川喜三郎との取り組みに勝利していれば、江戸・京都・大坂を通じて183連勝になっていた。1789年(寛政元年)11月19日、小野川喜三郎とともに吉田司家の吉田追風から最初の横綱免許を授与される。この時が実質の横綱制度の発祥とする見方が現在では定説である。1791年(寛政3年)6月11日には徳川家斉の上覧相撲で、小野川喜三郎と取り組みを行う。この時に将軍家から弓を賜り、これを手に土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。1795年(寛政7年)1月9日、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、35連勝のまま現役死した。。このことから風邪を「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が生前に「土俵上でワシを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪にかかった時に来い」と語った時に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。出身地である宮城県仙台市では、昔から俚謡で「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風、いま伊達模様」と謡われ、現在でも伝わっている。谷風の墓は1928年に参道設置や周辺整備が行われたが、大日本帝国陸軍飛行学校の仙台飛行場(現・陸上自衛隊霞目駐屯地)の拡張に伴い、1942年に仙台市若林区霞目へ移転した。2011年3月11日に発生した東日本大震災で墓石が大きく移動したが、墓は背後の木に支えられて倒壊を免れた。なお、墓の東方には霞目字谷風という地名が残る。仙台市青葉区の勾当台公園には、谷風像が設置されている()。新横綱が誕生した後、最初に行われる仙台巡業の際には、谷風像の前にて新横綱が土俵入りを奉納するのが恒例とされている。また、仙台駅西口には「谷風通」との愛称が付けられた道路がある。力量だけでなく、人間的にも立派で品格抜群である。そのため、谷風は歴代横綱の第一人者と称され、実質的な初代横綱として模範とされる大横綱である。天下無双の大横綱にふさわしい実績から、四股名「谷風」は止め名になっている。連勝を止められたその後も小野川との対戦は、興行が札止めになっても観客が詰めかける話題の取組となった。対戦成績は谷風の6勝3敗2分2預3無だった。体格は、全盛時代で身長189cm、体重169kgのアンコ型巨人で、足袋の中に白米が一升五合入ったと伝わる。また、谷風の末裔の家に保管されている大腿骨が約48cmあり、大腿骨は法医学的におよそ身長の4分の1と言われるが、4倍すると192cmになり、言い伝えられている身長が決して誇張でない証拠である。なお谷風のものと伝えられる手形を記載した江戸時代の書物(復刻本)がある。実力・品格の反面晩年は大変気難しい部分もあったとされ、1790年に入ったころ15歳程度だった妾が取り成さないと稽古場にも下りなかったという事実が数々の古典や文献などに記されている。三木貞一の随筆によれば、ある時既に横綱を免許されていた谷風は弟子のことで「撲ち殺してやる」と言い放つほど激昂しており他の多くの弟子が詫びを入れても聞き入れずますます腹を立てていたところ、弟子の一人が当時17歳だった谷風の妾を騒動の現場まで駆けつけて自室に籠ったまま出て来ない谷風を宥めたことであっさり事が治まったとされている。
出典:wikipedia
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